サリー州リトル・ウィンジング、プリベット通り四番地。クリスティーンはなんの面白味もないマグルの住宅街にいた。いつも通り蘇芳色のケープコートを纏い、その手には革のアタッシュケースが握られている。
赤みの強いストロベリーブロンドが、凡人蔓延る住宅街でひと際目立っていた。赫々と陽の光を蓄えて、通りすがる人々の視線を一身に集めてしまう。巍然とした佇まいもそれを助長していた。閑散とした住宅街でただ一人、クリスティーンの齎す空気感は「まとも」とは言い難いだろう。
無論、本人がそんなことを意に介すはずもない。
庭先で車をメンテナンスしている一軒家の前でクリスティーンが足を止めた。恰幅がいい……というより明らかに肥満体形な男と、年端もいかない眼鏡をかけた少年が口論をしているのをクリスティーンは静観する。
「聞き分けのないやつだ! エンストした以上、車を出すなんざ不可能だ! お得意の魔法とやらで直してみたらどうだ? ええ!?」
「そんな、ありえないよ。だって昨日までは……」
「黙れ! いいか、今日こそダドリーを病院につれていく予定だったんだ。あの毛むくじゃらな大男が余計なことをしでかしてくれたからな。お前たち狂人どもの噂をされかねんのに、誰が好んでバスなんか使うものか!」
「でもバスなんか待ってたら間に合わないよ! 9と4分の3番線は十一時に出るんだ。すぐにでも出ないと乗り遅れちゃう」
「9と4分の3番線? 阿呆らしい。お前たちは魔法を学ぶ前に現実を直視すべきだ。そんなものは存在しない。行くだけ無駄だ。ふざけた切符など捨ててしまえ。大方、頭のネジが外れたあ奴らの悪あがきに決まっとる!」
口角泡を飛ばし、肥満の男が車のボンネットを思いきり叩く。しかしハリーも退くことはできなかった。ダイアゴン横丁で入学準備をしてから一か月もの間、この日をずっと待ちわびていたのだから。
ただ、クリスティーンが見る限りこの一軒家の家長であるバーノンは嘘を言っていなかった。血走った目と上気した顔でまくしたてる姿が演技だとしたら、今からでも俳優を目指せるだろう。愛車のボンネットが凹むほどの憤りだから尚更だ。
面白いものが見れた。これ以上はクリスティーンも時間が惜しい。未だに睨み合いを続ける両者の下へ割って入ろうと、口論を横目にクリスティーンは白々しくインターホンを押した。
「誰だ!? 見ての通り忙し───ほんとに誰だお前は?」
「クリス! どうしてここに!?」
「おはようハリー。ミスター、朝から愉快なご家庭なようで……ご近所様も興味津々みたいだ。程々になさったらどうかな?」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてクリスティーンが言う。お冠のバーノンには火に油だ。脂汗の滲む真っ赤な顔が更に茹で上がった。
「そうか小娘、お前もあの気狂いどもと同族か。ダンブルドアとかいう異常者の」
「おや、私の後見人をご存じのようで。あの爺さんは確かに変わり者だ。いつも週末に靴下を編んで寝不足になってばかり……私も介護するのに精一杯だよ」
「あの奇天烈な格好をした……イカれた連中のことか。身銭を切らないどころか、オムツ一つ用意せずに小僧を押し付けられた。いいか小娘、後見人とやらに伝えておけ。小僧は不幸なトラブルで間に合わなかったとな。不可抗力だ。魔法とやらでもどうにもならない、仕方ないことだ……」
「承知したよ。まあ、お宅らがフクロウの抜け羽と手紙の海で溺死するかもしれないが、それも私からすれば仕方のないことかもしれないね」
バーノンが目に見えて狼狽し、すぐに咳払いをして取り繕う。ホグワーツからの手紙はダーズリー家のトラウマとなっているらしい。ハリーは顔を背けながらぷっと吹き出した。
クリスティーンは玄関前に置かれた大きなトランクを片手で拾い上げ、残った小さいトランクとヘドウィグが眠る鳥籠を顎で促した。華奢な細腕で軽々と持ち上げたのを見て、バーノンはポカンと口を開けたまま呆気に取られる。ハリーは慌てて荷物を拾い、スタスタと通りの車道へと踵を返すクリスティーンの背中を追った。
「ま、待て小僧、小娘! どこへ行くつもりだ!?」
我に返ったバーノンが呼び止めた。クリスティーンはすっとぼけたように小首を傾げて言う。
「決まっているじゃないか。キングス・クロス駅さ」
「残念だったな! 今からバスを待っても十一時に間に合うものか。空飛ぶ絨毯や箒にでも乗っていくのか? 9と4分の3番線とやらに。バカバカしい」
「バス? ミスター、貴方は何を言っているんだ。あそこにあるタクシーが見えないのかい? それとも何か、ダーズリー家はタクシーを知らないと? 「まとも」である貴方達が?」
言われて、バーノンとハリーはクリスティーンの進行方向を道なりに目で追う。その先にはタクシーが一時停止をしていた。至って普通な、そこら辺を走っているようなタクシーがだ。
バーノンが再び硬直した。常識知らずで、無礼千万で、妄想ばかりを垂れ流す魔法使い共がタクシーを? 信じられない、そう言わんばかりの表情だった。それはハリーも同じだったようで、タクシーとクリスティーンを交互に見ながら目を白黒させる。
クリスティーンはハリーを半眼で見据えて言った。
「ハリー、まさか君もタクシーを初めて見たわけじゃないだろうね?」
「い、いやそんなことないよ……だってイメージと全然違う。なんかこう、これから魔法学校に行くんだって感じじゃないというか」
「空飛ぶ箒を見たのに、空飛ぶタクシーは考えなかったのかい?」
「魔法界の車って空を飛ぶの!?」
「飛ぶわけないだろう。あれはただのタクシーさ」
「ええ……」
困惑するハリーに目もくれず、クリスティーンは運転手らしき男へとトランクを押し付けた。よれよれのスーツを着た壮年の男である。くたびれた雰囲気を纏ったその男は、クリスティーンの傍若無人ぶりに苦笑しつつ慣れているようだった。
リアの荷室に大きいトランクを押し込み、次いでハリーの持つ小さいトランクへと男が手を差し出す。クリスティーンが頷くのを確認し、ハリーはおずおずとトランクを手渡した。
「ハリー、君は車内で待っていておくれ」
悪戯めいたウインク投げて、クリスティーンはバーノンの下へと戻っていく。ハリーは運転手に促されて助手席へと乗り込んだ。
「クリスがすまないね。悪気はないんだ。ここ一か月、君のことをずっと話してくれたよ」
ハリーの荷物を仕舞い終えた運転手が、運転席に腰を下ろしながら困ったように笑う。まるでじゃじゃ馬娘に手を焼かされている父親のようだ。ハリーは不思議と、運転手の男に親しみを感じていた。
「悪気だなんて、そんな。今日だって助けてくれなかったら間に合わなかったし……僕の方こそ迷惑をかけてます」
「あの子は変わっていてね。迷惑どころか、君を手助けすることに生きがいを感じているようなんだ。そして私も同様に変わり者で、こうして君と出会えたことに感謝をしている」
「それは……僕が『生き残った男の子』だから?」
「彼女にとってはそうかもしれない。だが私は違う。私にとっての君は、ジェームズとリリーの一人息子なんだ」
穏やかな声使いだった。男はシートベルトを締めると、握手の為にハリーへと腕を伸ばす。
「リーマス・ルーピンだ。よろしく、ハリー」
男のやつれた雰囲気が搔き消されるほど、強い意志が秘められたその瞳を、ハリーはかつて見たことがあるような気がした。記憶の彼方へと消え去った、昔日の残影に────
◆◇◆
車の周りをグルグルと、バーノン・ダーズリーが落ち着かない様子で歩き回っていた。
ピカピカの新車がエンストとは粗悪品を掴まされたらしい。怒りのあまり凹まされたボンネットは妙な哀愁が漂っている。この一家もとんだ災難だ、同情する気など全く湧かないが。
戻ってきた私に気づいたのか、バーノンは不快さを取り繕うともせず睨みつけてくる。玄関ドアの向こう側では、神経質なご夫人とウスノロな悪ガキが怯えたように身を隠して聞き耳を立てていた。
その身に余る光栄だというのに、私が視線をくれてやると慌てて逃げてしまう。ダーズリーどもはマグルの中でも「普通」を吹聴しているようだが、十分に変人の類だぞ。あのミネルバが眉を顰めるのも無理はなかった。
「……それで、何の用だ? さっさとわしらの前から消えろ、今すぐに。あの小僧が泣きべそを垂れて戻ってくるのが見ものだな」
「おっと、そう邪険にしないでくれたまえ。我が校長殿ほどではないが、私も博愛主義者なのさ。建前であっても君たちがハリーを引き取ってくれたことに礼をしにきたんだよ」
胡乱な表情のバーノンをよそに、私は軽く車を小突いた。すると凹んでいたボンネットがベコンという音を立てて元通りになる。不調を訴えていたエンジンも快調に動き出した。
オイルまみれの作業を覚悟していたバーノンが唖然とする。ついさっきまで魔法で直してみたらどうだ? と息巻いておきながら、いざ目の前で修理をしたらこうだ。
魔法を認めたがらないこの男の頑固さに関しては、ハリーの名付け親といい勝負ができるかもしれない。
「れ、礼は言わんぞ! 小僧を引き取らなければ、お前たちの世界と関わることもなかった。さっさと見世物小屋に行ってしまえ!」
「まあまあ落ち着きたまえよ。見ての通り、私は礼儀を重んじているんだ*1。うん、どこだったかな……確かこの辺りに」
「ひいっ!? わ、分かったからもう何もするな。そのケースを閉じて失せてくれ! うんざりだ……!」
私がアタッシュケースの中を漁ると、バーノンが風船のように肥えた体をバタバタと車の陰に隠した。図体と威勢はデカいのに小動物よりも肝っ玉が小さいじゃないか。パフスケインの方がよっぽど度胸も愛嬌もある。
果たして、私が取り出したのはヴィンテージワインのボトルだった。私の曽祖父あたりがボーバトンを視察した時にフランスから持ち帰ったとかなんとか。ダンブルドアでさえ生まれてないだろう。こんな年代物も、我が家の蔵からすれば新参者に分類される。顔合わせの手土産はこの程度で十分なはずだ。
「確か、極東では「つまらないものですが」……とか言うんだったかな。確かにつまらないものだ。ほら受け取りたまえバーノン・ダーズリー」
「ば、馬鹿者!? ワインを放り投げるような奴があるか! これだから魔法使い共は手に負えないんだ!」
ほれ、上手くキャッチしないと新車のボンネットが再び凹んでしまうぞ。その肥満体型を絞るためにも、まずはフライの捕球練習から始めるといい。私はワインボトルを車目掛けて山なりに放り投げ、ダーズリー家から立ち去った。
結局のところ、ワインボトルの割れる音は聞こえてこなかった。私が車にかけてやった
優男はお手が早いようで。やはり……ハリーはシャイなのだ。この私よりも、ハグリッドやリーマスと打ち解けるのが早いのだから。きっとそうに違いない*2。
「んんっ! ご歓談中失礼。リーマス、そろそろ出発しよう。我らが英雄殿の凱旋だ」
「こっちがジェームズで、隣の女性が────どうしたんだいクリス。そんな急かして」
急かす? そんなまさか。この私に限ってそんなみっともない真似をするはずがないじゃないか。このワンコちゃんは一体何を言ってるやら。
ハリー、君もそんなに目をまん丸にすることないだろう。リーマスが卑怯にも写真を使って君の関心を引いているのだから、そのリリーに似た瞳は写真に向けられるべきだ。
「この私が急かすだって? リーマス、貴方はユーモアを解す魔法使いだと思っていたのだがね……」
「これは申し訳ない。お姫様の御心のままに。ハリー、シートベルトは締めたかい?」
「うん。でも、この写真は……」
「君のものだ」
ハリーが言い切るよりも早く、言葉と同時にリーマスがアクセルを踏んだ。
やれやれ、ハリーもリーマスもそうだが男とはなんて不器用なんだ。君のためにリーマスが学生時代の写真を渡したのだから、素直に受け取ればいい。謙遜する場面ではないだろうに。
男どもの茶番に欠伸を噛み殺しながら、私は負けじとアタッシュケースからアルバムを取り出した。バックミラー越しに私を見るリーマスの目が驚きに染まる。まるで別人か疑うような……私にもこのくらいの甲斐性はあるさ。
「ハリー、私からもプレゼントだ。リーマスは運転に忙しいからね。その写真はしまっておくといい」
「珍しいじゃないかクリス。そのアルバムはお手製かな? 熱心だね、ダンブルドアもさぞ喜んでいただろう」
「黙りたまえリーマス。
「とんだご無礼を。どうか卑しい我が身を許してほしい。その寛大な御心で」
「よろしい」
リーマスめ。久しぶりに仕事をくれてやれば、随分と口達者になったじゃないか。まあいいさ。貴方の渡した写真は、私がプレゼントするアルバムの前座に過ぎない。
ハリーはアルバムを受け取ると、すぐさまリボンを解いてページを捲る。それから暫くの間、タクシーの車内はラジオの音声だけが響いていた。
煩わしいマグルの街並みを無心で眺める。大英博物館図書室……今は大英図書館だったか。マグルたちの世相の移り変わりはなんて目まぐるしいのだろう。ハリーがアルバムに夢中になってる間、そんな益体も無いことばかりが頭に浮かんできた。
パタンとハリーがアルバムを閉じたのは、ちょうどキングス・クロス駅に到着した時だった。時刻は十時半、ホグワーツ特急の出発まであまり猶予がない。
ハリーの荷物をカートに乗せ、三人で駅のプラットホームまで足早に向かっていく。不安そうに9と4分の3番線を探してキョロキョロとするハリーに、リーマスが懇切丁寧に説明していた。なんて男だ。私に対する態度とは雲泥の差ではないか。
「ほら、あの改札口の柵を見ているんだ……どうだ、見えたかい?」
「ひ、人が消えたよ! 綺麗さっぱり」
「他にも3と3分の1番線や、7と2分の1番線もある。間違えないように、あの改札から行くんだ。最悪、イギリスとはおさらばになってしまうからね」
リーマスの冗談にハリーが顔を強張らせた。
困ったものだ。ハリーはまだ幼気な11歳だというのに、魔法族のちゃんちゃら可笑しいジョークが通用するわけがないだろう。
「つまらない冗談はよすべきだ。切符にかけられた魔法で弾かれるに決まってるじゃないか。運が悪いとしても、体がちょっとばかし
「それは……うん……エキサイティングだね」
ほれ見ろ。ハリーは口角を引き攣らせて……遠慮がちに笑っていた。ううむ、私の高度なジョークは伝わりにくかったかもしれない。また数年後に期待しておこう。
ただまあ、リーマスよりはマシなはずだ。ホグワーツ特急を前にして、いまだに過去を割り切れずにウジウジと苦悩する男なんかよりはずっとね。
「これから君が通うホグワーツもエキサイティングだから期待しておくといい。じゃあリーマス、後は貴方次第だ。この
脱狼薬の小瓶をリーマスへと投げつけ、私は9と4分の3番線のプラットホームへと足を踏み入れる。
別れの言葉に対して、リーマスの浮かない表情には後悔ばかりが募っていた。けれど未練に酔いしれる時間はないぞ。ダンブルドアからの推薦を断り続けても、友を失った悲しみとやらは、日に日にリーマスを追いかけてくるはずだ。
慰めの言葉は劇薬で、時間が過ぎれば過ぎるほど堕落してしまうのだから、過去の傷が癒えていなくてもリーマスは前に進むしかない。
たとえ友の遺児である私達に負い目があったとて、『生き残った男の子』であるハリーが入学してしまえば必然と貴方は渦中に巻き込まれることになる。見殺しにする気がないのならダンブルドアの期待に応えて教師になってしまえばいい。
ままならないのは現実ではなく過去を受け止めきれない弱い心だと、リーマス自身が一番理解している。私の入学時と同じ轍を踏んではならないだろうに。
主人公たるハリーの門出を祝う名誉は、ダンブルドアや私なんかではなく、貴方にこそ相応しいのだから。