しくしく。しくしく。
ぽっかりと胸に穴が開くようだった。病室のベッドでは両親が虚ろに俯いている。
聖マンゴの雑踏は全く耳に入らず、ある時点までネビル・ロングボトムの世界は色褪せていた。
死喰い人に拷問され、両親は精神を壊されるまで口を割らなかった。それを美徳だの勇敢だの皆が口々に讃えるが、当時1歳だったネビルは両親とまともに言葉を交わしたことがない。
心神喪失状態の両親は『磔の呪文』にかけられ、その精神は決して癒えることがないと
「しくしく……もう、帰るね」
普段は厳格なオーガスタすら悲痛な表情を浮かべる。
いつも通り起こるはずもない奇跡に縋って、いつも通り絶望を思い知らされた。
名誉ある死を羨むわけではない。それでも、生き地獄を味わうことが
元凶となった死喰い人への憎しみもあるし、魔法の才が開花しない自分への劣等感もあるが、ネビルはそれ以上に両親を失った悲しみを受け止めきれなかった。
そうして、悲嘆に暮れながら祖母と病室を出ようとしたとき。
「ネビル。君はいつも泣いているね」
微笑みを湛えながら、クリスティーンがネビルの涙を指で掬い取った。
「クリス……? こ、これはその」
「おしめがとれても変わらないのかな。手のかかる子だ」
「あなたが来たということは……」
「想像の通りさ、夫人」
入れ違いのタイミングで病室にやってきたクリスティーンが、何人かの魔法使いと魔女を連れてネビルの両親の下へと近づていく。その中には長い髭を蓄えた老人……あのアルバス・ダンブルドアもいた。
「アルバス、本当に大丈夫なのかい? 幾らあの子が優秀とはいえ」
「わしは勿論、聖マンゴの
オーガスタとダンブルドアのヒソヒソ声を、ネビルが理解することはかなわない。
漠然とした不安と、意味がないと分かっているはずの期待がネビルの中で渦巻くだけ。
クリスティーン・グリフィンドールは稀代の天才として名を馳せている。死喰い人に拷問される前の両親が彼女と面識があったとネビルはオーガスタから聞いたことがあった。
その彼女が、ダンブルドアをはじめとした英国魔法界の重鎮を引き連れて物々しい空気の中、銀製の小瓶を二つ取り出した。後にネビルは聞いたが、その小瓶は小鬼製の特注品らしい。
ネビルの両親は天井を仰ぐようにして開口させられ、小瓶から赤い濁りのある液体がその口へと注がれる。
回顧すれば、たった数分の出来事のはずだった。しかし当時のネビルにとって、クリスティーンの薬を両親が飲み込むまでの時間が永遠のように長かった。
両親の陰惨たる姿には写真で見た面影などなく、『磔の呪文』の被害者は皆一様に生きた亡者となり果ててしまう。奇跡なんてあるはずがない。半ば自己防衛のように自分に言い聞かせるが、ネビルは目の前の出来事から目を逸らすことが出来なかった。
「これが例の……」
「まさか、こんなことが」
思わせぶりで期待させるような無責任な言葉が飛び交う。人知れず怒りさえ湧き出そうになるのを、ネビルはどうにかして抑え込んだ。
何故ならネビル自身も、諦めと期待が混然一体となってしまって、思うように気持ちの整理が出来なかったから。
両親のやつれた頬や傷んだ髪が変わることはない。しかし明確に薬の服用前とで異なっている点がある。廃人となって以降、焦点の定まらなかった空虚な瞳に光が宿っていたのだ。
誰もが息をのんでいた。ネビルにオーガスタ、アメリア・ボーンズにバーテミウス・クラウチ・シニア、果てにはダンブルドアさえも。この奇跡のような光景を前にして、平静を保っていたのはクリスティーンただ一人だけ。
「う……い…す……?」
「しーっ。ゆっくり息を整えて……ソノーラス。アリス、小声で喋るんだ」
「ク、リス……? ここは? 貴女も……ちょっと大きくなってる?」
アリス・ロングボトムの乾ききった唇から、確かに意味のある言葉が放たれる。
「ダンブルドア? どうして貴方が……まさか、君はネビルか?」
唇を痙攣させつつも、フランク・ロングボトムが確かにネビルを見据えて言った。
その瞬間、ネビルの中で何かが決壊した。涙腺の堰を切って、クリスティーンに拭われたはずの涙がとめどなくあふれ出した。
「パパ! ママ!」
ネビルは咽びながら両親のベッドに泣きついた。
この瞬間の為ならオーガスタに行儀を咎められても構わない。
頭を撫でてくれる両親の温もりさえあれば、ネビルは他になにもいらなかった。
◆◇◆
ホグワーツ特急が到着した時分、すっかり日が暮れていた。
夜闇にポツリポツリとランプの灯りが点在している。夜目の利かない生徒は、陰気な駅の輪郭を捉えるだけで精一杯なはずだ。ホグズミード駅のインフラをそろそろ改善するべきだろうか。憧れのホグワーツを前にして、こんな寂れたプラットホームに捨て置かれた新入生たちが不安がるのも無理はない。
お澄まし顔を取り繕うダフネが口を一文字で結った。どんなに純血を気取ろうとも、初々しい反応はマグル出身の新入生と大した違いはなかった。
「どうしたんだい子猫ちゃん。未来のスリザリン生らしくもない。リディアを見習うべきだね。ほら、今にも血の気が引いて倒れそうだ」
「ひひっひひひ人が多いぃ……」
「べ、別に何ともありませんよ。我が家は代々スリザリンに組み分けされているんですから」
これまでの小生意気な態度から一転、ダフネは目を泳がせながら言う。その隣で身を縮ませているリディアを介護する余裕すらないらしい。
涙ぐましい虚勢だ。純血の矜持とやらに難儀しているのが本人とは。
「どうかな。組み分けは血筋だけで決まるわけではないよ。君が一族の期待に応えられるか見ものだね。リディアでさえスリザリンなのだから」
「わわわ、私でさえって」
「た、確かに……こんなでもリディアはスリザリンでしたね」
「わわわわ忘れてたんですか……!?」
ダフネの血の気が引いた。スリザリンに組み分けされなければこの世の終わりと言わんばかり……これだから世間知らずのお嬢様はいけない。
四寮はどれも輝かしい歴史がある。その歴史がホグワーツを世界一たらしめてきた。
私からすればイルヴァーモーニーなど二番煎じの後追いだ。民主的だの革新的だの言われているらしいが、ホグワーツとは天と地ほどの差がある。
「まさかとは思うが組み分けに自信が無いのかい? グリーングラス家のご令嬢が」
「ななな何を言ってるんですか!? デモンストレーションは完璧です。ここ、この私にかかれば薄汚いトロールごとき敵ではありません!」
「では期待させてもらおう。なに、スリザリン生ならばスマートかつエレガントにトロールを倒してくれるだろうからね。グリフィンドールは野蛮、ハッフルパフは落ちこぼれ、レイブンクローは頭でっかち……だったかな? 健闘を祈るよ」
ダフネは神経質そうに緊張したまま、ハグリッドが率いる新入生の列へと加わっていった。流石は純血名家のご令嬢、その周囲にスリザリン予備軍らしき少年少女が群がってくる。キリッとした表情でダフネが何かを語ると、新入生たちは表情を蒼白にさせていた。
青白い肌のとんがり顎をした少年なんて口をパクパクとさせながらダフネを凝視している。マルフォイ家のご当主も最低限の情趣を解しているようだ。組み分けで新入生の不安を煽るのはホグワーツの由緒正しき伝統らしい。
観客としては滑稽に過ぎる光景である。組み分けを『トロールとの決闘』だと教え込まされた純真無垢な少女とは、なんて愉快極まりない……失礼、心が痛む思いだ。
「ひっひひ酷いですよぅ……。ほ、本気で信じちゃってるじゃないですかぁ」
「ちょっとしたジョークだろう? 君だって本当のことを教えなかったのだから同罪さ」
「そそそそれは……そのぅ……で、伝統ですし」
リディアが視線を逸らして言う。闇の魔法使い予備軍なリディアさえも弁えているのだから、ホグワーツというのは偉大だと改めて認識した。
確か、闇の帝王さえも卒業したばかりの時は教職を希望したのだとか。当初の彼らは死喰い人ではなく『ヴァルプルギスの騎士』などと大層なネーミングセンスで少々
闇も光も
「ほらさっさと席を詰めるんだ。でなきゃ突き落とそうか」
「ちょ、おっおおお、押さないでくださいよぉ。ほ、本当に脳を解剖してやりましょうか……?」
「出来るならね。肉どころか表皮さえ1ミリも、この私の肉体を傷つけるなんて出来やしないさ*1」
「ややっややや、やっぱり化け物ですよぅ。ここ、来ないでくださいぃ……」
「早く乗りたまえ。寛大な私の機嫌もあと3秒で*2……うん? なんだいこの薄汚いヒキガエルは」
魔法以外は不器用なリディアが、割と演技抜きに死に物狂いでモタモタとセストラルの馬車に乗ろうとしていると、私の足元からゲコゲコと煩わしい鳴き声が聞こえてきた。
正体は何の変哲もないヒキガエルだ。体は湿り気を帯びていて、私に毒など効くはずもないが直接触りたいとも思えない。
ハアハアとだらしなく息を切らしながら、リディアもヒキガエルを見下ろした。そういえば、これでもサラザール・スリザリンの末裔だったな。夜陰で目を凝らすためにその瞳孔が縦に開いてしまっている。実際に見えているのかは甚だ疑問だが。
「も、もしかしたら誰かのペットでは……?」
「ペットだって? 蛇女こと誰かさんのディナーじゃないのかい?」
「いいいい嫌ですよぅ。ど、毒処理に皮を剥かなきゃですし、手間のわりにそこまで美味しくは……」
「君がグルメ談義なんて世も末じゃないか。ゆで卵ばかり食べてる卵ジャンキーのたわ言は遠慮しておこう……ふむ、ペットか」
ヒキガエルを浮遊呪文で持ち上げながら、私は魔法のコンパスを取り出した。
針がカタカタと震える。対象までの距離はすぐ近くだ。指し示す先は……ハグリッドが新入生たちを連れて行った方角だった。
ヒキガエルの存在を観測してしまったのが運の尽き。私が乗るべきはセストラルの馬車ではなく、どうやら新入生たちと同じく小舟になりそうだ。
馬車に腰掛けているリディアへと、私は自分のアタッシュケースを放り投げた。
「仕方ないか。ほら、しっかり受け止めたまえ」
「ひいっ!? いいいいいきなり何するんですか!?」
「すまないが荷物を頼むよ。なに、君と私の仲じゃないか。この薄汚いのを飼い主へと返してやらなくては」
「ぜぜ、絶対その場の思い付きですよぅ……」
ガン! とリディアは額でケースを受け止めた。袖に隠した杖で感知していながら、不器用ここに極まれり。攻撃呪文に対処できる人間がどうして遅れをとるのだろうか。私の方が首を傾げたくなる。
私の行動に諦めの境地へと至ったリディアの背中は少し煤けていた。ゆっくりと動き出すセストラルの馬車にも、若干の哀愁が漂っている。私の荷物持ちなど光栄に思うべきなのだが……ダフネに似て生意気な奴だ。いや、ダフネがリディアに似たのである。本人は認めたがらないがね。
リディアの馬車がホグワーツへ出発したのを見届けてから、私は足早に歩いて新入生たちを追った。ワイワイガヤガヤ、浮き立つ新入生たちの気配はそこまで遠くない。私もかつては形式だけでも従っていたなと懐かしむ反面、今こうして同行するのが呑気に宙を泳ぐヒキガエルだけなのは虚しくなってくる。迷子の間抜けカエルめ。飼い主に一言二言は文句を言ってやる必要があるな。
「ペットにしては危機感のない蛙じゃないか。君の飼い主はとんだ大間抜けだろうね」
「ゲコ?」
すっとぼけているのか、はたまた真性の愚鈍なのか。ヒキガエルは悠々自適に浮遊呪文で宙を漂うだけ。
舗装が怪しくなってきた夜の小道には、私とヒキガエルの他に誰もいない。
何が悲しくてヒキガエルと夜のデートをしなければならないのか。生まれて初めて、自分の意思で選択した運命を呪いたくなる……たかがヒキガエルごときに感情を揺さぶられる自分に嫌気がさした。
そんなこんなで道を行くこと数分。雑木林の向こう側にはキラキラと乱反射する光が見て取れた。
リディアのように目を凝らして視界を夕闇へと最適化させると、その明かりの正体は湖の水面だった。さざ波が少し荒れていることから、
「みんなボートに乗ったか。無理に乗っちゃいかん、四人までだぞ!」
私が新入生御一行に追い付いたのと同時に、ハグリッドの指示で新入生たちが小舟に次々乗り込んでいく。
ここまで近づけば私のコンパスさえ不要だ。リディア以上にグズグズと狼狽して、最後まで取り残された丸顔の少年が
この能天気なヒキガエルの、とろくさいその飼い主を放置すれば、新入生リストから歴史あるロングボトム家の一人息子が消えてしまうだろう。
私は仕方なしにその少年へと近づき、腑抜けた顔面にヒキガエルを張り付けてやった。
ベチャリ。
「うわっ!? ト、トレバー! やっと見つかったぁ……」
「『やっと見つかったぁ……』ではないよネビル。私の手を煩わせたことを君の祖母に報告しなくてはね」
「な、なんでクリスがここに? やめてよ……せめてパパだけにして」
「私が一度でも甘やかしたことがあるかい? 実に残念だ。アリスにまで報告する手間が増えるなんて……君を親不孝者に育ててしまったのは、私の人生において唯一の汚点かもしれない」
ネビルの顔が青ざめる。祖母からのお小言なんていつもの事だというのに大げさな子だ。
フランクもアリスも、優秀な魔法使いと魔女であるが過去が過去なため甘やかしている節がある。だからネビルの祖母は、両親が回復してからは一層に躾が厳しくなったらしい。
ホグワーツに入学すればお小言とはおさらばだと思っていたようだが、ロングボトム家の古豪たるオーガスタ・ロングボトムは甘くはない。ペットをなくしたと報告すれば吠えメールが飛んでくるに違いなかった。
「とりあえずボートに乗ろうか。せっかくホグワーツに入学するのだから面倒なのは後にしよう」
「……うん。でも、きっと僕はホグワーツに入学できないよ。トロールを倒すだなんて、最初から知ってればもっと魔法の練習をしたのに」
「組み分けについて誰かから聞いたのかい?」
「その、マルフォイ家の子と同じボートにいる黒髪の子が言ってたよ。僕以外も皆が怖がってる」
「ク、ククッ……まあ、なるようにしかならないさ。組み分けで死者が出たなんて聞いたことがないし、悪くて骨が折れるか粉々になる程度のことだ。ホグワーツの校医は世界でも指折りだし、死ななければ安いものだろう」
ネビルの青ざめた顔が、もっと色を失って唇がワナワナと震えだす。
私は笑いをこらえながら、怖気づいている小さい背中を押して、先客のいる小舟へとネビルと一緒に乗り込んだ。先客である栗毛の少女とネビルは、互いを確認すると目を丸めていた。
ちなみにトレバーとかいうヒキガエルは、ネビルのローブのポケットに無理やり突っ込ませて拡大呪文をかけておいた。また失くしたのなら湖に投げ捨ててやろうと誓ったのは内緒だ。
「また一緒だなんて奇遇ね、ネビル。貴方のヒキガエルはもう見つかったの?」
「うん、なんとか。今はポケットにいるよ。汽車の時はありがとう、一緒に探してくれて」
「気にしないで。結局、私は見つけることが出来なかったんだし、もっと予習しとくべきだったわ。一応、一年生の範囲は全部暗記したのだけれど……」
先に小舟に乗っていた栗毛の少女はネビルと顔見知りらしい。
利発そうな子だ。レイブンクロー的なガリ勉気質で衒学的な話し方である。鈍感なネビルとは相性がいいかもしれない。私からすれば可愛らしい少女だが、人によってはその言動が鼻につきそうだった。
「それは初耳だ。ネビル、君の祖母に報告することが増えたじゃないか」
「そ、そんなあ!?」
「別に、私が手伝いたくて手伝っただけよ。迷惑なんかじゃないわ。それに貴女……新入生じゃないわね? そのローブ、寮のエンブレムがあるじゃない」
「おや目ざとい。ネビルに君の賢さを分けてやってほしいよ」
「在校生の貴女がどうしてここに? 私、ちゃんと調べたわ。在校生は馬車に乗ってホグワーツに行くって……どんな馬かまでは書いてなかったけれど。組み分けについても詳しいことは載っていなかったわ。不自然過ぎるほどにね。貴女はもちろん知ってるんでしょう? あっ、少し待って頂戴。貴女の事、どこかで見たことがある気がするの……確か、魔法史の教科書に───ああもうっ! 荷物を預けちゃったじゃない!」
見事なマシンガントークだった。ネビルなんて目が点になって……いや、ネビルの場合はいつものことか。とにかく、魔法界のニュービーに相応しい『変人』の素質を兼ね備えた少女である。
栗毛の少女の資質については、レイブンクローとグリフィンドールの半々といったところか。承認欲求は共通、知識への信仰心は前者、善行に打算を含んでいないのは後者に値する。将来有望な少女だ。
「君の熱意は十分に伝わったよ。その馬についてはセストラルという魔法生物を調べるといい。組み分けは……誰にも聞いていないのかい?」
「あんなの、信じる人がいるの? トロールはXXXXに分類される危険生物じゃない。新入生が相手取るなんて馬鹿みたいな嘘、信じる方がどうかしてるわ」
「う、うーん……でも皆が噂してるし」
「私としては知恵遅れのトロールくらい倒してほしいものだが」
「危険すぎるわ。……もし、もしもの話よ。私はマグル出身だから分からないけど、魔法族の親がそれを知っていて送り出してるのなら頭がおかしいとしか言えないわ」
「その通りだよミス・ニュービーちゃん。魔法界へようこそ。ここはクレイジーな人間の吹き溜まりなのさ。この私以外はね」
ネビルと少女は微妙そうな面持ちになった。
「そ、そうかしら」
「ハーマイオニー、気にしないで。クリスはいつもこんな調子だから」
二人がコソコソと囁き合う。聞き耳を立てる必要もなかった。数日も経たず、ホグワーツのクレイジーさが身に染みることだろう。
私は湖のほとりに佇むホグワーツ城を仰ぎ見た。夜闇に浮かぶ竜の牙城は、千年を超えてもその威容を衰えさせることはない。
湖に浮かぶ何艘もの小舟のどこかでハリーも目にしているはずだ。
追憶なんて非生産的で稚拙な行いに耽るつもりはない。けれども、ハリーが紡ぐ物語の序章に値する光景であると、私は柄にもなく感傷に浸っていた。
◇◆◇
ダフネは激怒した。必ず、かの邪知暴虐のクリスティーンを糾弾しなければならぬと決意した。
「あの傲慢で! 嫌味で! 独裁者気取りのグリフィンドール!」
「グ、グリーングラス落ち着くんだ」
「黙りなさいマルフォイ。私はあの忌々しい苺髪を引っこ抜かなければ」
「ブルストロード、パーキンソン! 君たちも見てないで止めてくれ!」
マルフォイ家のお坊ちゃんが面倒見の良さを発揮するも、激情に駆られたダフネを諫める勇気ある人間はこの場にいない。
射殺さんとダフネが睨みつけるのはクリスティーンの背中だった。ヒラヒラと手を振って煽る後ろ姿に、ダフネの怒気が凄みを帯びていく。
この場を仕切るはずのミネルバ・マクゴナガルは呆れるばかりで止めるつもりはない。
ドラコ・マルフォイと剣呑な雰囲気を醸していたハリー・ポッターとロナルド・ウィーズリーさえも、呆気に取られた様子で成り行きを見守る構えだ。
抑えきれない激情によってダフネの周囲でそよ風が逆巻き、怒髪天を衝くダフネの相好は真っ赤に染まっていた。
けれど新入生たちはその赤面が怒りだけではなく、半分は羞恥が占めていることを知っている。
ホグズミード駅でクールに演説していた姿は記憶に新しく、その時のギャップを思い出せば、ダフネがつんとした態度で気取っていたのを気の毒に思ってしまうほどだ。
「はあ……ミス・グリーングラスは頭でも打ったのですか? 大方、クリスティーンが余計なちょっかいをかけたのでしょうが」
「先生、それは────むぐっ!?」
「貴方も、黙りなさい。忌々しい赤毛のウィーズリー。コホン……お騒がせしました」
言いかけたロンの口を杖無し呪文で縫い付け、ダフネは小さく咳ばらいをして誤魔化した。
底冷えするダフネの声音に戦々恐々とする者、ほっとする者、組み分けの真実を知らされても不安を隠せない者、新入生たちの様々な思惑が入り混じる。
例年、ホグワーツの生徒たちは問題児だらけだが、今年は特に手のかかる子が多そうだ……マクゴナガルは怜悧な顔つきを僅かに険しくしていた。
その様子を見て漸く、ダフネの怒りよりも羞恥が上回る。不本意極まる醜態ではあったが、恥の上塗りをするわけにもいかず、激情を押し殺して粛々とマクゴナガルの指示に従うことにした。
「今回は咎めませんが、廊下で魔法を使うのは禁止されています。儀式が始まるまでには呪いを解くように」
「───! ケホッケホッ」
「承知しました……ウィーズリー、初日のディナーに間に合う幸運を噛みしめなさい。ふんっ」
ダフネが耳元で囁くと、マルフォイ相手に赤く染まっていたロンの顔色が冷めていく。
慌ててロンの体を支えに来たハリーも、飴色の双眸に射抜かれてそそくさと退散してしまった。
周りの新入生たちだって、駅に居たときは散々持て囃していたというのにダフネから距離をとっている。
最悪なスタートダッシュだった。ダフネは大広間で待ち受けているクリスティーンに怨嗟を募らせながらも、無様な道化を演じた過去の自分を一番に呪っていた。
・・・・・
・・・・
・・・
・・
・
発端はホグズミード駅まで遡る。
「グリフィンドールは野蛮、ハッフルパフは落ちこぼれ、レイブンクローは頭でっかち……だったかな? 健闘を祈るよ」
健闘を祈る? この性悪が心遣いなどという常人の真似事を出来るとは到底思えない。
白々しい声援を送ってくるクリスティーンを半眼で睨み、ダフネはハグリッドの率いる新入生の列へと加わった。
「おや、グリーングラスじゃないか。君も僕も災難だね。こんな寂れた駅に、出迎えは半巨人。ホグワーツには雑多な連中が多すぎると思わないか?」
プラチナブロンドをオールバックに固めた少年が、物怖じせずダフネへと喋り掛けた。
「今更でしょう? 一々気にしては身体がもちませんから」
「穢れた血どもを野放しにするつもりなのか? 理解できないな」
「貴方は自分から汚物に手を突っ込む癖を直しなさい。マルフォイ卿も日がな口酸っぱく仰っているでしょうに」
「……父上のことはいい。それよりも随分と余裕そうだが君は何か知っているのか、組み分けについて。もちろん、スリザリン以外なら目も当てられないけどね」
ドラコ・マルフォイが問いかけると、周囲の新入生たちが一斉に耳を傾けてくる。
マルフォイ家とグリーングラス家、どちらも純血の名家であり繋がり広く、集まってくる新入生の殆どは見知った顔だった。
ここで、お高くとまっていたダフネの顕示欲がムクムクと刺激されてしまう。
名家としての格付けは、グリーングラス家やマルフォイ家をはじめとした聖28一族がトップであるものの、ドラコのみならずパーキンソン家やブルストロード家といった名家の子息子女も組み分けについて知らないらしい。
ダフネもホグワーツ理事の一人である父に尋ねたが、お楽しみだと言われて何も教えてもらえなかった。
この場で真に興味を示していないのは、ロンリーウルフを気取るノット家の根暗な一人息子と、下品極まりなく女子を品定めしているザビニくらいだろう。
ダフネは勿体ぶりながら、まるで自分が真実を突き止めたかのように語りだした。
「何も知らないんですか? 聖28一族の名折れですね」
「くっ……いいから教えてくれ。父上も母上もしきたりだと言って話してくれないんだ」
「いいでしょう。組み分けの儀式は……トロールとの決闘です。どのように無力化するのかが鍵となります。蛮勇も机上の空論も、スリザリンに相応しくありません。儀式に臨む前からエスプリを発揮すべきですね。この私のように*3」
「と、トロールだって!? そんな……父上も母上も、どうして教えてくれなかったんだ!」
「マルフォイ、みっともなく喚くのでしたらハッフルパフがお似合いですよ。ナルシッサ様は寝込んでしまうかもしれませんが」
セオドール・ノットが小馬鹿にして鼻を鳴らすが、聞き耳を立てていたのをダフネは見逃さなかった。つまりは負け犬であり、格の違いを誇示できたことでダフネの自尊心は大いに満たされる。
普段はミス・スリザリンの介護と、ミス・グリフィンドールの非常に……ひじょ~に業腹な揶揄いを捌くことで手一杯なのだ。
誰もかれもがダフネに尊敬と畏怖の念を向けている。目立つことを嫌うダフネであっても気分が高揚していた。
この瞬間こそ、ダフネ・グリーングラスの人生は絶頂期を迎えていた。これから待ち受けるホグワーツでの生活も華々しいに違いないと、自惚れてしまいそうなほどだった。
駅から湖畔までの小道を抜けて、神秘的な夜のホグワーツ城を仰ぐことが出来る湖を渡り、船着き場から大広間の扉の前に到着するまでの間。ダフネは理想の自分に恍惚としていた。
それこそが、ストロベリーブロンドの悪魔による陰謀だと気づきもせずに。
「ねえロン、嘘だよね。トロールなんてマグルの世界でも知られてる怪物だよ」
「で、でもフレッドも言ってたんだ。トロールと取っ組み合いをするって」
「ちょっとネビル。足を踏まないでちょうだい」
「ご、ごめん」
カオスな状況だった。組み分けを待つ新入生たちの間で、いつのまにか噂が伝播していた。
引率がハグリッドからマクゴナガルに交代した一瞬だけは静かになる。
しかし一時的にマクゴナガルがこの場を離れると、新入生たちは再びコソコソと噂話を再開した。
もはやホグワーツのゴーストなんかに驚く者は誰もいなかった。なにせ、組み分け後には自分がゴーストの仲間入りをしているのかもしれないのだから。
「ね、ねえダフネ。参考にさせてよ。どうやってトロールに勝つつもり?」
「ちょ、パンジー。顔が近いですって。どうやってと言われましても……失神させてからインカーセラスで縛るとか」
「……一年生ごときの呪文で失神させられるものか」
組み分けを目前にしてダフネも現実を直視せざるをえなかった。
陰気臭いノットがボソリと呟いたように、トロールの皮膚には魔法の通りが悪いことをダフネだって知っている。
けれど不生不死のように対抗手段が限られるわけではない。根気強く粘れば、知能に欠陥を抱えるトロールくらいは倒せるはず……倒れてほしいと、ダフネは希望的観測に縋るしかなかった。それが
「クッ、ククク。君は……フフッ、本当に期待を裏切らないね。ト、トロールと決闘……ククッ……夕食前にお腹を痛めてしまうじゃないか」
不穏な空気が取り巻く中で、その声は不思議なほどよく響いた。
途端に新入生たちが口を噤む。
うんちくを披露していたハーマイオニー。睨み合いをしていたハリーとロンのコンビと、マルフォイの取り巻きたち。
一人として欠かさず、全員がクスクスと笑みを漏らす声の主を振り仰いだ。
「ホグワーツへようこそ諸君。なにやら組み分けについて意見が分かれているみたいだね。後進の悩みを聞くのも年長者の役割だ。マクゴナガル先生がお戻りになられるまで、この私が質問に答えてあげよう」
ここにいるはずのないクリスティーン・グリフィンドールが、軽快な靴音を鳴らしてマクゴナガルが居た場所から新入生を見下ろしていた。
ポカンと思考が停止していたのはダフネだけあり、誰もがクリスティーンに視線が釘付けとなってしまう。
尊敬や憧憬、軽蔑や嫌悪といった数多の感情が入り混じる視線を受け止めるも、クリスティーンはいつも以上に上機嫌である。
クリスティーンの僅かな感情の機微に気づけたのはダフネだけ。それが自分の反応に愉悦を見出していると分かってしまうから、ダフネの怒りは加速度的に増していくばかりだった。
「そうだね……そこの悩めるお嬢さん。綺麗なお顔が台無しだよ。なにか心配事でもあるのかな? 組み分けがどうとかトロールがどうとか。まあホグワーツの治安が良いなんて口が裂けても言えないが」
「ま、ま、まさか、謀りましたね!? それも、リディアを誑し込んでまで!」
「いやはや。なんのことだかさっぱり……グリーングラス嬢は聡明だが少し深読みしすぎているようだ」
クリスティーンがワザとらしく首を傾げた。
淑女なんてクソくらえ。ダフネは声を荒げて迫るが、まともに取り合わないクリスティーンを見て確信してしまった。
頭の中は真っ白。表情は真っ赤。
そんなダフネの様子から、察しがいい新入生の一部はこれまでの茶番がクリスティーンによって仕組まれたものだと気づいた。
「あの、質問してもいい?」
「もちろんだともミス・アボット」
「組み分けの儀式って本当にトロールと決闘するの? 私、自信が無くて……」
肩身をすぼめて挙手した金髪のおさげの少女────ハンナ・アボットが不安そうに尋ねた。
「まさか! この扉の向こう側では先輩方が君たちを待っているんだ。そんな危ない真似を強いるはずがない」
大げさにクリスティーンが否定した。それも、いやらしくダフネを見つめて嗤いながら。
「どの口が言うんですか!
「おっと」
感情のままにダフネが呪文を唱える。とっさに抜いた杖先から小さい竜巻を発生させ、後進をいたぶる悪質な上級生へと風のチャームが襲い掛かった。
しかし呪文が届くことはなく、クリスティーンが無手で払いのける仕草をすると、ダフネの呪文はそよ風のように霧散する。
ダフネの呪文が失敗したわけではない。技量だけなら上級生にも劣らないだろう。クリスティーン自身も、そこらの在校生よりはマシだなと密かに感心する。
そしてダフネも一度あしらわれたくらいでへこたれはしない。間髪を入れずに次々と呪文を繰り出した。
「ステューピファイ! グリセオ! フリペンド! インカーセラス!」
小刻みにダフネが放つ呪文を、クリスティーンは杖を使わずに払いのけてみせる。
最後に唱えられたインカーセラスに至っては、なんと飛来してきた魔法の縄をキャッチして、クリスティーンは縛られる前にダフネへと投げ返した。
縄は術者たるダフネ自身を後ろ手に縛りあげ、呪文の乱れ撃ちを中断させる。
呆気に取られている新入生たちをよそに、大広間の門前にはクリスティーンの乾いた拍手が響くだけだった。
「見事な呪文の数々だ。未来のスリザリン生に5点を与えようじゃないか……諸君、他に質問はあるかい? ミス・グリーングラスのように決闘の申し込みも大歓迎だが」
「そもそも、どうして貴女はここにいるの? マクゴナガル先生は全校生徒の前で組み分けをすると仰っていたわ」
「質問は挙手をしよう、ミス・グレンジャー。そして答えは至ってシンプルで、ホグワーツは私の所有物だからだよ。つまり君たちは私の客人でもあるわけだ。主人として客人を迎えるのは当然のこと」
「いいえ、ホグワーツは特定の個人や行政組織に帰属しないはずよ。たとえ理事会の承認があっても所有権を主張したりなんて……」
「それが出来るのさ。学び舎の運営方針に口を挟む気は
魔法界でその名を知らない者は……多分いない。ネームバリューを知名度順に並べると、ハリー・ポッター、アルバス・ダンブルドア、そして闇の帝王になる。その次くらいには有名な名前である。多分。
クリスティーンの答えに納得がいかないのか、ハーマイオニーが二の句を放とうとしたとき、
「貴女の誇大妄想を語るのは結構ですが、その前に自身が生徒の一員であることを自覚しなさい」
ポスン、とクリスティーンの頭に丸めた羊皮紙が落とされた。
「騒々しいから何事かと思えば、どうして貴女がここにいるのですか。とっくに生徒たちは大広間に集まっています。ホグワーツの所有権云々は規則破りの免罪符にはなりません」
「ミネ「先生」────マクゴナガル先生。生徒たちが組み分けについてトロールだのドラゴンだの噂をしていたものだから、先輩として励ましにきたんだよ」
「……で? 生徒が一人縛られていますが、組み分けとどんな関係があるのです?」
「彼女は決闘クラブに興味があるようでね。体験会もついでに開いたのさ」
どの口が、と喉元まで込み上げた言葉をダフネは嚥下した。
このまま規則破りを咎められればクリスティーンとて言い逃れできない。そんな儚い願望を抱きながら。
マクゴナガルが額に手を当てて、深くため息をついた。
「はあ……貴女に規則の順守を期待するだけ無駄でしょうが、式が終わってからは大人しくするように。でなければ、これまでの校則違反を自白してもらいます。分かりましたね」
「もちろん、誠実かつ模範的な主席*4として
クリスティーンが素手で空を振り払うと、ダフネを縛っていた縄が忽然と姿を消した。
あっと息づく暇もなく、踵を返してクリスティーンが大広間へと去っていく。最後まで煽りたっぷりに手をヒラヒラと振りながら……。
その際に開かれた大扉の隙間を新入生たちがこぞって凝視したが、どこにもトロールは見当たらない。ダフネ自身もしっかり視認して現実を受け入れるしかなかった。
ふるふると華奢なダフネの矮躯が震える。それを揶揄える新入生は誰もおらず、行き場を失った恨みつらみの咆哮だけが木霊した。
「あの傲慢で! 嫌味で! 独裁者気取りのグリフィンドール!」
────そして冒頭へと回帰する。
「ほっ。トロールじゃなくて良かったぁ……」
「あのねネビル、常識的に考えてありえないわ……ありえないわよね? 自分でも分からなくなってくるじゃない、もうっ。帽子が歌うなんて!」
「……でも、魔法界に常識は通用しないのは相変わらずみたいだけど」
「何言ってんだよハリー。歌う帽子を被ればいいだけじゃないか! フレッドのやつ、何も知らないからって馬鹿にして……後でとっちめてやる」
穢れた血や、血を裏切る者が戯言をほざいているが、ダフネの耳には全く入らなかった。
スリザリンのテーブルで本に顔を隠しているリディアへと鋭い一瞥を送ってから、自身の醜態を招いた戦犯に対して、二度と口を利いてやるものかとダフネは固く心に誓うのだった。