外伝:くまに飛ばされたブルックの行き先がエレジアだった世界 作:館凪 悠
ヨホホホー……
ヨホホホー……
夜の深い青さを映す海原に浮かぶ、一隻の帆船。
その帆船は、夜中だというのに灯りがともされ、そしてにぎやかな熱気を持っていた。
その帆に描かれた髑髏は畳まれ、船はただ波の上を、その喧噪を共に楽しむようにゆったりと、楽し気に揺れる。
ヨホホホー……
ヨホホホー……
歌声が、響く。
音楽が、響く。
空にかかる月は満月。
今にも落ちてきそうな丸い月を引き立てるように、雲一つない夜空を、薄い星明りたちが踊る。
絶好の月見日和であった。
同時に、最高の宴日和であった。
波が船体に当たり
寝る間も惜しいと言わんばかりの喧噪を、船員の皆が楽しんでいた。
ヨホホホー……
ヨホホホー……
「よっしゃあ!! 我らが誇る音楽家であり孤高にて最高の剣士、ブルック様の生誕に感謝してェ!!!」
「ねえヨーキ船長、それ何度目です? もう皆さん、各々の宴に入ってしまってますよ」
「うるせえブルック! おれ様が祝ってやろう感謝してやろうってんだ! 黙って聞きやがれ! なァ野郎ども!!」
「……もう誰も話なんて聞いてませんよ」
ジョッキを傾けながら、背の高い男が呆れたように呟いて、そして小さく口元に笑みを浮かべた。
まったく、うちの船長はどうしようもない。
前後不覚に酔っぱらって、船員の誰からも話を聞いてもらえないなんて、本当に船長の風上にも置けない男だ。
……その原因が、自分のための宴なのだから、頬が緩んでしまうのもむべなるかな。
サングラスの奥の目も、細められる。
「…………お礼を言うならね、私の方ですよ。船長、あなたと、あなたの仲間と一緒に──」
そう言葉を紡いだところで、ふと違和感に気が付いて、長身の男が振り返る。
「すー……、すー……」
さっきまで騒ぎ続けていた男が、いつの間にか寝息を立ててしまっていた。
「……まったく」
背の高い男は苦笑する。
眠りに落ちてしまったせいで、きっともう聞こえないであろう船長に、男は静かに語り掛ける。
「私もね、あなたと出逢えてよかったですよ。何しろ、こうして楽しい時を過ごせるのですから」
誰にも聞こえない声で呟いて、背の高い男はジョッキを片手に、丸い月を仰いだ。
「ねえ船長。見に行きましょうね、この世の果てを。世界を一周まわって、ラブーンを迎えに行きましょう。私たちで、絶対に」
ヨホホホー……
ヨホホホー……
そのつぶやきは、闇へと消える。
だってそうだろう。
それから一年と経たずに、ヨーキ船長は原因不明の熱病に倒れ船を離脱し、そして我らルンバー海賊団は、再び私の誕生日を迎えることを待たずに壊滅した。
名も知らない、海賊の手によって。
私たちの海賊船が破れ、魔の海域に閉じ込められて、何年が経ったろうか。
わかっている。
知っている。
この肉も皮も、五臓六腑の全てを失った骨だけの体は、その年月を知っている。
ふと心の中に湧き上がる口惜しさと寂しさと、そして無念さに苛まれて、私は歌うのをやめた。
歯を食いしばり、頭を抱える。
泣けるなら、泣き出してしまいたかった。
投げ出せるなら、投げ出してしまいたかった。
かつての暖かな記憶を思い出したところで、今のこの空虚感が埋まるわけではないというのに。
もう、今年で齢も七十六を超えた。太陽も月も見えないこの霧の海では、正確な日付はもうわからないのだから、ある程度の感覚だ。
だが、予想が正しければ、生まれてきた半分以上を、霧の中で漂っているのだ。
もう、あの日見た月の輪郭も忘れてしまった。
あの宴で食べた料理の味も忘れてしまった。
そして、涙の流し方すら──。
「…………船長、みなさん、ラブーン……」
ぽつりと、呟く。
また、何もできずに一年が過ぎた。
たまたま食べたヨミヨミの実。
その能力のおかげで、白骨となっても現世と繋がっているだけだ。
誰にも会えず、話もできず、そして約束も果たせない自分は、生きているといえるのだろうか──。
なんて。
「……まあ私、骨だからもう死んでいるんですけど」
ヨホホホ、といつものように笑ってみせる。
笑ってくれる人は、誰もいない。
ただ、霧の中から自分の笑い声が、虚しく返ってくるだけだった──。
────
───
──
─
はっ、と息を吐いて飛び起きる。
足の骨に絡んだシーツが、骨なのになぜか分泌されていた冷汗で湿っているのがわかる。
五十年も慣れ親しんだ波に揺れる寝床ではなく、微動だにしない柔らかなベッド。
キシ……
外には春風が吹いているのだろう。
薄く開いた窓が軋みを上げ、古いカーテンがゆらりと揺れる。
周囲の物をぺたぺたと触って、自分の顔を撫でて、アフロに触れて、確かめる。
夢──ではない。
夢ではない。
ここは、ちゃんと現実だ。
今見ていたのは、ただの
「……ああ、そうですか。また一つ歳を重ねましたね」
これで私は九一歳になったのか。きっとあの
以前はあれほどまでに怖かった、寂しかった、つらかった一年という歳月が、今は待ち遠しくて仕方がない。
まるで、イベントを待ちわびる子供のように、楽しみでたまらなかった。
「……とはいえ、やはりこの夢は堪えますね」
ぼそりと、苦笑気味に呟く。
あの太陽みたいな船長に心を、命を救われ、そして仲間にしてもらえた今となっても、当時のつらかった孤独事態が変わるわけではない。
もちろん、自分の心持ちは変わる。それに伴って、過去を見る目も変わる。
彼らに出逢えて、そして今彼女と出逢えたことを考えれば、あの孤独すらも意味があったことのように思える。
だが、あくまでそれは〝今の自分〟のお話。
あの悪夢のような孤独に苛まれて見た幻。
〝今の孤独が夢〟であり、〝幸せな妄想〟が現実であるような錯覚。
そして否応なしに現実に引き戻された時の、あの発狂してしまいそうなほどの精神的負荷。
それが、今起こってしまったら?
今でも、不意に不安になってしまうことがある。
コッチが幻で、アッチが現実なのではないかと。
恐ろしくてたまらなくなりそうな時が。
知っている。それは杞憂だ。
ほんの短い間だが、私には想像もつかないような冒険を一緒に歩ませてくれた仲間が、それを教えてくれる。
そして、一緒に音楽を楽しんでくれる、この島のたった二人の住人も。
「……少し目が冴えてしまいましたね」
まあもう目はないんですけど。
もう癖になってしまったスカルジョークを呟いて、私はベッドから立ち上がる。
まださすがに起きるには早い時間だ。
少し食堂へと向かい、ミルクでも温めて飲むようにしましょうか。
────
───
──
─
ブルックが食堂のドアノブを捩じると、食堂の中で誰かが驚いたような音がした。
「……おや、お早いですね」
「ブブ、ブルック!? びっくりした、こんな時間にどうしたの?」
目を真ん丸に開いて、驚いたように言うのは、このエレジアの住民である、若い音楽家、ウタだった。
トレードマークとも言える特徴的な髪形も、今は縛りもせずに全て下ろされている。
彼女も寝起きなのだろうか。それにしては、少し目が腫れているようにも見える。
「いえね、少し悪い夢を見ましてね。ですがほら、まだ早い時間ですし、ホットミルクでも飲んで、二度寝と洒落こもうかと思いまして」
ブルックの落ち着いた声に、驚いて固まってしまったウタも肩の力が抜けたようで、ふうと息を吐いてから、そのブルックの言葉に質問を投げる。
「へえ以外。ブルックも悪夢とか見るんだ?」
「骨だからって! 睡眠もとれば夢も見ます! それにウン──」
「いやそうじゃなくって、悪夢とか見ても気にしなそうだなって思って」
そういうことですか、とブルックはけろりとした表情で言う。どうやらわざと怒ってみせたらしい。
「悪夢というか、記憶ですね。追憶ですよ。大昔に一緒に海を渡った仲間たちと、その後の五十年の孤独の記憶です」
「あ──」
ブルックの過去を聞いたことのあるウタは、しまったと口を開いて、そして「ごめんなさい」と謝った。
「そうだよね。──大変だった時の、記憶だもんね……」
バツの悪そうに言うウタに、しかしブルックはやはりけろりとして応える。
「起きちゃえばどうということもないんですけどね。いかんせん、夢というのは目覚めるまで、それが夢と気が付かないことが多いですから」
顔も骨だけだから表情が乏しくて──というわけではない。
ただ、本当に気にしていないのだろう。そんな声色だった。
「それにその夢は、そんなに頻繁に見るものでもないですし。今日は特別な日なんですよ」
「特別な?」
「五十年と少し前。当時私が所属していた〝ルンバー海賊団〟の皆さんが、私の誕生日を祝ってくれた日です」
「誕……生日、か」
固い声で、ウタが言う。
──はて、誕生日に何が?
一瞬だけそんな疑問がブルックの脳裏を横切り、そしてすぐにその声の意味が分かった。
(……ウタさんも、同じでしたね)
長さでいえば、ブルックの方が孤独に曝された時間は長いだろう。
しかし、十代二十代の人間が持つ一年の価値と、九十代の人間の持つ一年の価値は違う。
それでもブルックは、それを知っていた。
誕生日が過ぎるたびに──、年齢を重ねるそのたびに心に湧き上がる、やる瀬なさと焦燥感。
(……もしかしたら、話題に出すべきではなかったのかも)
そう、ブルックは思う。
一方のウタは、少しだけ考え込むように「誕生日、誕生日……」と呟くと、不意に椅子から立ち上がった。
「ちょっと待ってて!」
そう言うが早いか、食堂から廊下へと飛び出した。
「……待つのはいいですが、そんなに慌てなくても……」
ブルックの言葉はもう、部屋を後にしたウタには届かない。
小さく息を吐くと、ブルックは冷蔵庫からミルクを取り出し、小さな鍋にミルクを移すと、それを火にかけ始めた。
やがて二人前のホットミルクが出来上がるころ。
息を切らせたウタが、食堂へと帰ってきた。
背負っているのは、最近練習を始めたアコースティックギター。
「おや、どうしたんですか? ギターなんて持ってきて」
「いいから! ちょっと座って」
ブルックにそう促してから、ウタはギターをケースから取り出して構える。
「まだヘタなのは許してね」
そう言って、ウタはFのコードを一度鳴らして、音を確認して、そして演奏を始めた。
「サンクス バースデイ トゥーユー
サンクス バースデイ トゥーユー
サンクス バースデイ ディア ブルック
サンクス バースデイ トゥーユー」
まだ拙い演奏に乗る、心のこもった歌唱。
だが──。
「ありがとう、ウタさん。──ですが、珍しい歌詞ですね」
少なくともブルックの知っているバースデイソングは、『ハッピー バースデイ』という歌詞だったはずだ。
少しだけ困ったようにウタは微笑んで、そして目線を窓の外へと逃がした。
「……ほら、私には、ブルックが
その答えに、ブルックはヨホホと笑う。
「真面目ですねェ。ですが安心してください、ウタさんが祝ってくれただけで、私はハッピーですから」
そう、こうやって誰かと言葉を交わせるだけで。
誰かと音楽ができるだけで。
夢に向かってまた、歩き出せると思うだけで。
私は幸せなのだと、ブルックは言う。
「……そっか。じゃあ、歌いなおそっか?」
「大丈夫ですよ。ウタさんの気持ち、ありがたくいただきましましたから」
「そういうもの?」
「そういうものです」
そう言って、ブルックも窓の外へと視線を向ける。
海に沈む丸い月が、見える。
きっと反対側の空は、少し白んできているに違いない。
ブルックは立ち上がると、二つのコップに出来上がったホットミルクを注ぐ。
片方は、もちろん自分のための物。
もう片方は──
「ウタさん、よろしければホットミルク、いかがです?」
「……ありがと」
少しだけ複雑な表情をして、ウタが言う。
「わたしが祝うはずだったのに」と言わんばかりのその表情に、ブルックは小さくヨホホと笑った。
一口、ホットミルクを飲んだウタが、温かくなった息を吐いて、小さく呟く。
「でもさ」
と、再び窓の外に目を向ける。
「さっきの歌詞じゃないけどさ。感謝してるのは、本当だよ。……ねえブルック、わたしを音楽に誘ってくれて、ありがとう」
少し照れたように、ブルックはホットミルクを傾けると、やはり窓の外へと目を向けた。
ホットミルクを飲み下してから、頬骨を掻いて、ブルックが言う。
「いえ、こちらこそ。一緒に音楽を楽しんでくれて嬉しいですよ。……そうだ、ウタさん。今日のお礼に、今度ウタさんの誕生日、お祝いしましょうか? お誕生日はいつですか?」
「──もう、忘れちゃった、そんな昔のこと」
少しだけ寂しそうに、ウタが言う。
そうですか、とブルックは特に追及するでもなく、ヨホホと笑った。
「それは大変です。……いつか、思い出せる日が来るといいですね」
うん、と小さくウタが頷く。
月が遠くの海に沈み、空はもう夜明けの色へと変わっていく。
ウタの掌に包まれたホットミルクから上がった湯気が、窓から飛び込んできた潮騒に、小さく、小さく揺れたのだった。
お読みいただきありがとうございました。
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