外伝:くまに飛ばされたブルックの行き先がエレジアだった世界 作:館凪 悠
呼吸の度に体に侵入してくる酒と煙草の香りは強すぎて、頭の奥の方が、がジンジンとマヒするような感覚に苛まれる。
同時に来る吐き気は、果たしてこの匂いのせいか、それともここに拉致される過程で殴られたせいか。
埃がちな、薄汚れた床の冷たさが、どこか心地よかった。
くそ、とカバルは心の中で歯噛みする。
声は上げない。
恐ろしくて、上げられなかった。
今、カバルがいるのは人攫いのアジト──らしい。
正確な場所、正確なことはわからない。
殴られ、気絶しているところを連れてこられたのだから。
牢屋のようなところに厳重に監禁されていないのは、不幸中の幸いなのだろう。
狭い部屋──物置だろうか。カバルは窓のないその部屋で拘束されていた。
後ろ手にされ、手首に麻縄を巻かれている。もちろん、両足首も。
おそらく薄いのであろう木の扉の向こうから、男たちの声が聞こえる。
少しだけ遠く聞こえるから、扉を隔ててすぐそこに男たちがいる、というわけではなさそうだった。
「それにしても、あのガキ、いい拾い物だったな!」
「今日日楽器のできる子供というのも珍しい。そういうちょっとした芸があると、商品価値が上がるからなァ」
「今夜の作戦の前に、いい景気づけじゃねェか! ほーれ、今のうちに酒飲んどけよォ!!」
「バーカ! 飲み過ぎて作戦に影響出たらどうするんだよ! 上手いこといい商品を仕入れて売り飛ばさねェと、おまんまの食い上げだぞ!?」
「まァライブ終了まで、半日以上あるんだ。気を張ってたら潰れちまうぜ?」
「なんにせよ、音楽家様々だなァ! 大枚はたいて国外からくる客もいると来た! そういうヤツらはいいカモだ」
「さっきのガキみたいに、何かしら技能を持ってると値段が上がっていいんだがなァ」
「違ェねェ!」
「じゃあいっそ、〝本命〟の方、いっちまうか!?」
「ばァーか! 結構なやつらが返り討ちになってるって噂も聞く。様子を見てからだ様子を見てから」
「おめーはいつも慎重だなァ! 男のモン、しっかりついてんのかァ!?」
ガハハ、と大きく下卑た笑い声が、響く。
どうやら彼らは、今夜決行を企てている〝作戦〟とやらに浮かれてしまっているようだ。
(こいつら──)
カバルの中で、恐怖と同量の怒りが湧き上がってくる。
おそらく、彼らがここ数年噂になっている〝人攫い〟なのだろう。
……もしかしたら、他にも似たような輩はいるのかもしれないが、それでも彼らがそれから洩れることはないだろう。現にカバル自身が被害に遭っているのだから。
そして彼らの〝作戦〟。
どうやらそれは、ウタたちのライブが終わった後、熱気冷めやらぬ宵闇に乗じて、さらに人を攫おうという算段らしい。
──あるいは、音楽家である彼女たちを攫うつもりか。
どっちにしろ、カバルにしたら許せなかった。
見ず知らずの他人である自分に、特に見返りも求めずに楽器を教えてくれた彼ら。
その中で、彼女が言った言葉が脳裏によみがえる。
『きみの世界がぶっ飛ぶような、最高の音楽を聞かせてあげるから、絶対来るんだぞ!』
別れ際に、笑顔で手を振りながら言っていたその言葉。
イベントそのものをメチャクチャにされなくても、そのイベントをダシにして悪事を働くというのは、彼女たちに──、ひいては音楽に泥を塗るのも同然に思えて仕方なかった。
あまつさえ、そんな彼女たちにまで手を出そうなんて──。
(クソ──)
歯噛みする。
もっと大人だったら、こんなことにはならなかっただろうか。
あるいは──。
──音楽になんかかまけずに、体を鍛えていれば、こんな悪党どもに負けていなかったかもしれない。
(──ちくしょう)
わかってる。
そんな考えは、ただの現実逃避に過ぎないことなんて。
ガサ──
不意に頭上から聞こえた物音に、カバルが目線を上げる。
ちゅう──
木箱の隙間から、ネズミが顔を出していた。
一瞬だけビクリと身をすくませたネズミだったが、カバルが動けないことに気が付いたのか、そのまま物置の探索を続ける。
──現実は、どうだ。
カバルは歯噛みする。
ネズミにすら相手にされず、床に這いつくばることしかできない。あまつさえ、小ばかにするように、尻尾を振り、カバルの前をジグザグと駆けまわる。
(くそ──、)
いや、カバルもわかっている。
ネズミに、人を小ばかにする意志なんてないことは。だから、その怒りはただの八つ当たり。
カバルのことを一番惨めに感じているのは、カバル自身だ。
(──あっちいけ!)
その事実も受け止めたくなくて、カバルはその怒りに任せて、ネズミを追い払うように身を捩る──
プツッ
「えっ」
マヌケな声が喉から出てしまって、カバルは慌てて両手で口を抑える。
ちゅう、とネズミが上りかけていた木箱から飛び降りると、一目散に逃げだした。
だがもう、カバルからしたら、ネズミの動向なんてどうだってよかった。
自分が、自分の手で、口を抑えている。
どうして、などと考えるその前に、カバルはじっと息を殺して耳を澄ます。
思わず上げてしまった声を聞いて、人攫いたちが様子を見に来ないだろうか。
一秒──
三秒──
五秒──
十秒──
しばらく待っても、特に彼らの様子に変化はない。
バカ騒ぎを続けていたおかげで、こちらの声が聞こえなかったのか。それとも、自分で思っていたよりも、小さな声だったのか。
カバルは、そっと自分の口元から手を離して、その両手を見る。
手首には、麻縄の跡が赤く、薄っすらと残っているのが見えたが、ちゃんと自由になっていた。
ちゃんと縛れていなかったのか、それとも劣化した粗悪品だったのか。
理由はどうだっていい。重要なのは、手が自由に動くということ。
地面に手をついて、できるだけ物音を立てないようにして体を捩る。
両足の自由が利かないせいで、かなりもたつきはしたが、何とか体を起こして、扉を背にして座った。
やはり喧噪の音は聞こえるが、カバルの動きに気が付いた者はいないようだった。
(……それならそれで、いい)
むしろ、好都合だ。
たまたま手を縛っていた縄がほどけただけで、足の方はかなりきつく縛られていた。
それを、自由になった手で懸命にほどく。
灯りなんてないせいで、結び目もろくに見えないから、手探りで無理やりに、だ。
五分、十分──
爪が欠けて、指先の皮が擦れて、徐々に痛みが増していく。
麻縄の凹凸が、血の滲む指先に手汗を塗り込むようで、気を抜いてしまえば声を上げてしまいそうだ。泣き出しそうだ。諦めてしまいそうだ。
それでもカバルは、歯を食いしばって、息を押し殺したまま指を動かす。
人差し指が使い物にならなければ、中指で。
中指が使い物にならなくなってきたら、薬指と小指で。
その二本もダメになってきたら、また人差し指で──。
出ずっぱりの親指は、もうボロボロになっている。
それでも、このままでは──。
どれくらいの間、足を縛った縄と格闘していたろうか。あまりに集中し過ぎていて、時間の感覚を失ってしまっていた。
はらり──
ついに、足を縛っていた縄がほどける。
無理やりにほどこうと四苦八苦したせいで、縄に擦れた足首からも、血が滲んでいる。
そっと、音を立てないように立ち上がってみる。
ひた──
裸足の足の裏に、冷たい床の感触。
靴は取り上げられてしまったようで、近くに履物になりそうなものもない。
ぎし……、と床が軋みを上げて、カバルは息を呑んだ。
──彼らの喧噪に、変化はない。
むしろ、酒が回ってきたのだろうか、先ほどよりも大きな騒ぎになっているように思える。
逃げるなら、とカバルは思う。
逃げるのならば、いつがいいだろうか。
人攫いたちが言う〝作戦〟とやらが開始してからだろうか。少なくとも、そうなればこの建物は手薄になるはずだ。
(──ううん、ダメだ)
カバルは内心で首を振る。
人数自体は減るかもしれないが、見張りの一人も残さないとは考えづらい。
そうすると、残された見張りは精一杯警戒するだろう。いや、そんなに殊勝じゃないにしろ、逃がさないように意識を向けるはずだ。
(……多分、今これほどまでにおれに意識が向いていないのは、きっと人数が多いから。そして、次の作戦に意識が向いているから)
カバルにはそう考える。
ならば──
(──もしかして、逃げるなら──)
今が最高のタイミングなのかもしれない。
カバルは音を立てないようにゆっくりと息を吸い込んで、息を止めてからドアノブをひねった。
キイ……
油を差したばかりなのだろうか。粗末な見た目とは裏腹に、驚くほど小さい音と滑らかな手触りで、扉はすんなりと開いた。
目の前にあるのは、廊下だった。
暗く、やはり作りのいいとは言えない建付けの廊下だ。
左手の開いた扉から、酒と煙草の香り、そして男たちの騒ぐ声が聞こえてくる。
カバルは右手の方へとそろそろと歩く。
靴が、とか、持っていたチケットが、とか、そんなことはどうでも良かった。
腰に提げられた袋に入った楽器さえあれば、あとはどうでもいい。
まずは、逃げること。
生きて帰ること。
そしたら、海軍のおじさんたちにこのことを知らせて、そうすればきっと全て元通りの日常が返ってくるはずなんだから。
ほんの数メートルを進むだけで、気の遠くなるような時間がかかる。
一歩を踏み出すたびに、
一つ息を吸うたびに、
足が床に着くたびに、
一つ息を吐くたびに、
床が小さな軋みを立てるたびに、
服が体と擦れるたびに、
衣擦れの音が鳴るたびに、
体が空気と擦れる音が鳴るたびに、
心臓が一つ鼓動を打つたびに──
どうかやつらが、この音に気が付きませんように、と祈りながら、そろり、そろりと廊下を進む。
いくらほど時間がかかったろうか。
距離で言えば数メートルしか歩いていないのに、森の中を駆けまわった後のような疲労感と、そして滝のような汗。
曲がり角の先、壁に背を着けたまま、少しだけ顔を出して、覗いてみる。
薄暗い廊下には、誰もいないようだった。
カバルはそっとその角を曲がって、壁に背中を着けてへたり込む。
極度の緊張のせいで、神経がすり減り、息も上がる。
静かに、努めて静かに、深く息を吸い込んで、そして吐き出す。
数回深呼吸を繰り返してから、カバルは再び立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。
先ほどと同様に、しかし彼らのいる部屋の扉から離れたおかげか、先ほどよりも少し素早く、カバルは廊下を進んでいく。
そして──
(階段と、ドア……)
右手に階段、左手にはドアが見える。
ドアの向こうからだろうか、今まで気が付かなかった波の打ち寄せる音が聞こえる。しかも、かなり近くから。
では、この扉をくぐれば──
(……だけど)
カバルには、どうしても引っかかることがあった。
いや、廊下を歩いただけなので、判断するには根拠が薄いだろう。
しかし、この建物、あまりにも暗すぎる。
物置からここに来るまで、窓の一つすら見た例がない。
さらによく考えれば、いくらここが人里離れていると言えど、あの人攫いどもは、あまりにも無防備に騒ぎすぎている。
窓一つない建造物──。
カバルにとって思い当たるのは、ここが地下であるという可能性。
ドアを開いて、そこが外であればいい。
しかし、誰かがいる部屋だった場合は?
しばらく考えてから、カバルは階段に足をかけ──
ギィイ……
思っていたよりも、階段が軋む。
カバルは慌てて階段から足を離して、身を縮めて息を殺す。
暴れる心臓を抑えながら、大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる。
だが、階段はさすがに無理だろう。
カバルは踵を返して、背後にあったドアノブに手をかけてみる。
キィ……
物置のドアと同様に、その扉は静かにすんなりと開いた。
びゅう、と吹いてきた潮風が顔をたたく。
カバルは慌てて外へ出ると、急いで、かつ静かに扉を閉めた。
(ここは──)
先ほどのカバルの予想は、当たらずとも遠からずと言ったところ。
目の前に広がるのは海。
しかし、その左右を取り囲んでいるのは、岩肌。
洞窟、というにはいささか規模が小さいが、どうやら大きな岩盤に斜めに開いた洞穴を上手く利用した悪党たちのアジトだったらしい。
水平線の向こうはもう暗く、空と海の境目が良くわからなくなってきている。
外だ、とカバルの目頭が熱くなる。
しかしすぐに、まだ逃げ切れたわけではない、とその感慨を押し殺し──
ようやくカバルは、先ほどまで背後で聞こえていた喧噪が、ぱったり止んだことに気が付いた。
(気が付かれた!?)
可能性は、ある。
先ほど扉を開けた時に入ってきた風だ。
窓もない地下に風が入ってくれば、きっと何かあったと気が付く者も出てくるだろう。
どうする、とカバルは自問する。
背後には人攫い。
目の前には海。
せわしなく目線を動かして、カバルは逃げ道を探す。
(……こっちだ!)
カバルは左の壁めがけて駆け出した。
ちょうど岩盤の上に生えた木の根っこが、垂れ下がっているのを見つけたのだ。
すでに傷のついた手でその根っこに捕まりよじ登る。
しかし──。
(どこだよ、ここ!?)
森の中であること以外、カバルにはわからない。
方角も、どちらに行けばいいのかも。
だが、それでも──
(──逃げなくっちゃ)
そうしなければ、待っている未来は──考えたくもない。
カバルは迷わず、夜の森へと駆けだしたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
続きは明日投稿させていただきます。
残り話数に関しては、前回投稿時より原稿が伸びてしまっているので、もうしばしかかりそうです。ほぼ書き切れていますので、六月中には全話投稿できるかと思います。よろしくどうぞ。