外伝:くまに飛ばされたブルックの行き先がエレジアだった世界 作:館凪 悠
もう、何時間森の中をかけずりまわっただろうか。
人里のある方角もわからず、樹木の生い茂る森は真っ直ぐに走ることもままならず、カバルは今、自分がどこへと向かっているのかすらわかっていなかった。
もしかしたら、あの人攫いのアジトに戻るように走っているのかもしれない。
胸の内に湧き上がるそんな不安を、必死にかき消しながら、カバルは走った。
日はどっぷりと暮れて、多分もう、ウタたちのライブは始まってしまったのだろう。
せっかくチケットを貰ったのに、悪いことをした。
カバルの頭の片隅が、そんなことを考える。
そもそも、あのチケットは一枚も残っていなかった。たとえ、町に辿り着いたとして、もう行くことは叶わないだろう。
それよりなにより、かなり有名な音楽家たちのライブコンサートが行われているはずだというのに、カバルの耳には、その喧噪の物音ひとつ届かない。
それは、町がかなり遠くにあることを意味しているのだろう。
──そもそも、逃げ場なんてあるのだろうか。
考えてもいなかったが、ここがマーリシーモ群島の別の島の可能性は?
この群島には、小さな無人島がいくつか点在していたはずだ。
海を隔たれ、そして悪党ども以外に誰もいない島だとしたら、カバルにはもう、なす術もない。
そんな絶望が、ひしひしとカバルの精神を苛み──、そして、ついにカバルは足を止めてしまった。
──きっと、無駄なのだろう。
近くにあった岩肌に背中を預け、喘ぐように肩で呼吸をする。
全身が、痛かった。
走り続けたせいで、筋肉も内臓も悲鳴を上げている。
そして、裸足で走っていたせいで、足の裏の皮は破れ、血が流れていた。
──もう、一歩も歩けそうになかった。
疲労のせいで鈍麻した思考とは裏腹に、感覚だけが鋭敏に冴え渡っている。
いや、それも幻覚だろうか。
耳に届く、草葉の揺れる音が、まるで人攫いどもの出す音に聞こえてならない。
実際、カバルの闘争は、既に人攫いにバレていた。
こればかりは、厳格ではない。
『くそ、あのガキどこに逃げやがった!?』
そう悪態を吐きながら、カトラスを振り回して草を切りながら、森を行く人攫いの男の一人。
カバルは木の陰に身を潜めて、それをやり過ごした。
もうどれくらい前のことだったかわからないが、一度撒いたからといって、探すのを諦めたとは考え難い。
(……見つかるのも)
時間の問題かもしれない、とカバルの心を弱気が蝕む。
(……でも、見つからないかもしれない)
確かに、人攫いに見つからない可能性だって、あるだろう。
だが、このまま遭難して、誰からも見つけてもらえなかったら?
あるいは、森の奥にいるという、凶暴な獣か何かに見つかってしまったとしたら?
どうせこんな大変で痛い思いをして、それでも結末が変わらないなら、何の意味があるのだろう?
「……あれ?」
声の出し方も忘れてしまったかのような、そんな震えたかすれ声が、カバルの喉から洩れる。
ぽたり
手入れのされていない家屋の汚れと、大自然である森の汚れで色が変わってしまったズボンに、小さなシミができった。
ぽたり
ぽたり
違う、そうじゃないとカバルは必死にそれをこらえようとする。
泣いたって、仕方ないじゃないか。
絶望したって、意味はないじゃないか。
やらなくちゃいけないのは、逃げることだろう?
頭では、わかっている。
しかし──、カバルはもう限界だった。
「────」
声は、出ない。
嗚咽の音すら出ずに、ただ、涙がぼたぼたと零れ落ちる。
(誰か──)
誰でもいい。
本当は、ずっと抱えていた感情だ。
孤児院でバカにされ、隅に追いやられ、居場所がなかったカバルが、ずっと抱えていた願望だった。
(──助けてよ)
でも、もう、何かあったら助けてくれたであろう両親は、この世にはいない。
それでも──、もしかしたら、助かったかもしれないと思ったのだ。
ふらりと森の中に現れた二人の音楽家と話して、孤児院のみんなのことが少し理解できたような気になったのだ。もしかしたら、今度はうまくやれるかも、なんて思ったのだ。
人攫いに遭うまでは。
(助けてよ──)
きゅっと唇を噛んで、カバルは汚れた手で顔をぬぐう。
助けて、と思いながら思い浮かべたのは、二人の音楽家の顔──。
紅白の髪で片目を隠した、快活な女性と。
黒い陽気なアフロヘアーの、骸骨の男性を。
カバルはふと、思い出す。
腰に提げている、この笛。
(──どうせ、歩けないなら)
賭けにすらなっていないけれど。
でも、もしかしたら。
この音で、誰かが気づいてくれるかもしれない。
人攫いではない、誰かが。
カバルは緩慢な動作で腰に提げた袋からケーナを取り出し、震える腕で、教えてもらった通りに楽器を構える。
ポーーゥ……
息が定まらないせいで、音が揺れる。
──ああ、吹いてしまった……。
取り返しがつかないかもしれない。
だって、この音は、カバルが助けを求める相手だけでなく、カバルを害そうとする者にまで聞こえるのだから。
ざっ──。
足音に、はっと顔を上げる。
そこにいたのは──。
「ようやく見つけた! このクソガキ、手間取らせやがって」
──ああ、やっぱり。
今までの人生、思い通りに行くことがあったか?
カバルは力なく、肩を落とす。
目の前に現れた人攫いが、カトラスを片手に、ニヤリと唇を歪めた。
────
───
──
─
スコン!!
夜の森の中に、小気味いい高い音が響く。
うっ、という低いうめき声に続いて、どさりと地面に肉が倒れ伏す音。
ふう、と息を吐く音がして──
「なん、で……?」
「いやァ、間に合って良かったよ!」
肩で息をしながら、汗を流し、身長ほどはあるだろう細い鉄の棒を肩に担いで、彼女が言う。
「カバル君、大丈夫?」
木の葉の隙間から差し込む月明かりに、紅白の髪が揺れる。
ティーシャツにジーンズ姿の女性。
ウタだった。
「ウタさん、どうして……?」
「どうしてって、カバル君が攫われたかも、って聞いたからだけど?」
何を当たり前のことを、と言わんばかりにあっけらかんとし言ってから、ウタがニッと歯を見せる。
でも、とカバルが弱々しい声で続ける。
「ライブは……?」
「待たせてある。主賓がいないんじゃ、締まらないでしょ?」
おどけたようにそう言って、ウタは手元を翻すと、鉄の棒がカシャン、と小さな音を立てて短くなった。
そのまま、ウタはカバルの前にしゃがんで、彼の頭に優しく手を置いた。
「大変だったでしょ? もう、大丈夫だよ」
優しく微笑むその顔に、カバルは堰を切ったように泣き出した。
「ううう……」
必死さで忘れていた恐怖を思い出したように。
懸命さでごまかしていた痛みを初めて知ったように。
そして、数年ぶりに、安堵というものに包まれたかのように。
まるで幼子のように、カバルは泣きじゃくった。
そんなカバルに、ウタは「よく頑張ったね」「もう大丈夫だよ」と何度も声をかける。
「でも、良かった」
え、とカバルが泣き腫らした目を上げる。
ほら、とウタは笑顔のまま言う。
「カバル君が、楽器吹けるようになってさ。それで、さっき吹いてくれたおかげで、この場所がわかったし。それがなかったら、多分そのまま通り過ぎちゃってたからさ」
ふふ、とウタがいたずらっぽく笑う。
「──落ち着いたら、町に帰ろっか。ニーナ修道女も、みんなも心配してたし」
「……み、みんなって?」
喉をヒクリと鳴らしながら、カバルが尋ねる。
小さく首を傾けて、ウタが答えた。
「孤児院のみんな。……ケンカは絶えなかったみたいだけど、やっぱり心配なんだって」
「あいつたちが……?」
「そ。きみとケンカの絶えなかった、孤児院の仲間たちが。……良かったら、これを機にしっかりお話してみたら? それに、話を聞くと、ケンカって程ケンカになってなかったみたいだし、しっかりぶつかってみるのもいいかもね」
「ぶつかる……?」
不思議そうに首を傾げたカバルに、ウタは少しだけ真面目な表情になる。
「そう。意見とか、主張が合わない同士で、しっかり自分の思っていることをぶつけ合うのって、相手がいるうちしかできないからさ。……いなくなってから、そのことを悔やんでも、ただ寂しいだけだし、虚しいだけだよ?」
そこまで言って、「なんて」と彼女は照れくさそうに表情を崩した。
「これ、受け売りなんだけどね! わたしも、そのことに最近気が付いたんだァ。……でも、今では、ケンカして良かったと思う。だから──」
そこまで言ったウタが、不意に言葉を切った。
目つきが変わる。
鋭い眼が音を探るように、右へ、左へと巡り、そして彼女の瞼が、その刃のような眼光をすっと覆い隠す。
深い、溜め息。
ウタは気怠げに立ち上がると、庇うようにカバルの前に立ちはだかり、そしてゆっくりと目を開いた。
「いい加減、邪魔しないでくれる? こう見えてもわたし、忙しいんだけど?」
口調の棘を隠さずに、森の奥を睨みつけ、ウタが言う。
ほんのしばしの沈黙。
ごくり、とカバルが唾を飲み込んだ音を合図にしたように、がさり、という音が暗い森の奥から聞こえた。
「いやァ、邪魔しないでほしい、というのは、こちらの台詞なんですがねェ」
白いシャツを着た、軽薄そうな細い男と、それに続く、体格のいい二人の男。片方は背が高く、もう片方はよりがっちりしているが背が低い。
「あ──」
カバルの喉が、思い出した恐怖でヒクリと鳴る。
細い男が、くつくつと笑いをこらえながら言う。
「邪魔ですか? クク、いったい、邪魔をしているのはどちらでしょうねェ、お嬢さん?」
「はァ?」
眉間に皺を寄せて、嫌悪感を隠さずに上げたウタの声。
しかし、そんなウタの態度に、男たちが動じた様子はない。
「まず一つ。ウチの従業員に手を出したこと」
「先に手を出したのはそっちでしょ?」
「次に、ウチの商品に手を出したこと」
「……まさか人間を〝商品〟だって言うつもり?」
「最後に、音楽家風情が、おれたちのやることに首を突っ込んだことだ」
最後までウタの言葉には反応を示さず、言いたいことを言い切った細い男は、後ろに控えた二人に「やれ」と簡単に命令を出し、そして高らかと言う。
「どんな高名な音楽家だろうと、奴隷として売られたら、唯の金づるにしかならねェよなァ!?」
下卑た笑み。
どうやら彼らは、ウタを生け捕りにして、ヒューマンショップやらなにやらで売りさばこうという魂胆らしい。
「……呆れた」
迫りくる二人の男を前に、ウタは小さく嘆息すると、くるりと手首を返す。
ジャコン!
金属の擦れる音がして、再びウタの手に、長い鉄の棒が握られる。
トン、と地面を軽く蹴って、男たちに肉薄する。
「ガキが──」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、背の高い方の男が脅すようにカトラスを振り回す。
(……遅い)
おそらく、牽制のつもりなのだろう。
先ほどあの細い男の言葉からもわかる通り、彼らはウタを〝商品〟として見ている節がある。
であれば、死体となってしまった人間に、〝商品価値〟はない。彼らがそう考えているのが、ありありと見てとれる。
ウタはひょいと身をかがめてその一撃を躱し、そのまま棒で足払い一閃。
体が浮いた男の土手腹を、棒の先端で突く。
「ぐ──」
呻いた男に追撃を食らわせようとウタは足に力を籠め、しかし考えを改め、彼女は前へと向かっていたその力を無理やり後ろへと反転させ、ふわりと跳び退る。
「ちっ」
小さな舌打ちは、背の低い男が放ったものだった。
構えていたカトラスを、所在なさげにゆっくりと下す。
「油断し過ぎだ、馬鹿」
「へへ、悪ィな……」
尻餅をついた背の高い男が、のそりと立ち上がる。
そして男たちは、ウタを中心に円を描くように、距離を保ったままじりじりと動く。
背の高い男が、左側に。
背の低い男が、右側に。
「はァ……」
そんな男たちの様子に、ウタは面倒くさいと言わんばかりに溜め息を吐く。
今軽く交戦した感触的に、おそらくウタが
だが、問題なのは、その後だ。
ウタの本気とは、それすなわち、彼女の持つ〝ウタウタの実〟の能力を使うこと。
消耗を鑑みて開発した、実用的な能力はあるにはあるが、しかしそれでも体力を大幅に使うことには変わりがない。
事が済んだら、今待たせている観客たちに、音楽を届けなければならないのだ。
ここで苛立ちに任せて能力を使ってしまえば、それに影響が出ることは必至だ。
ぴたり、
と、二人の足が止まる。
躱されても、同士討ちにならないためだろうか、それとも、あえて視界に残ることで、気を散らす目的があるのか。
ウタの真横よりも少しだけ前方に陣取った二人が、下卑た笑みを浮かべて、カトラスを構えなおす。
(……だけど、出し惜しみもしてられない、か)
ウタは苛立たし気に、しかし冷静にそう結論付ける。
理由は単純。
ケガをするわけにも、させるわけにもいかないから。
これからステージに立つ予定のウタ自身も。
そして、既に満身創痍なカバルのことも。
ウタは目を瞑る。
「なんかやる気か!?」
「潰しちまえ!」
男たちが襲い来るのが、ウタには手に取るようにわかる。
視覚に頼る必要はない。
足音さえ聞こえれば、それでどう動くのかくらいの予想は付く。
ウタは大きく息を吸い込んで、微かな木の葉の擦れる音を耳にして──。
「右!!」
叫ぶや否や、ダン、と地面を蹴って、ウタは背の高い方の男に肉薄する。
「ちっ、フェイク──」
カトラスを上段に構え、舌打ちする男。
ウタは冷静にそのカトラスを鉄の棒──〝
ガクン
顎という箇所は、人体でも結構な急所であり、そこを強く打ち付けられれば、首を中心として脳を揺らし、脳震盪を引き起こすことができる。
ずるり──
男は骨がなくなってしまったかのように、踏ん張りを効かすこともできず、顔面から地面に崩れ落ちた。
遅れて、弾き飛ばされたカトラスが地面に落ちて、やかましい音を立てる。
そしてウタは、背後から
「な……ん……」
男は、ガチガチと歯を鳴らして、何が起こったのか理解できないというように目を見開いていた。
恐怖?
それもあるだろう。
ウタに対して──ではない。誰だって不意を突かれれば、恐怖しようものだ。
だが、背の低い男が歯を鳴らすのは、単純に生物の生存本能故だった。
体が冷えれば、生物は死ぬ。生き残るためには、動く筋肉を震わせて、体温を維持する必要がある。
男は下半身を氷漬けにされて、その場に立ち尽くしていた。
「ヨホホ、こんばんは、いい夜ですねェ人攫い諸君。いかがですか、黄泉の冷気は?」
「ヒッ! が──、ガイコツ!?」
戦闘に参加していなかった細い男が、悲鳴を上げた。
そんな男の様子に、ブルックは低くヨホホと笑う。
「おやおや、悪党のくせに、しゃれこうべが怖いのですか? さんざん人の命を弄んできたというのに?」
そう言いながら、ブルックは空に向かって口を開き、
そのぽっかりと開いた暗い口の中から、薄緑色の〝魂〟がふわりと飛び出した。
「だというのに、死者が怖いと? 恨みが、憎しみが、怨嗟が、呪いが怖いと?」
「あ……ひ……」
言葉にならない悲鳴を漏らして、男の瞳がぐるりと上転する。
そしてそのまま、男はどうと音を立てて地面に倒れ伏した。
おや、というように、ブルックの〝魂〟がつまらなそうな表情を浮かべる。
「まったく、悪党のくせに、意気地のないことです。この程度で意識を失うとは……」
〝魂〟のままひとりごちるブルックの声に、霜を踏む軽い靴音が応える。
「ブルック、あんたのそれ、あんたが思ってるよりも怖いから」
「そうですか?」
「だってほら、カバルくん見てみなさいよ」
「え?」
ブルックはそのままふよふよと宙を舞って、ウタの後ろを覗き込む。
「…………」
「か、カバルさん?」
ブルックようやく、ブルックは木陰に座るカバルの様子に気が付いたようだ。
カバルはぽかんと口を開けたまま、ブルックと違い魂こそ見えないが、確実に〝放心〟していた。
「も、もしもーし、カバルさーん?」
〝魂〟のままカバルに近づき、ブルックが覗き込むようにしながら言う。
「あ……え……?」
寝ている人を優しく起こすようなその声色に、ようやくカバルは意識を取り戻し──
「ぎゃああああ!?」
「ひええええっ!?」
目の前の〝人魂〟に恐怖の悲鳴を上げて、今度こそカバルが気絶をした。
その恐怖の悲鳴に中てられて、ブルック自身も驚いたように悲鳴を上げてしまう。
「……って、おや?」
唖然とするブルックに体に戻るよう促して、ウタはさて、と気を取り直して真面目な話をする。
「で、ブルック、どう思う? こいつが首領なのかな?」
こいつ、と言ってウタは、目を回して倒れている細い男を指差す。
「ああいえ、その男は首領じゃないですよ」
と、ブルックはあっさりと応える。
「こっちに来るまでの間に、運良く人攫いたちのアジトを見つけまして。既にそちらは制圧してあります。その中に、首領と思しき人物がいたので、こちらはただ少し立場が高いだけの男かと」
特に手柄を振りかざすでもなく、淡々と戦果を報告するブルックに、ウタはぽかんと口を開けてしまう。
「……さすがというか、何というか」
ヨホホ、と小さく笑って、ブルックはカシャンと肩を竦めた。
「これでも元奇襲部隊隊長ですからねェ。どこぞの馬の骨ともわからない悪党に遅れは取りません。骨だけに!」
スカルジョークを言って、独りヨホホホと笑うブルックに対して、ウタは特に笑うこともせず受け流し、真面目な調子で言う。
「で、どうしよう?」
「ライブに戻る前に、もう一仕事仕上げておかないと」
「……まあ、ここまで露骨に人攫いがいるんじゃあ、まあきっと、
二人は意識や戦意を失った者たちを連れて、人攫いのアジトへと向かう──
お読みいただきありがとうございます
このお話は一応最後まで上がりましたので、あとは投稿するだけとなりました。せっかくですので最後までお付き合いいただけると幸いです
次回投稿は水曜の夜になると思われます。よろしくお願いします。