私の中になにかがいる   作:うえだ

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最初の事件

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空は雲に覆われているらしい。星は一つも見えなかった。月の姿もない。闇だけがあった。全てを黒く塗りこめた闇。

 

 

 

 

 

 

 

《おばばさまが目覚められます。》

 

 

 

 

 

 

 

声がした。男とも女とも分からない声だった。掠れて細く、僅かに震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

《確かか?》

 

 

 

 

 

 

 

別の声が応えた。低く、やはり掠れている。

 

 

 

 

 

 

 

《はい。》

 

 

 

 

 

 

 

《そうか。》

 

 

 

 

 

 

 

人の気配も動きも、息遣いも感じられない。闇の中で二つの声だけが聞こえる。

 

 

 

 

 

 

 

《間に合ったのか…。》

 

 

 

 

 

 

 

《さあ、遅すぎたかも。》

 

 

 

 

 

 

 

《遅すぎたとなれば…どうなる?》

 

 

 

 

 

 

 

《わかりません、ただ…。》

 

 

 

 

 

 

 

《ただ?》

 

 

 

 

 

 

 

《恐ろしいことになるかもしれません。》

 

 

 

 

 

 

 

《我々にとってか?》

 

 

 

 

 

 

 

《我々にとっても、人間にとっても。》

 

 

 

 

 

 

 

《ああ。》と二つの声は重なり、それっきり何も聞こえなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁー…」

 

大きなため息をつきながら、カチャカチャと音を立てて山積みになった食器を片付ける。

 

 

「なーに大きなため息ついてんの千歌、さっさとしな!」

 

美渡が同じように食器を片付けながら言う。

 

 

いつものこの時間帯ならもうとっくに家の手伝いを終え、お風呂から上がっている頃だ。

それに今日の練習はいつも以上にハードで、ダンスにストレッチ、ランニングに柔軟、更に基礎体力を付けるための沢山のメニューをこなしたのでぐったりするほどに疲れている。

 

 

「何で私もこんな時間まで手伝わなきゃいけないのさ!美渡姉明日仕事休みなんでしょ?あとは美渡姉がやってよー!」

 

千歌が抗議するように言うと、美渡は千歌をキッと睨みつけて大きな声で言った。

 

 

「家の手伝いくらいしろバカチカ!とっとと運びな!」

 

その大きな声に千歌は怯み、渋々片付けを再開する。

 

 

「うへぇ、人使い荒いんだから美渡姉は〜」

 

 

千歌はのそのそと食器を持って立ち上がると、洗い場へと歩いて行く。

廊下をしばらく歩き、洗い場の戸を開けると、志満が大量の食器を洗っていた。

 

 

「志満姉、食器持ってきたよー」

 

沢山の食器を持った千歌を見て、志満が優しく微笑みながら声をかけた。

 

 

「あら千歌ちゃん、お手伝いありがとう。」

 

志満の横にあるテーブルに食器を置く。

 

 

「千歌ちゃん、明日も学校でしょう?もう遅いしお手伝いはいいから、お風呂に入って早めに寝なさい。」

 

「えっ、いいの!? わーい!ありがと志満姉!」

 

先程美渡に手伝いを強制されたが、あっさり志満が手伝いから解放してくれて喜ぶ千歌は、早速風呂場に走っていこうとした。

 

 

「あっ!待って千歌ちゃん!」

 

「んえ?」

 

ようやくお風呂に入ってゆっくりできると思ったが、洗い場を出る既のところで志満に呼び止められた。

 

 

「あのね、しいたけにまだご飯あげられてないの。しいたけはもうお腹ペコペコだろうし、私はまだ仕事が残ってるから、千歌ちゃんあげてきてくれない?」

 

「えぇー!?しいたけこんな時間までご飯お預けにされてたの!?可哀想じゃん!」

 

 

しいたけとは、この十千万旅館の看板犬であり、高海家の大切な家族。

そんなしいたけにこんな時間までご飯お預けにするなんて…と、千歌は少し不満げに言う。

 

 

「ご、ごめんね!今日は団体のお客様がいらっしゃってて、中々ご飯あげられなくて…、しいたけにも悪いことしちゃったから今日は特別に鶏のささみをトッピングしておいたから。」

 

「ん、りょーかーい」

 

千歌は軽く返事をすると、しいたけの夜ご飯の入った皿を持って洗い場を出て行った。

 

 

少し廊下を歩き、玄関で靴を履き替えると店の正面の出入口から出る、そこから出て左手にしいたけの犬小屋はある。

 

 

「しいたけー!ごめんね!ご飯遅くなっちゃって!」

 

しいたけは犬小屋の中で横になっていたが、千歌を見ると嬉しそうにしっぽを振って犬小屋から出てきた。

 

 

「ほーら、今日は鶏のささみトッピングしておいたからね!」

 

しいたけの足元にご飯の入った皿を置くと、しいたけはガツガツと音を立てて勢いよく食べ始めた。

 

 

「ごめんね、お腹空いてたよね。今日はお客さんいっぱい来てたから中々ご飯あげに来れなくて…」

 

そう言いながら、千歌はがっつくしいたけの頭を優しく撫でた。

しいたけはあっという間にペロリとご飯を平らげると、千歌に甘えるようにすり寄ってきた。

 

 

「えへへ、しいたけは甘えんぼさんだね〜」

 

いつものようにしいたけのモサモサした毛並みを、少し荒めにワサワサと撫でていた。その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたっ!」

 

 

千歌の腕に痛みが走った。しいたけが軽く噛み付いたのだ。

 

 

「ギャウン!」

 

しいたけが叫んだ。

 

 

すると、今度は玄関へと突進していった。玄関の扉とぶつかる。

 

 

しいたけは全身の毛を逆立て、扉を前足の爪で引っ掻いたり噛み付くようにしていた。

 

 

「し、しいたけ!?」

 

千歌はこんな様子のしいたけを見るのは生まれて初めてだった。

 

突然のしいたけの豹変を姉達に伝えようと、千歌は急いで旅館の裏へ回る。今しいたけが突進している、正面のお客様が利用する出入口とは別の出入口があるのだ。

裏口までたどり着くと、力任せに勢いよく戸を開けて中へ転がり込み、廊下を走ろうとした。

その時。

 

 

 

突然、犬たちの遠吠えが始まった。内浦の町にいる全ての犬が、一斉に吠え始めたような騒ぎだった。

 

 

町の様子を確認するため千歌は二階にある自分の部屋まで走り、そして窓を開けた。

 

 

外を見ると、寝静まっていた町のあちこちに明かりが灯る。何事だと戸惑う人の声が、かすかに聞こえた。犬の吠え声に、猫の唸り声も混ざり始めた。そして────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ズザザザザ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内浦を囲む山が揺れる────千歌にはそう見えた。

 

 

 

 

 

 

旅館の窓ガラスに何かがぶつかる。

鳥だった。夜の鳥ではない。スズメだ。スズメが何羽も、窓ガラスにぶつかっては夜の空に舞い上がり、またぶつかって来る。

山では、何百羽という鳥が騒いでいるのだろう。羽音や鳴き声が、地鳴りのように千歌の耳に響いた。

 

 

「千歌ちゃん!」

誰かが千歌の名前を叫ぶ。

 

 

「梨子ちゃん!」

千歌の名前を叫んだのは隣の家に住む桜内梨子だった。この騒動を聞きつけ、同じく部屋のベランダから外の様子を伺っていたようだ。

 

 

「梨子ちゃん、なんか変だよ、犬も猫も。スズメまでぶつかってくるし…」

 

「千歌ちゃんの所はスズメなの? 私の家にはさっきカラスがぶつかって来たよ…」

 

「住んでる人の性格に合わせてるのかな?」

 

「ちょっと、それどう言う意味? と言うか、こんな時に冗談はやめてよ! …ヒッ…!? いま、ネズミが足元を走った…! …………あれ?」

 

 

梨子の声が戸惑う。吠え声が止んだのだ。スズメの姿も瞬く間になくなった。

 

 

千歌は窓から身を乗りだす。

 

 

山は遠くの闇の中に沈んでいた。十月にしては、生暖かい風が吹いているほかは、いつもの内浦だった。灯っていた家々の灯りが、一つ一つ消えていく。

 

 

 

 

なにも聞こえない。

 

 

 

 

風と闇の静寂が、千歌達を包んでいた。

 

 

「千歌ちゃん……何だったんだろう…?」

 

「わかんないよ。 うちのしいたけもおかしくなって…」

 

 

そう言えば、先程まで玄関に突進していたしいたけの姿が見えない。玄関に突進する音も聞こえない。

この様子だと、元のしいたけに戻ったのだろうか?

 

 

「梨子ちゃん、私、しいたけの様子見てくる。」

 

「えっ、大丈夫なの…? しいたけちゃんも様子おかしかったんでしょ?」

 

「でももう町の犬たちも落ち着いたし、鳥も居なくなったし…」

 

「でも…」

 

梨子は明らかに不安そうだった。

 

善子との一連ことがあって犬には触れるようになったが、やはり牙をむいて狂ったように暴れる犬は怖い、それは梨子に限らず誰だってそうだ。

しかし千歌にとってしいたけは家族。このまま放っておくことはできない。

何よりも心配だ。

不安そうな梨子を宥め、しいたけの様子を見に行くことを告げた千歌は、階段を下り裏口の扉を慎重に開けて外へ出ると、恐る恐る犬小屋の方を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

千歌は息を飲んだ。

 

 

 

 

 

しいたけが千歌を見ていた。その目────。

 

 

 

普段は長い毛に覆われていて見えないしいたけの目が、先程暴れたせいか目に被っていない。

 

 

 

 

 

しかし、その目が────いや、目のあった場所が、まっ黒な穴になっている。

底なしの暗闇のような二つ、千歌に向けられていた。

震えが足元から這い上がってくる。

 

 

 

 

 

 

「怖い、やだ…助けてっ…!」

 

 

 

 

 

 

悲鳴が喉の奥にへばりつく。足がもつれて、尻もちをついた。

 

 

 

 

 

 

その瞬間、ものすごい揺れがきた。千歌の体が浮き、地面に叩きつけられる。頭の中を閃光が貫いた。

 

 

 

 

 

 

千歌は、叫んだと思う。

 

 

でも、自分の声が耳に届かない。

 

 

何かに鷲掴みにされて、閃光の中に引きずり込まれ、そのまま、なにもわからなくなった。

 

そしてその時、僅かに梨子の叫ぶ声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワフッ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やわらかな声がした。しいたけの声だとすぐわかった。

 

 

続いて、頬から鼻のあたりを、ざらざらとしたものが舐める。

しいたけの舐め方だ。

 

 

千歌は、ゆっくりと目を開けた。

 

 

青い空が見えた。そして覗き込むしいたけの黒いつぶらな瞳。しかし、しいたけの目は昨日の恐ろしい目とは違い、光を宿していた。

 

 

ワフッ。

 

 

しいたけが、嬉しそうに千歌の顔を舐め回した。

 

千歌は起きあがり、唾を飲み込んで、その顔を見つめる。しいたけはいつもと変わりなかった。思わずしいたけを抱きしめる。

 

 

梨子の顔が、ふっと浮かんだ。

 

 

そうだ、梨子ちゃん…梨子ちゃんはどうしたろう。気を失う前に梨子ちゃんの声が聞こえたような気がした、梨子ちゃんは無事だろうか。

 

 

「梨子ちゃん」

 

 

その場から呼んでみる、返事が返ってこない。家がすぐ隣なので、このくらいの声で呼べば聞こえるはずだ。

 

 

千歌は息を深く吸い込む。

 

 

「梨子ちゃーーーーん!!!!」

 

「うわっ、ひえっ、はい。ひえっ、いただきます。」

 

 

訳の分からない言葉が、梨子の家の壁越しに聞こえた。

 

 

「あっ、おはよう千歌ちゃん…」

 

 

梨子は玄関の扉をゆっくりと開けて外へ出てくると、少し顔を赤らめながら挨拶してきた。

訳の分からないことを言ってしまったのが恥ずかしいらしい。

 

 

「あの、今の聞こえた…?」

 

「うん、バッチリ」

 

「ああぁ…! もう、恥しい…」

 

梨子は顔に手を当てて恥ずかしがる。

 

 

「ふふっ、いただきます。って…ぶふっ」

 

「わ、笑わないでよ! いきなり千歌ちゃんが大声で呼ぶから!!」

 

千歌が思わず吹き出すと梨子はずんずんと千歌の元まで歩いてきて、千歌の背中を軽く叩きながら抗議の声を上げる。

 

 

「ごめんごめん。 昨日の夜の、すごい揺れだったでしょ? それで、梨子ちゃん大丈夫かなってさ」

 

「あぁ、それであんな大声で…と言うか、千歌ちゃんは大丈夫だった? 私、あの地震で気を失っちゃったみたいで…さっき千歌ちゃんに呼ばれるまでずっと気を失って玄関で寝ちゃってみたいなの。」

 

「私もあの揺れで気を失っちゃって、そのままここで…それでさっきしいたけに起こされてすぐ梨子ちゃんを呼んだんだ。」

 

「えっ、外で気を失ったの!? 体痛くない? 風邪ひいてない?」

 

梨子は心配そうに千歌の体調を窺う。

 

 

「大丈夫大丈夫! 内浦の人間は強いのだ!」

 

ムンッと腕の力こぶを自慢するような仕草をとる。しかし力こぶは微塵もできていない。

 

 

「それにしいたけがそばに居てくれたみたいで、寒気とかしないし」

 

「そう…でも、調子悪いと思ったら言ってね?もう十月なのよ? 薄着で布団もなしに外で寝たら風邪ひいちゃうのが普通よ。無理はしないこと。」

 

「わかった。ありがとね、梨子ちゃん。 それとしいたけも! そばに居てくれたんだよね?」

 

ポンポンとしいたけの頭を撫でると、しいたけは嬉しそうにしっぽを振りながらワフッと一つ吠えた。

 

 

「それにしても、本当にすごい揺れだったわね…あの後やっぱり千歌ちゃんのことが心配で、様子を見に行こうと玄関近くまで行ったんだけど揺れがきてそこで…」

 

「そうだったんだ…大丈夫? 痛い所とかない?」

 

「うん、平気よ。 と言うか、それを言ったら千歌ちゃんもでしょう?」

 

「えへへ、そうだったね。 それにごめんね、心配かけて」

 

「ううん、いいのよ。 昨日様子が変だって言ってたしいたけちゃんも、その様子だといつも通りみたいだし」

 

「う、ん。 元に戻ってよかった、本当に…」

 

千歌はぎゅっと、しいたけを抱き寄せた。

 

 

昨日のしいたけは一体なんだったのだろう。

ご飯がもらえないで機嫌が悪かったのだろうか?

 

いや、しいたけは機嫌が悪いくらいで噛んだりしないし、噛み付く前まではしっぽを振って擦り寄ってきたくらいだ。

それが急に噛みつき、そして狂ったように暴れ始めたのだ。

それに昨日は町中の犬たちの様子がおかしかった。

 

それにあの目、あの目は機嫌が悪いじゃ片付けられない。

あんな目は今まで、しいたけに限らず見たことがなかった。

そんな事を悶々と考える千歌の隣で、梨子は辺りをキョロキョロと見回していた、それから少し不安そうな表情を浮かべながら、何かを考えいるような顔をしていた。

 

そこへ。

 

 

「梨子ー? 外にいるの?」

 

「あっ、お母さん!」

 

梨子の母が玄関から顔を出して、梨子を呼んでいた。

 

 

「朝からどうしたの? あら?千歌ちゃんもおはよう。」

 

梨子の母は優しい笑顔で挨拶した。

 

 

「おはようございます。」

 

千歌も微笑みながら挨拶する。

 

 

「部屋へ見に行ったら居なくてビックリしちゃったわ。 外に居るってことは二人で朝練?」

 

「いや、そういう訳じゃないんだけど…」

 

千歌は話す梨子を横目で見た。

先程から梨子は不安そうな表情を浮かべたり、考え込むようにしたり、顔を少し顰めている。

 

 

「それよりお母さん、昨日の夜…大丈夫だった?」

 

「 ? 大丈夫よ?」

梨子の母は、少し不思議そうな顔をしながら答えた。

 

 

「そっか、でも昨夜の地震はすごかったね。 私あの揺れで…」「…え? 地震?」

梨子の母は梨子の言葉を遮って、聞き返すように言った。

 

 

「昨日の夜に地震なんてあったかしら?確か、犬たちがすごく吠えていたのは知ってるけど。」

 

 

「「え??」」

 

千歌と梨子は同時に言葉を発し、耳を疑った。

 

 

 

「き、昨日の夜!すごく大きな地震があったじゃないですか!」

 

千歌は梨子の母に食い気味で聞いた。

 

 

「そ、そうだったかしら…昨夜は普通に起きていたけど、地震があったなんて知らなかったわ。 そんなに大きな地震だったの?」

梨子の母の発言に、千歌と梨子は顔を見合わせて困惑した。

そして同時に、背筋に嫌な寒気がした。

 

嘘か冗談でも言っているのかと思ったが、こんな嘘や冗談なんて言うだろうか。

そもそも、梨子の母は嘘や冗談などを普段からあまり言わないし、今の梨子の母はすこぶる真面目な顔であった。

 

嘘じゃないとして。あんなに大きな揺れに、気が付かないなんて事があるのだろうか?

 

千歌も梨子も、あの揺れで気を失ってしまう程の揺れだったと言うのに、何ともなかったのではなく、気が付かなかった…?

 

 

 

「お、お母さん…それ本当…? 本当に気が付かなかった?」

梨子は震えた声で聞き返す。

 

 

「え、えぇ。 あ、でも…昨日窓ガラスに何か当たるような音を聞いたわ。 なんだったのかしらねぇ…」

 

「あ、あれはカラスよ…」

 

「カラス?」

 

「う、うん…昨日犬たちが騒ぎ始めた直後に、鳥たちもおかしくなったみたいで…うちの窓ガラスにカラスがぶつかってきたの。」

 

「嘘!あれカラスだったの…!? 怖いわねぇ…、一体昨日の騒ぎはなんだったのかしら…それによく窓ガラスが割れなかったわね。 ヒビも入ってないみたいだし、良かったぁ」

 

「そ、そんなことより! お母さん!昨日の地震のこと!!」

 

「え? うーん、私は地震があったなんて気が付かなかったわよ? 夢でも見ていたんじゃない?」

 

梨子の母は先程とは違い、今度は聞き流すように答えた。梨子達が夢でも見ていたのか、寝ぼけていたと思っているようだ。

 

 

「そ、そんな訳…!」

 

「それより。 朝練するならいいんだけど、早めに切り上げなさいね? 今日も学校あるんだから。」

 

「あ!!!」

 

梨子の母の言葉を聞いて、千歌が何か思い出したかのように叫んだ。

千歌の突然の大声に驚いた梨子が、びくりと肩を震わせた。

 

昨日の騒動のことで頭がいっぱいになっていたが、今日もいつもと変わらずに学校はある。

 

 

「ごめん梨子ちゃん! 私、支度してくる!また後で!」

 

 

千歌の頭の中の最重要事項が、"昨日の騒動"から"学校の支度"へと一瞬で切り替わった。

千歌は勢いよく立ち上がり、尻や背中についている砂を軽く払うと、梨子に一度別れを告げて玄関へと走った。

 

幸い、支度をする時間はまだ十分にある。

 

昨日の騒動のおかげで風呂に入り損ねていた千歌は、風呂場へ駆け込み、急いで髪と体を洗い、体を拭いて髪を乾かし、朝食を食べ制服に着替える。

朝からドタバタしていたせいで、美渡にうるさいと怒鳴られた。

 

支度が終わり時計を見ると、いつも家を出る20分前。急いだおかげでいつもより早く支度が終わった。

支度が終わって特にすることもないので、とりあえず自分の部屋へ戻ろうと階段を上がり、廊下を歩く。

 

すると、窓から制服に着替えた梨子の姿が見えた。

 

 

「おーい! 梨子ちゃん!」

 

「…! 千歌ちゃん」

 

千歌に声をかけられすぐに微笑んだ梨子だったが、声をかける前の顔は眉間にしわを寄せながら、顎に手を当てて、何か考え込んでいる様だった。

 

 

「どうしたの? 眉間にすごいしわ寄ってたよ」

 

「え!?」

 

さっと眉毛の辺りを手で抑える梨子。

 

 

「考え事?」

 

「う、うん。 ほら、今朝のお母さん…あんなに大きな地震があったのに気が付かなかったって言ってたじゃない」

 

「あっ…今の今まで忘れてた」

 

「はぁ…そんなことだろうと思った」

 

「あ、あっはは、ごめんごめん! 学校の支度のことで頭いっぱいになっちゃって…それに昨日の騒ぎでお風呂入り損ねてたから」

 

「もう、お母さんが学校のことについて言ったらすごい勢いで支度しに行っちゃって…」

 

「ご、ごめんって!」

 

「まぁいいけど…それより。千歌ちゃんは昨夜の地震のこと、ちゃんと覚えてるよね?」

 

「うん。あんな地震があったのに寝れちゃった自分が怖いよ。 でも揺れのわりには大した事なかったみたいだね。」

 

「ううん、違う…」

 

「え?」

 

「千歌ちゃん、家の中や自分の部屋の中見た? どこか変わった所ない?」

 

 

梨子に言われ、後ろにある自分の部屋を見回す。

 

 

部屋の中───机、本棚、ベッド、ぬいぐるみ、カーテン、ボードに貼った幼い曜と果南と千歌の写った写真、Aqoursのメンバーで撮った写真、ゴミ箱の中に無造作に捨てられた何かしらの容器…

 

 

「えー…? あっ!!」

 

「え、何かあった?」

 

「こ、これ…!」

 

 

千歌が手に持ったものを目を凝らして見つめる梨子。

 

 

「…?? それは?」

 

「曜ちゃんと果南ちゃんに買ってもらった限定プリン!!食べられてる!楽しみにしてたのに…!!」

 

「は、はぁ…」

 

「千歌の部屋のゴミ箱にプリンの容器を捨てていくなんて、こんな大胆なことするのは…絶っ対犯人は美渡姉だよ!」

 

「千歌ちゃん、そうじゃなくて。」

 

「いやいや! あれは季節限定で、更に数量限定の激レアプリンだよ!?曜ちゃんと果南ちゃんが千歌の為に一個多めに買ってくれてt」

 

「はぁ…千歌ちゃん!!!!」

 

「へァい!?」

 

梨子の大きな声が頭に響き、千歌は思わず変な声で返事をしてしまう。

 

 

「今はプリンどころじゃないの! いい?あれだけの地震があったなら、部屋の中の物が散乱しててもおかしくないでしょう? 何しろ。体重四十キロちょっととは言え、私の体が吹き飛ぶ程の衝撃があったの。なのに今朝、目が覚めてみたら、何も変わってない。 これはおかしいよ…」

 

「…うそつき」

 

「え?」

 

「体重四十キロちょっとって、何気にうそついて「うるさい。 とにかく、これは流石におかしいよ。」

 

「じゃあ昨日のは一体何だったの…?」

 

訊ねようとした時、千歌の部屋の襖が開いた。

 

 

「千歌ァ!弁当テーブルに置きっぱ!」

 

美渡が弁当の包みを片手に、襖を乱暴に開けて入って来た。

 

 

「おっ、梨子ちゃんおはよ。」

 

「あ、おはようございます。」

梨子は軽くお辞儀をしながら、窓越しに挨拶する。

 

 

「…美渡姉、昨日の夜大丈夫だった?」

 

「夜ぅ?なんかあったっけ?」

 

「すごい騒ぎだったじゃん」

 

「あっ、そう言えば犬が騒いでたような気がするな。私は片付け終わった後に仕事の書類を集中してやってたから、あんまし分かんなかったけど。」

 

嘘だね、美渡が仕事の書類を集中していたと言う時は、大抵、枕を抱えて寝ていた眠っていたという時だ。

千歌は頭では思ったが口には出さなかった。

 

 

「その後の揺れはどうだった?」

 

美渡は小さく目を瞬く。

 

 

「揺れって、地震あったの?」

 

「えっ、美渡ねぇも何にも感じなかったの? そんな爆睡してたわけ?」

 

「お? 喧嘩売ってんのか?」

 

「ちょ…」

 

梨子が少し慌てる。

 

「ごめんて、それで?」

 

千歌は軽く謝ると、流すように続きを促す。

美渡は軽くあしらわれたことに不服そうだが、千歌の質問に遅れて答える。

 

 

「……夜、動物が騒いでたのは知ってる。 なんとなく、うるさいなって思った途端ぱたっと静かになったけどね」

 

「その後は何にもなかった?」

 

気のせいか、美渡の顔が引き締まったかのように見えた。

 

 

「夜の騒ぎの後、私的には何もなかった。いつもの夜だった。 千歌、あんたなんかあったの?」

 

「…うんや…しいたけの様子が昨日少しおかしかったから…」

 

「え、どんなだったの?」

 

「軽く手を噛まれて…」

 

「手を噛まれたぁ!? 見せな!」

 

「へ、へーきだよ!血も出てないし、そこまで痕にもなってないし、軽く噛まれただけだから!」

 

ぐいと千歌の手を引っ張り、噛まれた方の手をまじまじと見る美渡。少し痕が残っているが、見た感じ何ともなさそうである。

 

 

「……、一応消毒して、絆創膏してから学校行きな。」

 

「えー、大袈裟な」

 

「いいから、救急箱出しといてやるから自分でやんな」

 

「はーい」

 

美渡が心配してくれていると察して、千歌は素直にそれに従う。

 

 

「それで、しいたけは…その後どうなってたわけ?」

 

「玄関に突進してた」

 

「あれしいたけだったのか…窓にスズメがぶつかってきてたから、てっきりカモメやトンビみたいな大型の鳥がぶつかってる音だと…通りでデカい音だと思ったわ。」

 

「それでね、すごく様子が変だった、目が…おかしかったの。」

 

「目?」

 

「うん。 まっ黒というか、まるで…目があった場所に…穴が空いたみたいに…」

 

「…私も様子見てくる。」

 

「いや、今は大丈夫。 朝様子を見たけどいつも通りだったよ」

 

「おっけ、でも心配だから私も見てくる。 お前は消毒と弁当忘れんなよ〜」

 

「はーい」

 

千歌が軽く返事をすると、美渡は襖をぴしゃりと閉めて、階段を降りて行った。

 

 

「…美渡さんも、揺れには気が付かなかったようね…」

 

「あの揺れは夢…じゃないよね? 梨子ちゃんも確かに覚えてるよね?」

 

「ええ。 でも、昨日の地震…何だかおかしいわ…」

 

「うん…」

 

 

 

予感がする。

 

 

 

それは、何か普通じゃないこと巻き込まれる予感。

 

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