甲斐のフロイトこと尋之徳兵衛について 作:示威P亭 茶亜斗
尋之徳兵衛といえば、この書を語らずにはいられません。
『尋之草』についてです。
『尋之草』は、江戸時代中期に生きた尋之徳兵衛が書いた思想書であり、彼の哲学的見解や宗教的信念が綴られています。全10巻からなり、各種の学問や信仰、生き方などが詳しく述べられています。
具体的には、以下のような内容が含まれています。
自然哲学
尋之徳兵衛は、自然が万物の根源であり、自然の摂理に従って生きることが大切だと考えていました。このため、自然現象や天体の運行などを研究し、その知見を『尋之草』に記しています。
神道思想
『尋之草』には、神道思想に基づく信仰も多く記されています。天狗神信仰も含まれており、彼自身もその信仰の一員でした。また、神道において重要な役割を担う「神職」の在り方や、祭祀の意義なども記されています。
人生哲学
尋之徳兵衛は、人生の意義や目的についても考えており、『尋之草』には彼の人生哲学が綴られています。彼は、個人の自由や尊厳を尊重し、人間が自分自身を省み、自己完結的な生き方をすることを主張していました。
経済学
『尋之草』には、商業や農業などの経済活動についても触れられています。尋之徳兵衛は、農業や手工業を重視し、商業については慎重な姿勢を取っていました。また、金銭に対する考え方や節約術なども記されています。
『尋之草』は、尋之徳兵衛が数十年にわたって蓄積した知識や経験を綴った、豊富で深い内容の書物です。彼の思想は多岐にわたり、現代でも広く影響を与えています。
また序章では医術について書かれていた『尋之草』ですが、現存している写本には彼独自の医術については書かれておらず、主に哲学的な考察や社会批判が中心となっています。現存する『尋之草』の写本によって異なる部分がありますが、主な内容としては以下のようなものがあります。
・物事の本質を見極め、真理を突き詰めることの重要性
・権力者や富豪による搾取や不正に対する批判
・天災や疫病などの自然災害についての考察
・人間関係や生き方についての哲学的な考察
・仏教や神道についての考察
尋之徳兵衛は医師でもあり、彼自身が実践していた医療行為についても記録が残されています。彼は、当時一般的であった漢方医学に加えて、自然療法や食養生法などを取り入れた独自の医術を確立していました。しかし、これらの医術については『尋之草』には記述されておらず、別の文献に残されているものがあります。
全10巻とされているこの書も、見つかっている写本には巻数については書かれておらず、これについては現存している巻数であり、遺失した巻に医術についても書かれた書があると見るのが通説となっています。
『尋之草』は、尋之徳兵衛が独自に執筆したもので、当時の一般的な文学や思想とは異なり、非常に独創的な内容となっています。尋之徳兵衛は、農民と武士の関係を心理学的に捉え、人間の本質や社会的な構造を探求し、その問題点を明らかにしています。
また、『尋之草』は、農民や庶民の視点から社会を捉えており、当時の支配階級である武士の支配に対して批判的な立場を取っています。彼は、武士が農民を虐げることは、人間性を欠いた行為であり、農民を尊重することが、社会全体の発展につながると主張しています。
『尋之草』は、当時の農村社会における問題点を明らかにし、その解決策として、道徳的な観点から人間の本質を探求することを提唱するなど、非常に興味深い思想書となっています。現代でも、社会問題を心理学的・哲学的な視点から捉えることが重要であることを示唆しています。
その書の中でこのようなエピソードがあります。
武士が上山田村の農民を無礼打ちにした事例をあげて、「早急な施策は悪徳と相成らん」と尋之徳兵衛は説きました。
彼が「早急な施策は悪徳と相成らん」と説いたのは、当時の社会において、武士階級が農民に対して行っていた無礼な行為や虐待が、支配階級である武士たちの倫理観を欠いたものであると指摘し、それに対して早急な対策を取ることが、結果的に社会全体の混乱を招くことになる可能性があるということです。
尋之徳兵衛は、「施策」とは、ここでは武士階級が農民に対して行う虐待や無礼などの行為を是正するための政策や措置を指しています。しかし、彼は、社会における倫理的な問題に対しては、単に政策や法律を制定するだけでは解決できないと考えていました。彼は、人間の心の問題に根本的な解決策があると信じており、人々が倫理的な観点から行動することを促すことが、社会全体の発展につながると考えていました。
つまり、尋之徳兵衛は、武士階級が農民に対して行う無礼な行為に対しては、政策や措置を取ることが必要であると認めつつも、それ以上に人々の心の問題に着目し、道徳的な観点から社会を改善することを提唱していたのです。
尋之書が散逸している原因としては明治政府による焚書にあります。
尋之徳兵衛の著書『尋之草』が焚書されたのは、明治14年(1881年)のことです。
当時の新聞記事によれば、明治14年12月22日に、東京市下谷区の池之端警察署の前で書籍焼却が行われました。焼却された書物は、反政府的な内容が含まれるとして、尋之徳兵衛が著した思想書『尋之草』や他の様々な著書でした。
新聞記事は、焚書を実行した警察官たちが「この書物は国家の安定を乱し、反逆的である。現代の儒者である吉田松陰も同様の考えを持っていた。」と語ったと伝えています。焼却された書物は数千冊にも及び、多くの書物が失われたとされています。
尋之徳兵衛の著作『尋之草』が明治政府によって焚書処分され、閲覧を固く禁じられた理由については、複数の要因があると考えられます。
まず一つ目は、当時の政治体制が、旧来の封建的な社会秩序を打破し、西洋化・近代化を進めるためのものであったことです。明治政府は、近代的な国家体制を確立するために、自由主義や個人主義的な思想を重視し、伝統的な日本の思想や文化に対しては否定的な姿勢を取っていました。このため、『尋之草』のような伝統的な価値観や思想を掲げた著作が排斥されることになったのです。
二つ目は、『尋之草』が当時の支配階層にとって批判的な内容を含んでいたことが挙げられます。尋之徳兵衛は、農民や庶民たちが抱える苦しみや悲しみに共感し、彼らの立場に立った視点で社会を批判しています。このような姿勢は、当時の支配階層にとっては好ましくなく、政府による弾圧の対象となったのでしょう。
三つ目は、当時の社会情勢によるものです。明治維新後、急速な近代化が進み、社会的変革が起こりました。このような変化がもたらした不安や不満が、社会的不安定要因となり、政府はそのような状況を打開するために、知識人や文化人の活動を抑制することで、社会的安定を維持しようとしたのです。
以上のように、『尋之草』が焚書処分され、閲覧を禁じられた理由には、明治政府の近代化政策や支配階層の保守的な思考、そして社会的不安定要因によるものがあったと考えられます。
尋之徳兵衛は、複数の著作に記名されているため、同一人物であるという見方が一般的ですが、実際には複数の人物が同名であった可能性もあります。また、江戸時代には筆名を用いることが一般的であり、尋之徳兵衛という名前も筆名である可能性があります。
また、当時の書物は作者の名前を公表せず、匿名で出版されることが多かったため、正確な筆者の特定が困難であることがあります。そのため、尋之徳兵衛の正体が不明確である点は残念ですが、彼の著作からは、当時の社会状況や人々の心情について多くの知見を得ることができます。
「尋之派」について
尋之徳兵衛が書いた『尋之草』や他の著書から派生した研究を総称して「尋之派」と呼びます。尋之徳兵衛の著書には、当時の社会における人間関係や倫理観、心理状態について独自の観点から深く掘り下げた記述が多数含まれており、江戸時代における心理学の先駆的存在とされています。尋之徳兵衛の思想は、現代でも多くの人々に影響を与え続けています。
尋之徳兵衛の著作について
尋之徳兵衛が著した書物には、『尋之草』以外にも以下のようなものがあります。
『阿波論』- 倫理観について論じた書物で、人間関係や人間の行動原理について掘り下げた内容が特徴的です。
『心性尽誠抄』- 倫理観や宗教観を論じた書物で、人間の心の本質について深く探求した内容が含まれています。
『後妻引』- 家族関係や夫婦関係を扱った書物で、当時の社会の慣習や習慣に対する批判的な視点が含まれています。
『養生訓』- 健康観や生活習慣について論じた書物で、食事や運動、睡眠などの生活習慣が人間の健康に与える影響について探求した内容が特徴的です。
これらの書物には、尋之徳兵衛が自身の経験や洞察に基づいて独自の哲学や心理学を展開した内容が含まれています。また、これらの書物は、現代においても多くの人々に影響を与え続けています。
その中の一冊、『心性尽誠抄』は近年、映画化がされて北野武が監督として辣腕を振るったことで話題になりました。この作品では北野武監督は京都の有名寺院での撮影を構想としていました。ですが、撮影場所として京都の寺院が選ばれたことが問題視されたため、寺院側から反対されたと言われています。京都には数多くの歴史的建造物があり、そうした建物に対する畏敬の念が深く根付いているため、寺院側からすれば、映画の撮影によって建物や文化財が傷つくことを危惧して反対したのかもしれません。また、映画の内容が宗教的なものであるため、寺院側が映画の内容に対して慎重な対応をとった可能性もあります。
ロケ騒動の際に住職が『心性尽誠抄』を「仏の御心に反する悪辣な本」と評しましたが、その理由には、様々な要因が考えられます。まず、建仁寺は臨済宗の寺院であり、臨済宗は唯識思想に基づいた禅宗と異なり、儒学や仏教の結集といった、より社会的な教育に重点を置いた宗派として知られています。一方、『心性尽誠抄』は、臨済宗の曹洞宗への接近を図った曹洞宗の僧侶・叡山雪岳が著した書であり、唯識思想を批判する立場をとっています。
そのため、建仁寺の住職が『心性尽誠抄』を批判することで、自派の信仰や思想を守ろうとした可能性があります。また、歴史的背景として、明治時代に入り仏教界でも国家主義的な風潮が強まり、神仏分離や仏教批判が行われるようになったことも、建仁寺の住職が『心性尽誠抄』を批判する理由の一つに挙げられます。
また北野武監督が『心性尽誠抄』の映画で描いた叡山雪岳のラストシーンには、叡山雪岳が自ら命を絶つという描写があります。この描写は、原書には存在しないフィクションであることが確認されています。
北野武監督がこの描写をした意図は、叡山雪岳の哲学を映画で表現するためであったとされています。映画のラストで、叡山雪岳は自らの死を選び、死に際に歌う歌の歌詞には「名月の夏の夜更けに 陽炎と寒さ覚えし 我が身なるかな」というものが使われています。
この歌詞は、江戸時代の俳人、松尾芭蕉が詠んだ歌であり、夏の名月に冷え込みがあり、陽炎がかかる様子を表しています。北野武監督がこの歌を選んだのは、叡山雪岳の哲学に共鳴するところがあったからと考えられます。叡山雪岳は、自然の摂理に従い、自らの心を鍛え、生きることを信じていました。映画のラストシーンでの叡山雪岳の死は、彼が自然の摂理に従って生きた結果であると同時に、自らの命を終わらせることで、その哲学を示すものであったと考えられます。
北野武監督がこの作品で示したかったことは、尋之徳兵衛の思想や生き方を通じて、現代社会に生きる人々に何かを問いかけたかったとされています。具体的には、現代社会での人間の価値観や生き方に対する疑問や問題意識を描き、それらに対する解決策や示唆を提供することを目的としていたようです。
作品は、公開当時から多くの反響を呼び、社会に大きな影響を与えました。例えば、映画に登場する「極楽とんぼ」のように、尋之徳兵衛の言葉や教えをもとに生き方を変えた人々が現れました。また、映画の影響で尋之徳兵衛の書物が再評価され、多くの人々が彼の思想や教えに関心を持つようになったと言われています。
さらに、映画のテーマである「心の在り方」が社会に広く浸透し、ストレスやメンタルヘルスに関する問題に対する認識や対応が改善されたとも言われています。つまり、北野武監督が描いた尋之徳兵衛の世界観や思想が、現代社会において人々の生き方や精神的な健康に対する認識や対応に影響を与えたと言えます。
この映画に対して、伊集院光さんは自身のラジオ番組で「永遠の中二病乙」とコメントしています。「中二病」とは、日本で言われる青少年期に多く見られる、現実逃避や自己顕示欲、ロマンティックな妄想などの傾向を指す言葉です。伊集院光さんが「永遠の中二病乙」とコメントしたことは、この映画がある種の中二病的な妄想やファンタジー的な要素を持っているという意味であると解釈されます。具体的には、尋之徳兵衛という架空の人物を主人公にし、彼が数百年にわたって生き続け、さまざまな歴史的事件に関わっていくというストーリー展開や、叡山雪岳が歌を歌いながら海に入水するというシーンなどが、中二病的と評された理由の一つでしょう。
伊集院光さんのラジオでのエピソードについては個人的に笑わせていただきました。