1405から1433にかけて鄭和は7回も大航海を成功させアフリカ沿岸まで到達した。
「鄭和の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれた。『明史』によれば長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)、8,000t、マスト9本であり、小さく見積もっても長さは約61.2m、1,170t、マスト6本という巨艦とも言われる。出土品や現代の検証から、全長50m前後という説もある。またこの他、給水艦や食糧艦、輸送艦も艦隊に加わっていたと推測されている。
艦隊の参加人員はどの航海においてもほぼ2万7000人前後となっており、正使、副使などの使節団を中心として、航海士や操舵手、水夫などの乗組員、指揮官を筆頭とした兵員、事務官や通訳などの実務官僚、医官など様々な職種からなっていた。
この二万七千人という規模は、約六十五年後のヨーロッパの大航海時代の船団の規模を軽く凌駕する規模であった。」ウィキペディアより
参考までに、1492 コロンブス 船3隻 船員 120
1498 バスコダガマ 船3隻 船員 90
また、960年から1279年、中国、宋王朝の時代には「水車を原動力とする紡績工場」つまり、後年ヨーロッパで起こる産業革命の直接的要因の、水力紡績機が存在していたのである。
更に、鄭和の大航海時代、中国は、押しも押されぬ世界最強国家「明」であった。
だが、我々が知るように、その後明王朝では、大航海時代も産業革命も起らなかった。
それはなぜか?簡潔に云うなれば、宦官が政治紛争に敗北したことに起因する。宦官とは当初後宮の世話をするために、起用した去勢された異民族のことである(殷王朝)、その後は、刑罰として取り入れられ、宮刑と呼ばれた。その後なんやかんや在り、奴隷に過ぎ無かった宦官は、皇帝に幼少期から接しているため、最も信頼出来る存在として、台頭してくる。(ここら辺の歴史は非常に面白いが話すと脱線してしまうため省略)そしてこの宦官こそが、鄭和─鄭和自身も宦官─の大航海を始めとする、対外政策の音頭取りであった。そして、何やかんやあり宦官が腐敗し、また政治的権力も弱くなると、当然、積極的対外政策も終わりをむかえ、紡績機の改良も禁止される(明王朝)。
だが、もし、もしであるが、明王朝がその後も積極的対外政策を打ち出し、インカ帝国を征服し、アフリカを植民地とする。そんな世界が訪れたかもしれない、と思うのは私だけでは無い筈。少なくもその当時の中国にはその力があった。その後は植民地から巻き揚げた富で、産業革命を達成し、世界に覇を唱える力が。
そうなる以上、有史以来中国の影響を、色濃く受けていた日本も、その波に乗っていたのでは無かろうか?1392年南北朝時代が終焉した後、1402年より始まった、日明貿易を始めとする動きを観るに、もし、明王朝で1433年以降も大航海を続け、アメリカ大陸発見()やヨーロッパまでの航路開拓を行なった場合、日本も艦隊を編成し、アメリカ大陸やアフリカ大陸、東南アジアに植民地を築き大帝国を建国したのかもしれない。
勿論、イギリスお前は極西だ。
そして此の作品では、前述の世界観の元、大帝国となった日本、その国の繁栄から没落、崩壊まで素人の稚拙な、考察や妄想を元に書き殴るものである。
プロット?何それおいしいの?
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