8~9話で完結、5話まで毎日投稿予定です。
姿を隠した太陽に代わって、手元の液晶が住宅街を密かに照らしていた。いつもなら賑やかな通りが閑散として見えるのは、子供たちが一人残らず家に引っ込んでしまったせいだろう。気付けば、小さかった雨粒は勢いを増して、力強く傘を叩き始めていた。
風に流された雨粒の一つが、光に吸い寄せられるようにスマートフォン画面の上で弾けた。散り散りになった水滴の残党が表面張力をもって図々しく居座ると、その下で文字を象っていた光は屈折して滲んだ。僕は慌てて指で拭き取ろうとして、画面をあらぬ方向へとスクロールしてしまう。
「ちっ」
苛立ちが抑えられず、舌打ちが漏れた。目で追っていた文字列が遥か後方に流されていったこともそうだが、それ以上に、目に飛び込んできた広告に腹が立った。時間とともに変化する漫画の埋め込み広告は、中学生の女の子が同級生からいじめを受けている様子を切り取っていた。
彼女は、ゴミを押し付けられ、椅子を蹴飛ばされ、持ち物を捨てられ、的当ての得点板にされていた。一つの抵抗もなく、ただ辛そうにするだけの彼女に、いじめはエスカレートしていく。当然だ。子供に面白がって潰される虫と同じく、弱者は命を失うまで遊び道具であり続ける。
もちろん、僕は彼女のような弱者ではない。いつでも反撃できる用意があったし、同級生もそれを察しているのだろう。今のところ直接的な手段に出てくる気配はなかった。
彼らが僕にしたことと言えば、精々が机に「スマホ太郎」の文字を彫り込んだぐらいのものだ。これは下敷きひとつで解消できる問題だったし、それ以下の小さな嫌がらせなど、気にする必要すらない。結局のところ、彼らは僕にとって無害な存在だった。
ちなみにスマホ太郎とは、クラスメイトが僕に付けた渾名である。僕の名前は太郎ではないが、名前を覚えるに値しないという意思表示か、ネットを通じてしか発信できない「名無し」としての性質に対する皮肉なのだろう。
実のところ、僕はこの渾名を気に入っていた。頭の足りていない彼らにしては悪くないセンスに思えるのだ。学校での呼び名など太郎で十分だし、彼らが嗤ったスマホから繋がるネットにこそ、日常の中に見えない真実が転がっている。
長方形の画面の中は、彼らの知らない僕の領域だ。だから、この場所には入ってくるな。今まで止まっていた指を素早く動かして、不愉快な広告を非表示にした。
画面上の活字を追いかける作業を再開しながら、わずかに歩調を早める。今は雨を凌げる自宅が恋しかった。
移動距離を短縮するため、住宅街の隅を埋める公園を横切ることにした。背の低い雑草が懸命に根を張っていても、雨を含んだ土は頼りない。僕はまともな足場を求めて、中央に居座った樹の影を選んで踏みしめた。途中、積み上げられていた石を蹴り飛ばしてしまったが、抗議の声は聞こえてこない。やはりと言うべきか、公園には僕の他に人影がなかった。
だから、それを受けたのも僕一人だった。
最初に見たのは白い光だ。暗かったはずの公園は、その瞬間、白に塗り潰された。僕は即座に体の感覚を失って、光が去っても視界が戻らなかった。何が起きたのかは分からないままで、自分が世界から切り離されたことを辛うじて察する。
これで終わりなのか。薄れゆく意識の中で、電源が切れて真っ暗な画面のスマートフォンのイメージだけが、奇妙なほど鮮明に浮かんでいた。
「というわけで、お前さんは死んでしまった。本当に申し訳ない」
目の前で正座している老人が深々と頭を下げた。僕はその光景に付いて行けず、はあ、と気の抜けた返事をしてしまう。
ついさっきまで靴越しに感じていた濡れた土の不快さはどこにもなく、今の僕を受け止めているのは、ところどころ擦り切れた畳だった。
僕と老人の間には一人用の小さなちゃぶ台が置かれており、右手には古ぼけた茶箪笥が見える。他にもブラウン管テレビや黒電話が配置され、質素だが生活感の漂う空間だ。
一方で、老人の背後に広がるのは、果てのない雲海だった。傾き始めた太陽の光が雲を切り裂いて、息を呑むような絶景である。そして、この大パノラマも、一面が見渡せる開放的な家の作りがあってこそだ。360度、どこを向いても幻想的な空が広がっている。つまり、地表の遥か上空に位置するはずの四畳半の和室には、壁も屋根も付いていなかった。
「雷を落とす先に人がいるか確認を怠った。落雷で死ぬ人間もけっこういるが、今回のケースは予定外じゃった」
くたびれた老人は、あろうことか自らを神と名乗って、当然のように話を続けていた。加えて、その内容が僕を死に至らしめた過失についての謝罪なのだから、到底受け入れられるものではない。
しかし同時に、この異常な空間が僕の常識を否定していた。老人の言葉を戯言だと笑うことは、自分の頭がおかしくなったと認めることでもある。
「ここまで付いて来ているかな、ええと、もちづき……」
こんな場所ですら、僕の名前は憶えられないらしい。
「とうや。望月冬夜です」
「そうそう、望月冬夜君。君の処遇についてなんじゃが、聞いてもらえるかね」
「ええ、どうぞ」
茶番に付き合う覚悟を決めて、僕は答えた。逃げ場のない高所に置かれている以上、頼れるのはこの胡散臭い老人だけだった。
「君が死んだのはワシの落ち度じゃ。すぐにでも生き返らせたいのじゃが……」
「何か問題が?」
「君の元いた世界に生き返らせるわけにはいかんのじゃよ。すまんが、そういうルールでな。君には別の世界で蘇ってもらうことになる」
「……なるほど。分かりました」
ここまで聞いて、僕はようやく理解した。老人は謝るべき立場で、僕の要求を通せる相手だということに。
「貴方は僕から命を奪った代わりに、新たな命を与えてくれるんですね。それは素晴らしい。正しく平等な物々交換だ」
感動したというように手を叩く。急に饒舌になった僕に、老人が困惑の目を向けた。
「と、言いたいところですが。つい先程、僕の積み上げてきたものは全て失われました。実績、所持金、人間関係。半ばでしたが高校の卒業資格も」
未来のために溜め込んだ財産を思うと、演技抜きにくらくらした。
「それだけではなく、僕は雷に打たれたんですよ。視界が塗りつぶされ、手足の感覚を失った経験が、あなたにありますか。あれだけの恐怖と苦痛を与えられて、生まれ直してはい終わりじゃ、納得できませんね」
「……すまなかった」
老人がもう一度頭を下げる。事実確認は十分だろう。
「では、見合った利益を頂きたい。何をして貰えますか?」
「あ、ああ。もちろん、ワシに出来ることなら希望は叶えるぞ」
「例えば、蘇った先での巨万の富や比肩なき力でも?」
「そういったことなら大丈夫じゃ。何でも言ってみると良い」
難題のつもりだった例示を気安く返されて、僕は考え込んだ。
これは紛れもなく「
「ちなみに、僕が蘇る世界はどんなところですか」
「君が元いた世界と比べると、まだまだ発展途上の世界じゃな。ほれ、君の世界でいうところの中世時代、半分くらいはあれに近い。まあ、全部が全部あのレベルではないが」
これもお約束通りだった。自然と笑みが零れてしまう。日本ではこうした設定の物語が氾濫していたので、少し調べれば有利になるアイデアも見つけられるはずだ。
スマートフォンを取り出そうとポケットに手を入れて、そこで初めて、ズボンの軽さに気が付いた。体中を触って確かめたが、常に触れていた硬質な感触はどこにもない。僕は頭を捻って、最後に見た状況を思い出そうとした。
公園を通り抜けようとしたとき、僕はチャットの返信文を打ちかけていて、スマホが手元にあったことは確かだ。しかし直後には、木の下で突如として白い光に包まれ、全身の力が抜ける体験をしている。このときに持っていたスマホを落としてしまったのだろうか。
眩暈がした。決して戻れない場所に、スマートフォンを置いてきてしまった。
――貴方は依存症なのよ。
母さんの声が蘇る。
違う。僕は人より有効活用しているだけだ。
「スマホを返してくれ」
「スマホ?」
「早くしろ! あ、あれは僕のものだ。そもそも、お前のせいで失くしたんじゃないか」
久々に上げた大声のせいで指が震えた。そうでなくても、画面に触れていない指先は行き場を失っていた。
僕の剣幕に驚いたのか、老人は力なく口をもごもごと動かした。続いて妙な手の動きをしたかと思うと、いつの間にかその手には僕のスマホが握られていた。
「これじゃな?」
「……ええ、そうです」
どうにも納得できない気持ちで受け取って、電源ボタンを押し込んだ。十数秒待っても、真っ暗な画面には変化がない。壊れていた。冷静に考えれば、雷の直撃を受けてまともに動く方がおかしい。
それでも、慣れ親しんだ硬さに触れて、僕はいくらか冷静さを取り戻していた。受け取ったばかりのスマホを老人に差し出して、静かに宣言する。
「直してください。ついでに、向こう世界でもネットに接続できるようにしてもらいましょうか。それが僕の望みです」
他の願いなど、思い付きもしなかった。いつも僕に選択肢を提示してくれる端末に、光が灯らないので。
「まあ可能じゃが、向こうでは機能が制限されるぞ。それでもいいなら」
「具体的には?」
「君からの干渉は出来ん。通話やメール、サイトへの書き込み等じゃな」
「なるほど」
打ちかけたチャットの送信は果たせないようだが、元々スマホの用途は閲覧が主だ。特に支障はないように思えた。
「その条件で構いません」
「バッテリーは、君の魔力で充電できるようにしておこうかの」
「魔力、ですか」
「そう。向こうには魔法なんかもあるぞ」
話す片手間といった気軽さで老人が手を翳すと、ぼんやりとした光がスマートフォンを包み込んだ。威厳も威圧感もない老人だが、神を名乗るだけあって力は強大らしい。たった一振りで、精密機器の修理と仕様変更を終えてしまったのだから。
「さて、そろそろ蘇ってもらうとしようか」
老人が会話の流れを切った。僕としては話を引き伸ばして、出来る限り多くの情報を得たかったのだが、神にも事情があるのだろう。納得することにして、スマホの動作を確認しながら別れの挨拶を選んだ。
「次の世界では、雷に打たれないよう気を付けますよ」
その言葉は果たして直撃したのか。老人が苦々しく笑った光景を最後に、僕の意識は途切れた。