それは道と呼ぶのも憚られるような、建造物の隙間が連なっただけの空間だった。両脇の鋭い屋根が傾いだ陽の光を阻んで、足元の輪郭もはっきりとしない。空気さえも陰湿さを孕んでいて、好んで入り浸るのは虫か浮浪者かという具合だ。
そんな通りの突き当たりで、二つの勢力が対峙していた。二人組の男が、二人の少女を袋小路に追い詰める形で立ち塞がっている。
「約束が違うわ! 代金は金貨一枚だったはずよ」
窮地に立たされても、少女は怯むことなく主張を繰り返した。しかし、その勇ましい姿勢に身を竦ませたのは、彼女の背に隠れたもう一人の少女のみだった。
二人は示し合わせたように、揃って白いブラウスの上に黒の上着を羽織っていた。艶やかな銀髪とエメラルドの瞳、華奢な体つきまで共通している二人を遠目から区別するには、髪型に目を向ける必要がある。前に進み出ている少女が腰まで伸ばしているのに対して、後ろの少女は肩にかからない程度で切り揃え、紫色のヘアバンドを巻いていた。
年齢は中学生ぐらいだろうか。ともに顔立ちに幼さを残しており、それが男を増長させる要因になっていた。
「傷があるだろう。こうした目立つ損傷は、物の価値を落とすんだ」
片方の男が、出来の悪い生徒に教えるような口調で諭して、ガラス製の角を掲げた。僅かな光を反射して、青が煌めく。拡大率を上げると、根本の部分には確かに掻き傷が付いて見えた。
隣に立つ男が大柄で筋肉質であるのに比べて、角を持った男は中肉中背、どちらかと言えば線の細い部類だった。代わりに眼光は鋭く、威圧的な視線を少女たちに向けている。
「ほら、銀貨一枚。受け取っときな」
反論を無視して、銀貨がひとつ、足元に放り投げられた。交渉相手として明らかに軽んじられている事実に、髪の長い少女は音が立ちそうなほど激しく歯噛みした。視線は銀貨を追わずに、男を睨み付けたままで固定されている。
少女が足を一歩踏み出した。彼女は努力の結果、どうにか冷静さを保っているようだった。握りしめていた拳を開いて、細身の男に突き出す。重そうなガントレットが腕に装着されていたが、指の動きは自然だ。
「もういい。お金はいらない。水晶鹿の角を返してもらう」
「おっと、そうはいかねえ。もうこれはこっちのもんだ」
男が勝ち誇ったような声に、僕は思わず笑ってしまいそうになる。その通りなのだ。水晶鹿の角とやらは彼らの手にあり、交渉の体裁を保つための金は払い終え、既に所有権は移ったと言って良い。少女を嘲って優越感に浸る暇があれば、さっさと立ち去るべきだった。
僕は髪の長い少女の顔が引き攣るのを、死角からこっそりと出したスマホのレンズを通して見ていた。無関係な諍いほど、笑えるコンテンツはそう無い。
交渉は完全に決着して、路地裏には静寂が訪れていた。少女がガントレットを再び握り込む。一触即発の空気だ。
流石に、そろそろ少女たちを助けてやる頃合いだろうか、と思った。三度目の自問だった。
前に読んだWeb小説の主人公なら、逡巡することもなく、数行の描写で二人を助けていることだろう。それは、出鱈目な能力を授かったが故の選択だ。
では、僕の机に「スマホ太郎」と掘ったお調子者や、それを窘めながらも一緒に笑っていたクラスの人気者なら、どうするのか。やはり、すぐに姿を現して、少女たちの味方をしているように思えるのだ。彼らは一体、どんな能力を授かって産まれてきたのだろう。
異世界に転生して尚、僕に特別な能力はない。
スマホをポケットに入れて、静かに立ち上がる。僕はこの上なく慎重に、来た道を戻り始めた。
そもそも、取引場所に人気のない路地裏を選んだ上、金を受け取る前に商品を手渡してしまった少女の側にも落ち度がある。今回のことは良い薬になるはずだ。僕も、面白いものを見られたのだから収穫はあった。
――あいつは口だけだ、昔からな。
遠くに、中学が同じだった同級生の冷たい目が見えた気がした。高校に入ってから一度だけ、周囲から孤立する僕に心配の言葉をかけた男子生徒だ。あのとき「いざとなったら一人で戦える。今はその必要がないだけだ」と答えたのは本心だった。差し迫った状況で正しく判断できるのは、馴れ合うばかりの彼らではなく、常に自分で道を切り開いてきた僕の方だ。ここでも、衝動的に姿を現した彼らは、異世界の洗礼を受けて大怪我を負ったかもしれない。
カツン。
足元で立った音に、顔中の血の気が引いたのが分かった。見ると、蹴り飛ばされた白い石が転がっていた。恐る恐る振り返って、細身の男と目が合う。頭が真っ白になった。
動けない僕を差し置いて、状況は一変していた。こちらを覗き込んだ男の隙を見て、ショートカットの少女が水晶鹿の角を掠め取ったのだ。激昂した大柄な男の拳を、ロングヘアの少女のガントレットが庇う。素手を金属に打ち付けた痛みで怯んだ男は、続けて腹を殴打されると蹲った。
その様子を見ていた細身の男は、静かに腰から得物を抜き出した。三十センチほどの柄の先に、厚みのある刃が固定されている。キャンプの薪を割る場面で目にすることがある、軽量で取り回しの良い片手用の斧だ。
仄暗い空間の中で、鈍く光る刃だけが異質に見えた。少女の纏うガントレットとも違い、それは人を傷付ける為だけに存在していた。
ロングヘアの少女が、警戒しながら前に進み出る。男は少しの躊躇もなく、得物を振り上げた。
手斧はヘッドが重いので、コツを掴めばさほど力を入れなくても薪を叩き割ることができる。弾性と遠心力が、長い時間をかけて形成された幹の密度を切り裂くのだ。
必然、僕が想像したのは最悪の光景だった。
「待てっ」
口はひどく乾いていたが、辛うじて声が出た。効果はない。斧は既に動き出していた。
僕とは対照的に、少女は冷静だった。ガントレットを高く構えたまま、小さくステップする。振り下ろされた刃の側面を滑らせるように受けると、手首の返しで簡単に跳ね飛ばしてしまった。
少女は立て直す隙を与えずに鋭く踏み込み、顔面に一撃を放つ。ぐらついた男の腹を蹴って、呻いている大柄の男に覆いかぶさるように倒した。
同時に、カタンと小さな音がした。ショートカットの少女が、いつの間にか回収していた手斧を、放置していた銀貨の傍に置いている。
「リンゼ、何やってるの。行くよ」
「うん」
すぐには立ち上がれない様子の男二人には目もくれず、少女たちが歩き出す。ロングヘアの方が、思い出したように僕に笑いかけた。
「心配してくれてありがとう。そうだ、お礼させてよ」
強引な彼女に腕を引っ張られて、僕は暗い路地裏を抜けた。
これまで自宅と学校を行き来するだけの生活を送っていた僕は、一日に多くの体験をして疲弊していた。食欲も湧いてこない、と思っていたのだが、食事を前にすると別らしい。ゆで卵と野菜が挟まれただけの、何の変哲もないバケットが美味しくて仕方ない。考えてみれば、異世界に来て初めての食事だった。
「それにしても、さっきは助かったわ。冬夜がいなかったら、水晶鹿の角は取られていたでしょうね」
僕からテーブルを挟んだ正面でミートパイを切り分けながら、銀色の長い髪を持つ少女――エルゼ・シルエスカが口を開いた。路地裏で出会った二人のうち、腕にガントレットを装備していた方だ。
あれから、僕らは軽い自己紹介を済ませて、喫茶店「パレント」で食事を摂ることになった。元々、他人と同じテーブルを囲うのは好きではなかったが、奢って貰えるというなら話は別である。この世界の貨幣価値や食事のマナーを探る良い機会でもあった。
ちなみに喫茶店は、他国の出身で土地勘がないという二人に代わって、僕がスマホで調べた店だ。僕の他にユーザーがいない地図アプリには口コミも店内の写真もなかったが、候補とした提案したところ、中を覗いたエルゼが即決した。彼女の見立て通り、店内はお洒落で落ち着ける空間だった。
「僕は何もしなかっただろう。そもそも、あいつらは相手じゃなかったようだし」
「ううん。あのまま、逃げられていたら……私たちの負けだったから」
エルゼの隣で答えたショートカットが、リンゼ・シルエスカだ。彼女らは双子で、リンゼが妹だという。
二人が言いたいのは、反撃のきっかけを作ったのが僕だったということなのだろう。とは言え、覗き見をしただけで大袈裟に感謝されるのは、どうにも心地悪い。僕は、自分のことに話が及ばないよう気を付けながら、新しい話題を探した。
「ところで、取引相手の二人組とは前から付き合いがあったのか? 何と言うか、信頼できる感じじゃなかったけど」
「会ったのは今日が初めてよ。ちょっとしたツテから話が来たんだけど、やっぱり冒険者ギルドとか、仲介を通さないとダメね」
「私は、最初からそう言ってたのに……」
非難めいた妹の視線に、エルゼが力なく頷いた。
おそらく、エルゼは情報を与えられてからの決断が早い指揮官タイプなのだ。リンゼは決断に時間をかける分正確な答えが出せる参謀タイプだろう。どちらが良いという訳ではないが、このチームに問題があるとすれば、指揮官が上手く参謀の意見を拾えていないことにあるのかもしれなかった。
「この機会にギルドに登録しよっか、リンゼ」
「うん。その方が、良いと思う」
反省を活かしてか、エルゼが妹の確認を取る。双子はこれまでも意見を戦わせて、少しずつチームの問題を解決してきたのだろう。
「じゃあ、食べ終わったらギルドに行ってみましょう。冬夜、また案内お願いしていい?」
「私からも……お願い、します」
「まあいいけど。というか、リンゼさんも冒険者やるんだ」
冒険者というと異世界モノではお決まりの職業で、自由だが危険の多い探索・戦闘職、ということになっている。この世界にあるのが僕のイメージ通りのものかは分からないが、路地裏の一件でエルゼの後ろに隠れていて、非戦闘員という印象の強いリンゼに適性があるようには見えなかった。
「リンゼは、こう見えてもすごい魔法使いなのよ」
僕の疑問に、なぜか姉の方が胸を張った。
「いえ、その……。私は全然……」
妹の方は恐縮している。
「へえ、魔法か。ちょっと見てみたいな」
「場所さえあれば、良いんじゃない。ね、リンゼ」
「うん。でも……本当に大したものじゃ、ないけど」
話の合間に齧っていたバケットが綺麗に胃の中に収まって、手の寂しさを覚えた僕はスマホを取り出した。あれからずっと魔力のラインを繋いでいるので、充電マークは灯ったままだ。一応、これも魔法ということになるのだろうか。
一つ思い付いて、二人に「提案があるんだけど」と切り出した。
「ギルドだけじゃなくて他の場所も案内するから、代わりに魔法の基礎を教えてくれないか」
双子は鏡のように顔を見合わせた。