田畑を継げない農家の次男として、俺は地方から都会に出るしかなかった。遠くに来たとよくわかる。あの日の電車は集団就職で色んな人が見送りに来ていたがウチは兄貴だけしか居なかった。
父母に祖父母は農繁期で忙しく、近くも農家で忙しく、そんな中で来てくれたのは、一緒に暮らしていたのに仲良くなかった兄貴だけ。兄貴は口下手なのか。
「また、け。」
それだけだった。俺はなんて返したか覚えちゃいない。
上野で列車を降りて、与えられた仕事を働いて、働いて、働いて僅かばかりの金をもらい、日々を暮らしてもうすぐ20年以上は経つ。未だに俺は故郷に帰っていない。コーヒーより苦い記憶の故郷に俺は敬遠していた。
そんな中、新聞やテレビやラジオが一人のウマ娘を伝えている。笠松という田舎から中央にやってきたという異色のウマ娘をだ。
「どうせ夢は夢で終わるんだ。人の夢と書いて儚いと読むんだから。」
そんな俺の予想に反して異色のウマ娘オグリキャップは勝ち進む、ついつい休日にオグリキャップ自体を見に行った。オグリキャップは灰色の髪をしている。あまり、華やかさはない。しかし、目には闘志が見て取れる。まるであの上京したての俺のようだった。
自然と彼女のレースを追う様になっていた。シリウスシンボリを破って進んだ天皇賞とジャパンカップで一旦、沈んだが足を運んだ有マ記念でオグリキャップは見事に勝った。幻のダービーウマ娘として明日を進んでいる。
そして、オグリキャップブームが巻き起こる、そこら中でオグリぬいぐるみを持った女子高生や家族連れがいた。ニュースで見たゲームセンターのUFOキャッチャーの中はオグリキャップぬいぐるみで埋め尽くされている。同じ芦毛のタマモクロスもこの人気には敵わない。あのライバルとされていた筈なのにこれは託された夢なのではないだろうか?
やがて勝っていたオグリキャップも全盛期を過ぎたのかマイルチャンピオンシップと安田でレコードを出して浮上してからまた低迷、宝塚でまたも勝ちきれなく、天皇賞で下がり、ジャパンカップは二桁に落ちる。誰もが俺も勝てない。もう、オグリの時代は終わったと帰路につく。安田は蝋燭の最後の輝きだったのだろう。
この頃には少しはウマ娘を見ていたから、次の有マ記念はアイネスフウジンとダービーでいい勝負をしたライアンが来るだろうと予想した。それにもう夢は見れたのだから、もうオグリは休んでいいと思ったのもある。
やはり、田舎者は終わるのだ。壁にぶつかり、最後には終わる。それだけだ。だが、ここまで見たのだから、最後の姿も当然見るべきに違いはない。
今日は最後のオグリキャップのラストラン。最後になるのはわかっていたが、俺は勝つのが有力視されているメジロライアンに票を入れていた。オグリキャップは世代交代で終わるのだろう。武士の介錯だ。ヤエノムテキだっている。メジロアルダンもキョウエイだって‥‥一番人気は同じ芦毛のホワイトストーン、あのメジロマックイーンと共にタマモクロスとスダホークから始まった芦毛伝説を引き継ぐウマ娘。オグリキャップは彼女に夢を託すのか?だが、タマモクロスもホワイトストーンもオグリキャップのような地方からやってきてはいない。俺の胸が子供のときにプールで首元まで沈んだような感覚になる。水圧に近い圧力が胸に掛かっている。それが心地が良い。
周りを見るとオグリの最後として家族連れが多い。特にオグリを見るのにか女性も多い。だが、オグリの中心のファン層は俺みたいな田舎から出てきたおっさんや若者、売れない歌手、上野駅や高尾駅から東京に着いたような人々だ。もちろん、夜行バスで揺られて東京に夢を見て来たものも沢山いる。都会に出てくる夢はオグリが一番叶えてる。お笑い芸人や他の芸能人もやはり、オグリには言及している。彼らの多くはやはり、田舎を出てきたから、オグリを見ると俺と同じように国を思い出すのだろう。俺もオグリを見るとあの上野駅を思い出す。雪国からそうじゃない土地に変わっていく、あの感覚。列車内は誰も無口になり、窓を眺めていた。空の色も変わっていった気がした。
運良くこうして入れたが、開始前から入っていなければ今頃、外の人らのようにラジオを各所に置きながら、オグリがいるすぐ近くでラストランを聞いていたに違いない。さっき隣に座った人から聞いたのは「朝のラッシュより電車が酷かった。駅がパンクしていたよ。流石はオグリ大明神だな。」という言葉だ。
「君は‥‥君の名は、あの、笠松の‥‥地方の‥‥皆が見ていた。いや、皆が見ているオグリキャップだろ!君はオグリキャップなんだろ!オグリキャップなんだ!」
ライアンに入れてしまったが、あのオグリキャップが目の前で沈みそうになるのを見て立ち上がってしまった。
「オグリ!オグリ!オグリ!」
ただそう言った。周りもそう言っている。どういう感情だったかはわからない。俺はライアンに票を入れたから、ライアンを応援するべきなのは分かっている。だが、怪物なんだ。
俺はやはり、オグリキャップしかないんだ。落ち目でも、他のウマ娘に票を入れようが関係ない。オグリキャップはオグリキャップなんだ。名門メジロだろうが新たな一門のエイシンだろうがなんだろうが関係ない。オグリはオグリなんだ。やっぱり、俺は‥‥都会に出てきてオグリも、俺みたいに夢を破れて若いホワイトストーンやライアンにバトンを渡して諦めると思っていた。俺がそうしたようにしかし、またオグリキャップは走ってる、ターフを芝を灰色の髪を靡かせている。灰被りの君は当にシンデレラだ。ガラスの靴なんか必要ないのだろう。
『さあ、ここから、澄み切った師走の空を切り裂いて、最後の、最後の力比べが始まります!』
最後のコーナーから外から亡霊のようにヌーっとオグリが浮上する。アルダンとオグリが競い合う、夢は夢のままで終わらない伝説は伝説としても終わらない。直線に入るとオグリが伸びてくる。灰色が芝を染める。アルダンを抜いて‥‥それでこそオグリキャップだ!「「「「オグリキャップ!」」」」コールがターフを揺らす、揺れる中山オグリキャップが震源地、声と熱で圧倒的に揺れる。
「オグリ!オグリ!オグリ!」
引き続き声は続く、もっともっとだ。オグリキャップ、君がくれたものはこんなものじゃないだろ?皆が君に貰ったものを返そうとしているんだ。揺れているあの最初に勝ったオグリキャップの面影が重なる。
外からも声が聞こえる。ウマ娘を見る前によく行っていた野球に似ている。スタジアムとマウンドが応援で揺れるのだ。ダービーを逃げ切ったアイネスフウジンのアレは終わったあとに起きたもの、だが、いま起きているオグリキャップコールは走ってる最中に起きたものだ。いや、最初から気付いていた。もう、ゲートからオグリコールは始まっていた。その前からも。
他のウマ娘が緊張していたのもこの異様なコールがあったからだろう。それはまた熱狂をもたらし、中山に狂気と熱をもたらしている。12月なのに叫ぶ人間が出した熱で湯気が見える。そして、頭が酸欠なのかくらくらするでも叫ばずにはいられない。冬の空が夏のように変わっていく。
『ライアンもやってきた。オグリキャップ先頭!オグリ、オグリ、オグリ。』『ライアン!ライアン!ライアン!ライアン!』実況がやっと耳に入ってきた。実況席からライアン、ライアンという声が飛ぶがそんなものは中山には殆どない。隣や前も別のウマ娘に票を入れたはずなのに今ではオグリキャップと言っている!俺だって「オグリキャップ!」と叫んでいる。オグリキャップなんだよ、今はオグリキャップなんだ!それ以外に何がある。中山を揺らしてオグリキャップの声が震源地でオグリキャップに乗せた夢を見るのは、他のウマ娘に夢を乗せた人々だ。会場がオグリキャップ一色だ。強いか弱いかじゃない、オグリキャップなんだよ。それ以上に何が必要あるのか!何もない!オグリキャップだけだ!オグリキャップ以外にこの中山を動かすものはいない!地を動かし、空を揺らし、人の心を揺さぶるそれ以上のものはない!
『ライアン!ライアン!ライアン!ライアン!』『しかし、オグリ先頭!そして、ライアンがやってきた!しかし、オグリ来た!オグリ先頭!オグリ一着!オグリ一着!!オグリ一着!』
最高潮にオグリキャップコールが木霊する。割れんばかりの大歓声。歓声が届くのかは知らないが物資で満たされたバブルの世に、精神の貧しさを埋めるものをオグリキャップはくれたのだ。この国が欲しかった精神の充足をくれたのはオグリキャップなんだ。田舎から出てきた人々がただ粘土のように、土塊のように、人形のように働いていたところにオグリキャップは精神の風を吹かせて、人間にしてくれたんだ。だから、皆がオグリキャップを思い出したときに叫ぶしかない、あの名前を。
そうだこれが、オグリキャップだった。オグリキャップなのだ。勝っても負けてもオグリキャップはオグリキャップだ。
そんな簡単なことを忘れていた。俺だって、夢破れようが都会で擦り切れようが、このまま終わったとしても俺は俺なんだ。田舎者だとしても、何もできない何も成し遂げないとしても俺は俺だ。それを教えてくれているんだ。だから、こそ叫ぶ。
オグリキャップ震源地の中山の揺れがライアンやアルダン、ヤエノムテキ、ホワイトストーンなどを抑えたとするならばこれは伝説じゃない神話だ。中山で神を見た。神はいた、奇跡はあった。この瞬間に中山で俺は見たんだ。俺は泣いていた。多くのファンも泣いている。これは自分が好きなウマ娘が負けたからとか自分が好きなオグリキャップが勝ったからではない。地方が中央を、田舎者が名門を田舎者が都会を、都会の壁や年齢の壁を彼女が破ったからだ。オグリキャップがやったんだ。挫折した人々や夢を夢のまま終わらせた人々にオグリキャップは見せたんだ。
周りもオグリキャップに合わせて左手を自然に掲げる人だらけだ。『オグリキャップ!右手を上げたオグリキャップ、見事に引退の花道を飾りましたオグリキャップ、スーパーウマ娘です。オグリキャップです!』
空を仰ぐ、これ以上、涙がこぼれないようにオグリキャップが見えているかは分からないが引退する彼女に涙を見せないように、最後のレースは笑いで見送りたい。涙は天皇賞とジャパンカップで見せたのだから。
オグリキャップコールが鳴り止まない。晴れた空に、青天の霹靂、万雷がオグリキャップと鳴り止まぬ、有マから始まったオグリキャップのG1旅行は最終的な到着地点はやはり有マで終わるのだ。有マがこのまま、いろんなドラマを作ろうともここまでのドラマはないだろう。思えば天皇賞とジャパンカップは元々そんなに得意じゃなかったものな。得意じゃなかったが、それでもお前は走り抜いた大したウマ娘なんだ。それに比べて俺はなんだ?オグリと違って諦めてしまった。不覚でしかない。この奇跡はアイネスフウジンやメジロマックイーンが居ても起きただろう。全てはオグリが諦めなかったから起きた夢なんだ。
じゃあ、俺も諦めないように今を歩こう。
俺は最後に全てのオグリキャップの引退式に出てから、あの数十年帰っていなかった田舎の国に向かうことにした。
上野駅から出る夜行列車の窓から空が変わっていく。トンネルを抜けると雪国が広がっていた。
「あの木は‥‥。」
木にかかった雪が枝の色と混ざり、灰色に見えた。それを見たときについ呟いてしまった。
「まだ、俺に勇気をくれるのか。オグリキャップ‥‥。」
窓の外に苦い思い出とオグリキャップのあの姿を俺はただ見ていた。。オグリキャップのような勝つ馬は出ないかもしれない。
しかし、思うのだ。夢を持ち続ければやがてオグリキャップのように勝つ馬が沢山出るはずと。それは衝撃をもたらすのかもしれない。だから、その時までいや、その時もオグリキャップの思い出と共に見ようと思う。彼女は俺を知らないだろうが俺は彼女を知っている。ただそれが正しいあり方なのだ。
景色が朝の光で金細工の様に見えてまるで伝え聞く、オペラの一節のようだなと素晴らしい景色はゴッホのようだなと胸に抱き、列車は夢の旅路に進んでいく。夢の果てには何があるのか誰も知らない。
季節ももうすぐ変わる。オグリキャップの灰色の雪の空のような季節から、サクラ前線もやがて到来するだろう。
春が近づいてるのを感じた。
あったかもしれない話