愛莉にしては珍しく直球で来なかった、喫茶店での件から3日後。
それまでの間音沙汰はなく、私の日常も特に揺れ動くことはなかった。
最近変わったことと言えば、弟とすれ違うたびに疲れ切ったような顔で歩いているのをよく見るくらいか。
「結局、愛莉は何を言おうとしていたのやら...愛莉がそこまで迷うことなんて、もしかしたら『あなたの人生をちょうだい』なんて言われる...なんて、そんなことないか」
〈♪〉
「あなたの数年を私にちょうだい」
「....」
似たようなことを言われてしまった。
妄想を打ち消してシャーペンを持ち直したすぐあと。私のスマホに再び愛莉から連絡が入った。
内容はこの間とほぼ同じで、場所も同じ喫茶店。
時間がそれなりに遅い時間だったからなのか、店内は落ち着いた雰囲気で私好みだった。
というか、この時間帯までやっている喫茶店の方が珍しいか。
店内に入って愛莉と一緒にコーヒーを頼んだ後、開口一番に愛莉からそう告げられて今に至る。
「...ちょうだいって、この前言ってたやつ?」
「あ、ごめんなさい。順番おかしかったわよね」
順番がどうとか、そういう話じゃない気がするが...もしかしたら納得できる話があるのかもしれない。
正直、愛莉に私の数年を渡すことに抵抗はないけれど。
愛莉は1つ咳ばらいをして、顔の前で手を組んだ。
眼鏡をかけていたら、反射で目が見えないシーン、と言えばわかりやすいかもしれない。
「ねえ絵名、一緒に青春を思いっきりエンジョイしない?」
「...は?」
猶更意味が分からなくなった。
「実は、バンドをしないか、って持ちかけられているのよね」
バンド。
まさか愛莉の口からその単語が出るとは予想もしていなかった。
愛莉は元アイドルで、今でもアイドルをしたいという話は前に聞いたことがあったのだが、それがどうして青春を思いっきりエンジョイするから、バンドになるのだろう。
そして、なぜ私を誘おうと思うのだろう。
私が眉をひそめて考えているのを見て、愛莉は笑みを漏らした。
「まぁ、いきなり言われても困るわよね。...私がやりたいことが出来なくて事務所を抜けたって話はしたと思うんだけど、まさにそのあとだったのよ。後輩たちの眩しさに惹かれたのは。
その2人が楽しそうに演奏するのを見かけて、もっと近くで見ていたいと思って。一声かけずに見ていた私の手を取って、輪に混ぜてくれて。楽しくて」
そう語る愛莉の顔は、その場を見ていない私にもわかるほど『楽しかった』という顔をしていた。
アイドルの代わり、と言うわけではないけれど、愛莉の気を紛らわせるものが見つかったのだと私は理解した。
「その楽しさを、あなたと共感したかったの。私から一方的に話すだけじゃなくて、一緒に」
「その、愛莉に誘ってもらえるのは嬉しいけど、私楽器なんてやったことないし」
「安心して、私もだから」
それなら、『私経験者だから』で安心させてほしかったのだけど。
...さて、どうしようか。
先程も考えた通り、愛莉に誘われてバンドを始めるのは問題ない。ただ金銭的な問題はどうしても起きるだろうし、そもそも私は夜間定時制で通学している身だ。
リズムもどうしても他の人とずれるだろうし、その点で確実に迷惑をかけるだろう。
なんて。
ここまでそれらしいことを考えていたけど、その実、私の中では答えは決まっているようなものだ。
愛莉の顔を見ればわかる。真剣に悩んでくれたのだろう。決して何も考えずに突っ走る性格でないことは、私が知っている。
「...うん、わかった。やるよ、愛莉とバンド」
「本当!? よかった...」
眉根を下げて心底安心したような表情を見せる愛莉を見て、つい苦笑してしまう。
そこまで緊張することだっただろうか。
...いや、逆の立場になったら、私もひどく緊張するかも知れない。そもそも他人の人生を左右するようなものを誘えるだろうか。
「私以外のメンバーは2人で、合計4人での活動になるわね。その2人とも後輩なんだけど」
「さっき言ってた、眩しい後輩ってやつね」
「...事実だけど、なんか恥ずかしくなってくるわね。んんっ、顔合わせは次の休みでいい?」
「うん、その日は何も用事ないし、大丈夫」
「よかった。時間は...昼過ぎにしましょうか。お昼は済ませてからで」
そうして指定された場所は、宮益坂女子学園の中の一室。正直部外者の私が入ってもいい場所なのか首を傾げたけれど、愛莉が言うのだから大丈夫か。
それからは雑談話をして解散。
緊張から解放されたからなのか、愛莉の口は良く回っていた。私も愛莉の話を聞くのは好きだから、ラッキーと言った感じか。
まだ太陽が完全に沈み切っていない時間帯に帰宅して、これからの事を考える。
どの楽器を担当するのかまだわからないけど、恐らく明日の顔合わせで決めるのだろう。
愛莉の眩しい後輩2人は、既に経験者だろうから、素人の私と愛莉で分担か。
荷物を部屋に置いて、リビングで喉を潤そうと冷蔵庫を開けていると、たまたま父親がリビングにいた。
東雲慎英。テレビでも取り上げられたことがあり、その道の人間であれば、国内ならまず知らない人間はいないだろうと言われるほどの人間だ。
かつて私が画家を目指し始めた時に、『画家になれるほどの才能が無い』と直接言われたときは...まぁ、馬鹿にしやがってと反発したものだが。
そういえば、私が絵を描かなくなったことを、この男は知っているのだろうか。
「...ねぇ」
「なんだ」
「私が絵を描かなくなったこと、知ってるの?」
「...道具のゴミが出なくなったと聞いた」
聞いた、か。
いや、もうどうでもいいか。どうせ私が画家になることを拒んだのも、何かしら自身のことで理由があったのだろう。
目下の問題が解決した今、私が何しても興味はなさそうだ。
「私、バンドすることにしたから」
それだけ告げて、私はコップを片手に部屋に戻った。
帰り際に見えた、珍しく驚いた顔を見れたのは、少しスカッとした。
〈♪〉
土曜日。顔合わせのために愛莉から指定された場所に向かっている最中で、見知った背中を見かけた。
「...彰人、なんかすごい疲れてる?」
遠目に見えた弟、彰人の背中はひどく疲れたような印象を与えるものだった。
まだ若干時間には余裕がある。彰人に声をかけようか、と足をそちらに向けた瞬間、彰人の横に立った男がいた。
横顔しか見えないが、優しそうな青年だ。
「...私の出る幕じゃない、か」
もし家でもあんな感じだったら、声をかけてやる程度でいいだろう。
いくら姉弟と言っても、そこまで干渉するほどのものじゃない。ましてや、隣を歩く友がいれば。
しばらく彰人たち2人の背中を見つめた後、元の方向へと足を向け直す。
よくよく考えてみれば、マイナスな方向な疲れじゃないかもしれない。隣の青年は笑顔だったし。
気を取り直して集合場所に向かおう、としたところで、私のお腹が空腹を訴える音を鳴らした。
「う...そういえばまだ何も食べてなかったんだった」
愛莉には昼を済ませてから、と言われていたのに、そのことを忘れていた。ご飯を食べる事を1年間疎かにして、気が向いたら食べると言う生活をしていた弊害がここに出てきている。
たまたま近くにあった青色のコンビニに入って、歩きながらでも食べられるおにぎりを2つとお茶を購入。
食べなかったからなのか、胃も小さくなっている気がする。健康的に考えると良くないだろうけど、食費が浮くな、なんて考えるのは良くないんだろう。
手早く食事を済ませて見かけたゴミ箱に入れておく。
しばらく歩いていると、ようやく宮益坂女子学園の校門が見えてきた。
校門前に愛莉が立っているのを見て、もう少し早く来たら良かったかと罪悪感が湧いてくる。
「あ、来たわね」
「待たせちゃった?」
「いいえ、そろそろ来る頃かと思って今来たところなの。ナイスタイミングね」
行きましょうか、と背中を向けて校内に歩き出した愛莉を追って、私も校門を通る。
今思えば、高校生になってから他校に入ったのは初めてかも知れない。
中学の時は入りたい学校の見学に行ったけれど、高校ではそもそも他校の知り合いも増えなかった。
「そういえば、絵名は友達出来た?」
「...まぁ、そこそこね。似たような趣味の人もいたし」
「...それならよかった」
顔だけ振り返った愛莉にそう返して、愛莉は再び前を向いた。
この嘘も、きっとばれているのだろう。
そもそも私に趣味と言えるものもないっていうのも、愛莉は知ってるし。
そのことを理解していて追及して来ないのは、愛莉の優しさだと思う。
そこからしばらく、私たちの間に会話は無くなる。
私からしてみれば、愛莉との間に会話がなくなった程度で気まずくなることはなく、普段の愛莉なら同じだと思うのだが、今日の愛莉は違ったようでそういえば、と口を開いた。
「後輩2人の担当楽器を伝えてなかったわね。ギターとキーボードだから、私たちでベースとドラムを分けることになるわ」
「ん...まぁ、私たちは初心者どころか、楽器を持ったこともないもんね。...もしかして愛莉はあるの?」
「昔バラエティで触らせてもらったことはあるけれど、実際に自分で弾いたことはないわ。...ちなみに、絵名は今聞いた2択で、どっちがいいとかあるの?」
ベースとドラム。
楽器を触ったことすらない人間に、どっちがいい、なんて聞かれててもどっちもわからない、と答えるしかない。
遠回しにそのことを伝えると、愛莉も同じことを考えていたようで苦笑いしていた。
「まぁ、未経験者だから思い浮かばないわよね。もし絵名の希望があれば私が選ぶ必要もない、なんて楽観的なことを考えたけど...まぁ、一緒に考えましょ...っと、ついたわね」
お互い苦笑いをしている中で、愛莉がある教室の扉の前で足を止めた。
『多目的教室』。いかに多目的と言えど、他校の生徒を混ぜてバンドの話をする場所に使ってもいいのだろうか。
...あまり深くは考えない方がいいかもしれない。
この扉の先に、これからバンド仲間としてやっていくことになる後輩2人がいるのだ。情けない姿は見せられない。
先輩2人が揃って楽器未経験者、という時点で既に情けなくはあるけれど。
「お待たせ、最後の1人を連れてきたわよ」
そう言いながら、愛莉は扉を開けた。