初心者におすすめ、というスティックを購入した。
顔合わせが終了して、チャットアプリのグループを作成して取り合えず今日は解散。そのまま帰り道で買った。
値段は数千円。思ったよりも安い、と思ったのだが、界隈的にはこれが安いのか高いのかわからない。
それと一緒に、メトロノームも購入。
スマホのアプリで代替えしてもよかったかもしれないが、みんなで練習するときに必要になるかもしれない、と考えると、実物の方がと考えた。
音だけでなく目に見えてリズムがわかるかもしれない。
ついでに、教本も購入。
全部で6000円と少しの出費。
まぁ、ギターやベースを始めるとなると、本体を買うだけで数万もするようなことを考えると安い方だろう。
ドラム本体は宮益坂女子学園側のものを借りてもいいのだし。
「ただいま」
自宅のドアを開けて靴を脱いで、家の中に誰もいないことを確認する。
今日は全員用事があるのだろうか。
手洗いとうがいを済ませてそのまま自室に直行。
着ている服はそのままに教本のパッケージをはがして、読み進めていく。
「練習パッドっていうのがあるのね...あの店には置いてなかったような。...見逃したのかも。今度店員に聞いてみようかな」
机の上に置くタイプもあれば、スタンドが付いているタイプもあるようだ。
持ち運びを考えるとスタンドが無い方がいいかもしれないが、自室以外での練習場所となるとドラムがある場所しかないので、スタンドは無くてもあってもどちらでもいいかもしれない。
「げ、そんなにするの...?」
教本には親切に値段も書かれていたが、今日購入したものがそのままワンセット買えてしまうほどの金額だった。
それなら、使わなくなった教科書を置いて叩くので代用できないだろうか。
「えー...初心者はまず、スティックの握り方と振り方を練習する...」
毎日の積み重ねがか、将来を作る。
多少めんどくさくても根気よく頑張るとしよう。
〈♪〉
ドラムはベースと一緒に、リズム隊と表現されることが多い。
その中でどういう技術が使われている、というのはまだ理解はできないけれど、その一文は理解できる気がする。
私と愛莉が担当する楽器が、私たちのバンドのリズムを握っている。
基本となる楽曲速度を担いながら、その中でアレンジを加えたり...はまだできないけれど、初心者であることを言い訳にしたくない。
一歌ちゃんと咲希ちゃんも、それぞれ役割がある。
特に、音楽初心者からすると『キーボード?』と思ったものだが、そこを意識してみると、意外と色んな曲でキーボードが使われているようだ。
キーボードは唯一、色々な音が出せるパートでもある。
一歌ちゃんに関しては、私たちの中で一番技術を求められるのではないだろうか。
ボーカルもギターも兼任するのだし。
「私は私のことを考えないと...」
一歌ちゃんと咲希ちゃんは経験者。愛莉も楽器自体は初心者と言えども、芸能界にいた以上音楽というものに触れる機会はあっただろう。
つまり、このメンバーの中で本当の1からなのは、私だけ。
愛莉からの誘われ方的には、4人でプロを目指そう、と言う感じではなかったにしろ、不甲斐ない結果は見せられない。
「まずは...スティックの振り方をマスターしなきゃ」
使わなくなった教科書にタオルを巻いて、メトロノームを用意する。
まずは、このメトロノームの発するリズムと変わらないタイミングで叩くことを目標としよう。
それぞれの速度で叩くのは3分間。
BPMは60から、5ずつ刻んで最終的に100まで上げていく。
これが思ったよりも難しい。
「....っ」
ただ音の鳴るタイミングで叩くだけ、と思うかもしれないが、意外にも集中力を必要とするトレーニングだ。
それに、今まで筆やパレットを持っていたとはいえ、筋肉が足りない。
BPM100まで行ったところで、既に二の腕がプルプルと震えていた。
私の姿勢、所謂体幹も悪かった。ドラムの技術の上昇も必要不可欠だが、私自身のドラムを叩くための体作りも、必要だ。
「...考えたら、ここに足も入ってくるのよね...」
色々と、必要だ。
〈♪〉
夜間に通いながら、考えることはドラムのことばかり。
演奏する楽曲は『アスノヨゾラ哨戒班』。気分次第です僕は、なんて、まるで今の私を表すかのような歌詞から始まる曲だ。
実際、今の私は明確な意思を持ってバンドを組んでいるわけじゃないし。
『絵名先輩、こちらをどうぞ』と、一歌ちゃんに渡された楽譜とにらめっこしながら、家で想像しながら叩き、宮益坂女子学園で実際にドラムを叩く毎日を過ごして、2週間がたった。。
『アスノヨゾラ哨戒班』だけに絞って聴けば、おおよそ曲と言えるほどにはなってきた。
最初は『どちたちどちたち』をゆっくりやるのに一苦労だったことを考えると、多大な進歩じゃないだろうか。
今日も今日とて、ドラムを実際に叩いて技術を高めていこう、と椅子に座ると、咲希ちゃんがキーボードの前で立って唸っていた。
「..どうしたの?」
「絵名先輩。私、そろそろ限界がきそうです」
「げ、限界?」
気になって尋ねてみると、思わぬ返答が。
何の限界なんだろうか。2週間一緒に練習してきた私だけど、咲希ちゃんが何の限界を迎えようとしているのか皆目見当もつかない。
幼馴染だという一歌ちゃんならわかるかと思ってそちらの方を向くと、愛莉と指のトレーニングをしていた。
机の上に指を突き立てるように置いて、1つの指だけを上下に運動させるトレーニング。
前に試しにと、一緒にやったことがあるが、短時間で意外と疲れる。
今の私のトレーニングは、両腕を前に突き出して...って、そうじゃない。
わなわなと震えだした咲希ちゃんをどうにか出来そうなのは一歌ちゃんだけだが、その肝心の一歌ちゃんは愛莉とのトレーニング談義に夢中だ。
「ちなみになんだけど、何が限界を迎えそうなのか聞いてもいい?」
「絵名先輩、私、そろそろみんなで演奏したいです!」
咲希ちゃんのその叫びに、愛莉と一歌ちゃんもなんだなんだと、こちらに寄って来た。
「どうしたのよ2人とも」
「咲希ちゃんがみんなで演奏したいんだって。...私はまぁ、人に見せられるものじゃないけど、合わせるくらいならなんとかいけるけど」
愛莉にそう問いかけられて、ひとまず自分の状態を伝える。
やるならできるだけいい状態でやりたい、という気持ちもあるが、私たちが何のために練習しているのかを考えると、いつまでも合わせないのは良くないかもしれない。
誰かに見せるために演奏しているわけでもない私たちなのだから、猶更。
「...そうね、私も簡単な方でいいなら通しで演奏できるようにはなってきたし、一度合わせるのもありかもしれないわね」
それじゃ準備しましょ、と自分のベースを取りに行った愛莉の背中を見送って、咲希ちゃんと一歌ちゃんの方に視線をずらす。
咲希ちゃんはみんなで演奏できて嬉しそうで、一歌ちゃんも、嬉しそうな咲希ちゃんを見て嬉しそうだ。
まぁ、仮に演奏自体上手にいかなかったとしても、身内のバンドなのだ。これもまた思い出、で済ませるだろう。
「それじゃあ、一歌ちゃんの歌いだしに合わせる感じでいいの?」
「ええ、それでいきましょう」
それぞれが準備を終えた段階で、愛莉とそう話す。
私たちが一歌ちゃんに渡された楽譜では、一歌ちゃんの歌いだしとギターソロで始まり、『叶えたい未来もなくて』から一緒に演奏しだすものだった。
「なんだかドキドキする...」
「いっちゃん! がんばろう!」
後輩2人を横目に見ながら、棚に立てかける形でスマホを置く。
既に録画は初めてある。カメラの性能が外カメラの方が良い、というのもあるが、内カメラで撮影すると、撮影しているのがばれる。変に気負いはさせたくない。
「...私はカメラに慣れてるからまだ平気だけど...大丈夫なの?」
「まぁ、私はホームビデオのつもりで撮るから...そのうち笑い話になるでしょ」
緊張してるかどうかで言えば、めちゃくちゃに緊張している。
誰かと合わせるのなんて初めてだし、緊張しないわけがない。
それでも合わせる時は無情にもやってきて、一歌ちゃんが気合を入れ直すように「よし」と呟いた。
「じゃあ、行きます」
「よし来た!」
「ええ、練習の成果を見せる時が来たわね!」
言い出しっぺの咲希ちゃんはそうだが、一歌ちゃんも愛莉も、それに感化されるようにやる気に満ちている。
対して私はどうだろうか。
うん、まぁ。わかっていたことだけれど。
今日に至るまで、私の全ては受動で構成されている。
いつかこの受動的な気持ちが、能動的なものに変わる時がくるのだろうか。
「スゥ、ハァ...ッ『気分次第です僕は 敵を選んで戦う少年』」
そうだといいな、と思う。
いつか能動的にみんなとバンドをして、初めての演奏を思い出す日が来ると信じて、私はスティックを振り下ろした。
栄養失調でダウンしてました。
奏がカップ麺ばかりでも倒れないのは偏に穂波ママのおかげということですね。
プーン。