【完結】サクラチルミライコイガサネ   作:食卓塩少佐

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桜襲未視聴の方は、先に原作を絶対に聞いてください。
DLサイトで配信してます、買って聞いてください。



❶ECHO

 枯園(かれぞの)(たまき)は太宰治の「人間失格」を中学生の頃に読んだ時、なんて特別な物をこの歳にして読んだのだと密かに感動し、そして特別感を抱いた。

 

 退廃的でありながら生を模索し、孤独を求めながらも人恋しく、不埒と耽美が同居する世界観に、思春期の男子は大いに夢中となった。

 太宰が書いた他の作品も読み漁った。

 太宰の作品を読み終えたら、次に太宰と交友のあった作家の作品を読んで、作風の違いや当時と現代の価値観に対する相違点や共通点などを勝手に発見したりした。

 

 その過程で新たな見聞や教養、違う学校に通う読書仲間を得た環は、いつしか自分の様な学生なんて世の中にそうそう居ないだろうと、無根拠な自負心すら芽生えていた。

 

 しかし中学を卒業し、高校生になる頃には、同じ様な経験をした男子学生は幾らでも居るのだと知り、何なら自分はネットスラングで揶揄されてしまう様な“よくいる恥ずかしいヤツ”の部類なのだと理解してしまった。

 

 それからはバッタリ、環の人生から本を読む習慣は消える。

 何度も通った図書館に足が向く事も消え、読書仲間との交流も無くなった。

 

 極端な変化だが、仕方ない。

 環は別に、本を読む事、文学作品を楽しむ事が好きだったのではない。

 読書を通して、特別な存在に近づきたかっただけだった。

 娯楽が飽和した現代において、比較的マイノリティになりつつあるコンテンツに触れる事で、他人から見て一目置かれる人に見られたい。

 そんな、浅ましい考えから行動していただけだったのだ。

 

 そして、一度自覚してしまったら最後、猛烈な居た堪れなさが環を襲う。

 結果的に本を読む行為それ自体に忌避感を覚える様になり、部屋の本棚にあった文学作品を全て家の物置部屋に押し込め、無かったことにした。

 

 家に基本家族が居ない環境であり、読書を主に放課後や自宅、図書館でしか行ってなかったので、側から見て奇行に映る行為を晒してなかったのだけが、唯一の救いだったろう。

 しかしある意味では、この猛烈な羞恥心も、思春期のうちにしか許されない経験であり、成長の一つと呼べる。

 

 特別な部類に属したい。

 他人から見て非日常な日々こそが自分にとっての日常であって欲しい。

 

 多くの人の心に自然と、この種の願望は内在している。

 願う事自体は何ら罪では無く、目指す行為も程度によるが基本は微笑ましいものに過ぎない。

 

 大体の人が、小学生、中学生、高校生と成長するに連れて、やりたい事・やらなきゃ行けない事で現実が埋まっていき、また同時に自分が日本中の至る所に居る、ごく普通の人間だと理解するのに合わせて、次第に願わなくなっていく。

 そんな程度の願望。

 

 中にはそれを分かった上でも尚、“自分は特別な存在に成るんだ”と信じ続けた人間なら、願った通りの道を歩めたかもしれないが、そんな人間は文字通り一握り。

 

 もしくは、フィクションの様な世界を求めずに、自分の周りにある“自分だけの特別”に気付けたら、解決する話かもしれない。

 

 大衆の一部である事を、妥協して受け入れるか。

 挫折や失敗の可能性を承知で、特別な存在を目指すか。

 大勢にとっての特別では無く、唯一無二の自分を見出すか。

 

 誰が正しいかなんて、人それぞれとしか言いようが無いけども。

 少なくとも、枯園環という人間の場合に限っては、3つ目の道を辿るべきだった。

 何故なら、間違いなく、大半の同級生男子にとって環は最初から、特別な立場に居る存在だったのだから。

 


 

 多くの客で賑わっているファーストフード店。

 その一画、4人用の席をしっかり埋めて各々ハンバーガーやポテトなどを口に運ぶ、男子高校生のグループがいた。

 

「んで? 涼多(りょうた)、一世一代の賭けに出た結果はどうだったんだよ」

 

 そのうちの1人である環が、向かいの席に座る友人の沓掛(くつかけ)涼多に問いかける。

 ポテトを右手の人差し指と親指で摘んで小さく揺らし、口元は端っこがイヤらしく吊り上がっており、揶揄いつつ聞いてるのが簡単に見て取れた。

 

 反対に、環に問いかけられた沓掛の顔は、あらゆる感情が削ぎ落とされた様な無表情。

 その顔色に違わない、底冷えする様な声色で、淡々と返した。

 

「振られました」

「──あははははっ! やっぱりだ!」

 

 期待通りの答えが返ってきたことに、環は口元を隠しながら笑う。

 

「枯園……、もうちょっと配慮してやれよ」

「そーそー。気持ちは……気持ちは、分かるけどっ!」

 

 眉を顰めて環を諌めるのは、沓掛の隣に座る踏鞴庭(たたらば)琢磨(たくま)だ。

 剣道部に所属しており、県大会に出場する程の実力を持っている彼は、トレードマークの坊主頭をテラテラと輝かせている。

 

 同様に諌めつつも、つい笑いを堪えられずにいたのは環の隣に座る喜屋武(きゃん)秋人(しゅうと)

 踏鞴庭とは対照的に、女性の様な濡羽色の長髪を後ろに結いている。

 

 4人は小学生の頃から付き合いのある4人組で、喜屋武だけは違う学校に通っている。

 

「でもよタタラ、コイツ昨日までンナに鼻息巻いて“俺がこの中で最初に童貞を捨てるんだ、悪いなお前ら”なんて言っときながらこのザマだぜ? 笑うなって方が……無理あるだろって……!!!」

「いやそうだとしたって、一応は振られて傷心の相手に遠慮なさ過ぎだという話であってだな」

「良いんだ踏鞴庭、コイツの言う通りだ……」

 

 盛大に煽り散らかす環をノーガードで受け入れる沓掛。

 踏鞴庭がどうしたものかと困っていると、喜屋武は右手を小さく上げて尋ねた。

 

「ちなみにー、クッチーはどんな流れで昨日告ったん?」

 

 この状況で更に環が笑い転げそうな話題を取り上げてきたが、それについては踏鞴庭も気になっていたため、止める事は無かった。

 

「放課後、一緒に帰って……」

「うんうん、それでー?」

「一緒に帰るくらいの関係は、既に築けてたのか」

「……」

 

 思ったより初手は健全な始まり方で、3人は意外そうにしながらも続きを促す。

 

「その場の流れで告白した」

 

 スン……と、3人の関心が冷える音が聞こえる気がした。

 

「うわヤッバァ……」

 

 本気でドン引きする喜屋武。

 

「振られたのでは無く、振られに行ったか」

 

 頭を抱えて嘆く踏鞴庭。

 

「タイムトライアルでもしてた?」

 

 擁護勢だった2人はおろか、笑ってた環すら真顔になっている。

 これらの反応にはさしもの沓掛も意外だったらしく、ようやく取り戻しかけた表情(ただし焦燥)で自己弁護を始めた。

 

「な、なんだよお前ら! 仕方ないだろ、明らかに行けそうな空気がしたんだから」

「空気読めな過ぎてウケる」

「恐らくいけない空気が流れてたはずだぞ」

「……はぁ」

 

 三者三様──の様でいて、いずれも内容は自身の主張を否定する反応。

 多数決に絶対性は無いかもしれないが、この場合、明らかに間違っているのは自分の方だと、沓掛は認めざる得なかった。

 

「……だってさぁ。話してお互い笑っててさぁ、楽しくってさぁ……行けるって思うじゃんそこは」

「涼多、涼多」

「なんだよ……」

「愛想笑いって言葉、知ってる?」

「ウワー!! お前嫌い!!」

 

 全く笑いの無い、淡白な言い方でトドメを刺した環の言葉を前に、沓掛は完全に感情を思い出した(ただし絶望)。

 踏鞴庭も諌める事はおろか、慰める気すら起きない。

 喜屋武は想像以上に発展性の無い話題だと思ったか、席を立ってドリンクバーの方へ向かってしまった。

 

 

 数分後、落ち着いた沓掛は意趣返しとばかりに、3人に問いかけた。

 

「──ていうか、みんなはどうなんだよ。俺は行動を起こしたんだぜ、結果はどうアレ、その分みんなより先を行ってると言えないか!?」

「それはー、あーうん、確かにそうかも?」

「やや強引ではあるが、無理に否定するほどでは無い主張ではある」

「言うてタタラは彼女いるだろう」

「なに!?!?!?」

 

 環がサラッと口にした言葉に、沓掛が過剰なくらいに反応を示した。

 沓掛と同じく何も知らなかった喜屋武が、環と踏鞴庭を交互に見ながら言った。

 

「え、マッキーそれマジなん? 本質情報的なヤツ?」

「……あぁ、先日からだが」

 

 若干環に向かって“余計な事を……”という視線を送ってから、踏鞴庭は喜屋武に首肯する。

 素直に驚く喜屋武だが、納得がいかないのは沓掛だ。

 

「せ、先日っていつからだよ!?」

「……先々週あった、他校との合同稽古の日に、向こうのマネージャーから告白された」

「た、他校の……しかも女マネージャー……か、よ……」

 

 脳とマインドが破壊されて、沓掛はテーブルに突っ伏してしまう。

 先ほどの振られ話より遥かに面白い話題にテンションが上がった喜屋武は、目を輝かせながら尋ねた。

 

「ねぇタク、相手はどこ校? 前から知り合いだったん? どう告白されたの!?」

「お、おい……そう畳み掛けるな……っ」

 

 身を乗り出してグイグイ聞く喜屋武に、踏鞴庭がたじろいでいると、環が喜屋武の服の襟元を握って無理やり座らせた。

 そのまま、文句を言われるより先に口を開く。

 

「落ち着けよ。学校は女子校の傘ヶ丘で、向こうが一方的に知ってたんだとよ。どう告白されたかまでは、知らんけど」

「うぇ、何でマッキーがそんな詳しいの? ていうか女子校に剣道部あったん?」

「あるだろそりゃ……この辺り周辺の剣道部全部集まっての練習だったんだよな、確か?」

 

 環が尋ねると、踏鞴庭は頷いた。

 

「ふぇー……ていうか、もしかして一緒にいたの、マッキーとタク」

「あぁ。暇してたし、最後は団体トーナメント戦するって聞いてたから、見に行った」

「なんだよー、それなら俺も誘って良かったのに。で、どうだった? 勝った?」

 

 環に聞いた喜屋武だが、そこはお前が言えよとばかりに、環は踏鞴庭にアイコンタクトを向ける。

 

「……勝ったぞ。危うかったが、どうにかな」

「練習試合にするの勿体無い臨場感だったぜ。なんせ先に2人負けて後がなくなってからの3タテ決めたからなぁ。しかも大将戦はタタラと同じくらい強い奴だったし」

「見たかったなー、動画撮ってたりしない?」

「モチのロンよ、見てみる?」

「それこそもちろん! ……ていうかさぁ、リョーはいつまで不貞腐れてるワケ。いい加減立ち直りなって」

 

 喜屋武が沓掛の頭を軽く小突くと、じっとり踏鞴庭を見ながら“なんで坊主頭に彼女が出来て俺には……”などとブツブツ呟く。

 “そういうところが原因だぞ”と言いたくなる環だったが、かえって面倒くさくなるのは分かり切って居たため、敢えて口を塞ぐのであった。

 


 

 ひとしきり4人で談笑を楽しんだ後、塾があるからと踏鞴庭が帰り支度をしたのに合わせて、この日は解散となった。

 向かう方向が同じ環と踏鞴庭は一緒に帰る事になり、先程までの沓掛の惨状を話のネタにしながら歩いてると、ふと踏鞴庭が別の話題を持ち出してきた。

 

「そう言えば枯園、お前の方こそ最近はどうなんだ」

「ん? 俺の方って?」

「バレバレの演技をするな。……桜ノ宮の姉妹とは、上手くやれてるのか」

「……あー、うん」

 

 桜ノ宮、と踏鞴庭が口にした途端、露骨に環の表情が曇った。

 

「何かあったのか。最近お前の口から彼女らの話が出ないとは思ってたが」

「あぁ、まあ、あったと言えば、あったかも……」

 

 そう言って言葉を濁す環。

 

 桜ノ宮姉妹とは、家族ぐるみで付き合いのある桜ノ宮家の美人姉妹だ。

 姉の桜ノ宮璃梨主(りりす)、妹の紅梨主(くりす)とは、そんな家族の縁もあって昔から一緒に過ごす事が多かった。

 

 姉妹の親は病院経営をしており、メイドやコックを雇ったり、ゴルフの練習が出来る程の広い庭を持ってたりする、正真正銘の名家。

 何故そんな上級国民と自分の親が親交を持っているのか、我が子ながら疑問が絶えない環だった。

 

 親同士だけじゃなく、環と桜ノ宮姉妹の関係も良好と言える。

 同級生でもある姉の璃梨主は勝気な性格で、普段は尻に敷かれがちだが、互いに軽口も叩き合う仲。

 妹の紅梨主は姉と真反対で淑やかな上に優しく、実の兄の様に環を慕っている。

 現在は同じく仕事で家に居ない日が多い両親の計らいで、環は日常的に桜ノ宮家で夕飯をいただいたり、休日を過ごす事も多く、踏鞴庭や沓掛達も“姉妹のどちらかと付き合うのも時間の問題”と思っていた。

 

 そんな環が、桜ノ宮姉妹の話題を振られる事を嫌がっている。

 普段から桜ノ宮姉妹との関係で、嫉妬の目を向けられる事があってもまるで気にしてない、環が。

 尋常では無い事があったのは、間違いないだろう。

 

「そう言えば最近、妹さんが作ってくれてるお弁当を見ないな」

「あぁ……学食のお弁当だからな」

「女子ゴルフ部の使いっ走りをする姿も見てない。姉の方に文句を言う姿もな」

「璃梨主とも……そうだね、ウン」

「……何があった」

「……最近、2人とは会わないようにしててさ」

「何をやらかした?」

「あー……その、な」

 

 この上なく言いづらそうに眉を顰めて、しかし、心の中にしまい込む事がこれ以上は無理になったのだろう。

 環は意を決して、踏鞴庭に打ち明けた。

 

「失恋した」

「──マジ、か」

 

 沓掛が振られた時とはまるで違う衝撃を、踏鞴庭は受ける。

 目の前の友人が、しっかりとあの姉妹のどちらかに恋心を抱いてたという事もそうだが、その恋が実らなかったのも、3人の関係をある程度知ってる立場としては意外過ぎた。

 

「ちなみに、()()()だ」

「……璃梨主」

「姉の方か……そうか、そうだったか……」

 

 分からなくも無い、と無理やり踏鞴庭は納得しようと心を働かせる。

 妹の紅梨主も当然男子に人気だが、活発で男子に物怖じせず、女子ゴルフ部でも優秀な成績をおさめる姉の璃梨主は、それ以上に学校中で人気者だった。

 当然、言い寄ってくる男子は多いし、その中の誰かと付き合ってる事があっても、おかしく無いだろう。

 

「告白してたのか。いつだ?」

「いや、告ってはない」

「……は?」

 

 おかしな話だった。

 告白せずに、失恋したとは。

 

「誰かとデートしてる姿でも見たのか?」

「……ううん、そう言うのも無い、けど」

「けど……なんだ?」

 

 振られたのでも、誰かとの逢瀬を目撃したのでも無ければ、なぜ失恋なのか。

 答えを言うのかと思っていたが。

 

「──ごめん、やっぱこれ以上は言えないや。取り敢えず失恋確定したんだよ」

 

 環はそれ以上、事の詳細を話す気はなかった。

 

「そうか……なら、分かった」

 

 塾のあるビルがもうすぐだと言うのと、これ以上は踏み込んではいけないラインだと判断した踏鞴庭は、それ以上尋ねる事はやめた。

 

「環」

「ん?」

 

 ビルの入り口に着いた踏鞴庭は、珍しく名前で呼んでから、最後にサムズアップしながら。

 

「今度、カラオケでも行こう。もしくは池袋に行って、この前話した“ぶっ壊せる店”にでもな」

「……ふふっ、サンキュー」

 

 友人の心配りに感謝しながら、環は笑いながらサムズアップを返したのだった。

 


 

 帰宅してすぐに、環は自分の部屋でスマートフォンを見た。

 ロック画面には、着信とメッセージの通知が出ている。

 いずれも、殆どが桜ノ宮紅梨主からの物だった。

 

「──はぁ。やんなっちゃうな」

 

 そう声に出してぽいっと枕元にスマートフォンを投げると、環は制服の上着だけ脱いでから、同じ様にベッドに倒れ込む様に突っ伏す。

 枕に顔を埋めてポツリと声を漏らした。

 

「……告ったり、他の奴とデートしてる所見た位だったら、どんだけマシかって話だよ」

 

 実態は酷い物である。

 4日前の日曜日、環はいつも通り桜ノ宮家にお邪魔して、璃梨主のゴルフの練習に付き合う予定だった。

 いつも時間より遅れたり、何かと小言を言われる環だったが、この日だけは珍しく約束の5分前に来た。

 ところが、リビングや庭に約束していた璃梨主の姿は無い。

 普段ならそれこそ、5分前に璃梨主が自分を待っているはずなのに。お互い珍しい事も起こるものだと、環は思った。

 

 居所を知っていそうな紅梨主は折り悪く不在で、メイドも各部屋の掃除で忙しそうだったので、環は勝手知ったる何とやら、自分で璃梨主を探す事にした。

 

 と言っても、四方八方探すわけでは無い。

 恐らく、まだ自分の部屋に居るのだろうと考えた環は、まっすぐ2階にある璃梨主の部屋に向かうと、部屋の扉が僅かに空いていた。

 部屋を出たのだろうか? 行き違いの事も考えた環だったが、すぐに扉の隙間から、聴き慣れた璃梨主の声が僅かに聞こえた。

 

「──す、──っ」

 

 何を言ってるのかは、部屋の外からじゃよく聞こえないが、誰かの名前を囁いてる様に感じた。

 もしくは、何かに集中して作業しているのか……。

 

 ここで、環の中に悪戯心が芽生えてしまった。

 本来なら部屋の扉をノックして声を掛ける所だが、急に扉を開けて驚かせよう、そんな余計な事を思い付いてしまう。

 しのび足でそろりそろりと扉に近づく。部屋の中の璃梨主は、まだ環の存在に気づいていない。

 

 さぁ、ドッキリをしよう。ドアノブに手を伸ばし掴みかけた、その時。

 

「──紅梨主っ」

 

 初めてハッキリと、璃梨主の声が聴こえた。

 妹の名前を口にする璃梨主の声は、今まで何度も聴いてきた。それ自体は何もおかしく無い。

 

 しかし、環はそれを耳にした途端、全身が凍った様に固まってしまった。

 何故なら、璃梨主の声色が、普通では無かったから。

 

 甘く切ない、蕩けるような──聴く者の顔を赤面させてしまう程の、熱情。

 駄目だ、これ以上いけない。早く部屋から離れないと。

 そう理性は警告しているが、環はそんな声で一体璃梨主が何をしてるのか、気になって仕方なくなる。

 

 そうして、脆い理性の制止など何の意味もなく、環はゆっくりと部屋の隙間から中の様子を覗き──()()を、見てしまった。

 

「ハァ──紅梨主、くりすぅ……」

 

 妹の名前を甘く囁きながら、ベッドの上で身を捩るその姿は、誰がどう見ても、そう言う行為に他ならなかった。

 

 ──は? 嘘だろ? これから人と会う約束してる状況だぞ? 

 

 圧倒的情報量に押し潰された環の脳みそがどうにか弾き出したのは、そんなごく一般的なツッコミだった。

 

 その後に、とんでも無いものを見ている自覚が遅れてやってきた。

 判断が鈍い。

 認識が遅い。

 自身の鈍重な脳みそを、環は他人事の様に呪った。

 もう30秒も、璃梨主が紅梨主を想って自慰行為してる姿を眺めるハメになったのだから。

 

 そう。璃梨主が紅梨主を想って、である。

 自分相手なら最高だったろう。

 自分以外なら最悪だったが、受け入れるしか無い。

 しかし、よりによって同性の──しかも実の妹を相手に自慰行為をしている事実は、最悪以上の衝撃を環に与える事となった。

 

 全く分からなかった。

 璃梨主は確かに紅梨主を大事に──それこそ自分よりも大切にしていた。

 常に勝ち気で、どんな男子相手にも物怖じせず、文武両道を地で行く璃梨主が、その表情を柔らかくして、優しさを向ける相手が紅梨主であり、環はそんな二つの面を持つ璃梨主を側で見て来て、心を惹かれていた。

 

 そう、環は璃梨主に恋心を抱いていたのだ。

 それが、たった今完全に砕け散ったワケで、よりによって恋敵とも呼べる存在は紅梨主。

 

 悔しさ、悲しさ、虚しさ、純粋な驚愕と、同性に加えて近親という()()()()タブーとされてる物への嫌悪、更にそんな気持ちをよりによって璃梨主に向けてしまった自身への失望……あらゆる感情がないまぜになり、もはや吐き気すら覚えて来たその時。

 

 廊下の奥から、誰かがこちらに向かう足音がした。

 恐らくメイドさんだと思われるが、誰であれこの状況を見られるのはマズい。

 環は自分の感情を咄嗟に押し殺して、物音を立てずに反対側の廊下から、早足で階段を降りて、そのまま家を出た。

 

 その日から、環は桜ノ宮姉妹との連絡を全て断ち切り、今日に至る。

 璃梨主の顔なんてマトモに見られるわけが無いし、紅梨主にもどう相手すればいいか、分からなかった。

 顔を見たら絶対気まずくなるし、そんな状態を璃梨主に見られたら、あの日自分が覗き見した事もバレて、確実にややこしい話になる。ただでさえ失恋した相手なのに、そんな理由で向き合いたくは無い。

 

 紅梨主については特に、元々本当に優しくて良い子だし、今回は本当に無関係な立場で巻き込まれた形になるので、申し訳ない気持ちは大きい。

 関係を一方的に途絶してから、璃梨主から何回か電話やメッセージを送られる事があるが、その何十倍も連絡をしてくるのが紅梨主だ。

 

 “何かあったんですか? 私に出来ることがあったら相談してください”

 “ご飯はちゃんと食べていますか? 何も聞かないので、御夕飯だけでも一緒にしたいです”

 “もし、私やお姉様が何か嫌な思いをさせていたなら、せめてそれだけでも教えてください。私、お兄様に嫌われたまま終わりたくないんです”

 

 その様な、ひたすら環を心配する録音や文章を目にして、環は居た堪れなくなる一方だった。

 彼女は何も悪い事をしていない。それこそ環の唐突な行動に巻き込まれただけなのにも関わらず、加害者の様な立ち位置に自分を置いている。

 勘弁して欲しかった。“そういうのやめてくれ”と何度も返信しようとしたが、すれば逆に話が複雑になる気がして、次第に環は桜ノ宮姉妹からの連絡を完全に無視する様になった。

 

 そうすれば紅梨主だって諦めて愛想尽きるに違いない。

 そんな事を期待したのに、頻度こそ増えないものの、今日もこうして連絡が来る始末。

 登下校の時間帯や道順を変えたり、校内では踏鞴庭達と一緒に過ごす時間を増やしたり、念の為姉妹が居ないか確認してから廊下を歩いたり、色々と気を張ってるが、スマートフォンに来る通知だけは避けようが無い。

 

「……もう、いっそのことブロックしちゃうかな」

 

 何度も脳裡を過ぎったが、それをしたらいよいよ何かが終わる様な気がして躊躇ったが、今後もこのどうしようもなさが続くのだとして、それを我慢する必要があるならば──。

 

「……腹減っちゃった」

 

 ブロックする寸前の所で、やはり躊躇いが勝った。

 何度目かの行為に、プラス1を加えるのが癪だったので、環は空腹感を優先したという体裁でベッドから起き上がる。

 

 しっかりと制服から私服に着替えてから、スマートフォンを左手に握りつつ気だるい足取りで一階に降りた。

 親が心配する通り、生活能力が乏しい環1人が暮らす家は、関係を断ってから1週間もしないうちから埃っぽく、ゴミそこらに散見される、ゴミ屋敷予備軍と化している。

 もしこんな家の様を璃梨主が見たら呆れて罵倒してくるだろうなあ、自然とそう考えた自分に、遅れて嫌悪を抱きつつ、冷蔵庫を開ける。

 

「……なんもないじゃん」

 

 厳密には、消費期限が昨日のもやしパックのみが、ポツンとあるだけ。

 思えば桜ノ宮家で、栄養バランスと量と質が満たされた食事ばかり味わって来た環が、マトモに自炊など出来るはずも無かった。

 とは言え、コンビニやスーパーの弁当ばかり買っても食費や栄養面に問題がある事位は、学校で習ってるので理解している。外食なぞもっての外だろう。

 

「……自分で作ってみるか」

 

 幸いな事に、情報化社会ではわざわざレシピ本など買わなくとも、スマートフォン一つで料理のレシピや食材の情報は、容易に得られる。

 恐らく、いや、間違いなく桜ノ宮家のコックや、紅梨主が作ってくれるお弁当に比べたら、はるかに質の落ちた物ばかりになるだろうが……そうなる道を選んだのは自分なので、文句は言えない。

 

 “一人暮らし、簡単、料理”など適当にそれらしいワードで検索して、1番楽に作れそうで、流石に何度か手伝った事もあるカレーを作る事にした。

 幼い頃、母親が作ってるのを手伝ったのもあるが、流石にカレーなら味を整えるのは市販のルーだし、自分でやるのは野菜や肉を切ってそこそこ焼いたり、煮たりするだけ。失敗する方が難しい。

 

 ──ああでも、そういえば5日前──環が見てはいけないものを見た前日、桜ノ宮家でご馳走になったのもカレーだったけ。

 

 一瞬メニューを変えようか悩んだが、今更検索するのも怠いので、多少の拒否感を飲み込んで、環は財布をポケットに入れて玄関に向かい、せめて靴くらいは陽気になれるものをと、お気に入りの靴をシューズラックから取り出して履いた。

 親から送られる生活費兼お小遣いを3ヶ月我慢して買った、インスタントポンプフューリー。

 それを買ったのも桜ノ宮姉妹と一緒の時で、珍しく璃梨主はセンスを誉めて、紅梨主も似合うと我が事のように喜んでくれたのを覚えている。

 

 覚えているので、捨ててしまおうかと思ったが、流石に値段が値段な上に、まだ数回しか履いてないのでやめた。

 

 何かをするたびに、それに関した桜ノ宮姉妹との思い出が勝手に想起される。

 あの2人と過ごした時間がそれ程多い事の証明だが、いちいち思い出す度に胸を苦しめられるのも嫌なので、別の事を思い出しながら買い物に行こうと決めた。

 

 手始めに、今日の沓掛が振られた時のやりとりを思い出してみながら玄関の扉を開けた。

 

 その、直後。

 

「──おにい、さま」

「…………」

 

 今まさに、玄関のインターホンを押さんとする紅梨主が、居た。

 片方の手には自前の買い物袋があり、長ネギのようものが見える。

 いや、何をしに来て、何を持ってるかなんてどうでも良い。

 

 問題は、環が他の事を考えて行動しようとしたその矢先に。

 現実逃避を許さないとばかりに、よりによって今1番会ったら罪悪感に苛まれる相手と、遭遇してしまったこの状況そのものである。

 

「──やんなっちゃうなぁ、もう」

 

 眼前の紅梨主にも聞こえないほどの小声でそう呟いて、環は玄関の扉を閉めた。

 

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