扉を閉めようとした環の判断は素早かった。
しかし、それよりも更に紅梨主の動きは早かった。
「待って、お兄様!」
勢いよく閉めようとしたドアの僅かな隙間に、紅梨主は両手を差し込んだのだ。
「──うわっ、馬鹿!」
すんでのところで止めたので、あわや指を挟む大惨事とはいかなかったものの、非常に危険な行動である事は変わらない。
あと1秒でも環が遅かったら、今頃大怪我を負わせてしまう所だったのだから。
しかし、環が諌めたり怒ったりするより先に、紅梨主が閉ざされずに済んだ扉の隙間から環を見る。
「お兄様お願い、話を……話だけでも聞いてください」
「……っ」
懇願する声を耳にした途端、瞬く間に環の心は罪悪感で締め付けられる様な痛みを覚えた。
今紅梨主の声を聴けば、そうなってしまうのは分かりきっていた事。
だから早々に拒絶しようとしたのに、紅梨主が怪我すら厭わず強引に迫ってくるのは、環にとって想定外だった。
「……何しに来たのさ」
紅梨主は扉を開けようとはして来ないが、決して力を緩めはしない。
もはやこうなってしまえば、紅梨主と会話する他無い。
「あの……、聞いてくれるんですか?」
「そう言ってるつもりだけど、大した用が無いなら──」
「あります! 御夕飯を……作りたくて来ました」
わざと嫌われる様に冷たくあしらう環の言葉を遮り、紅梨主は言う。
「最近ずっと、お兄様は1人でご飯食べてますよね? それもきっと、コンビやスーパーから買ってきたお惣菜で」
「……そうだけど」
「お惣菜も美味しいと思います。けど、種類や栄養も偏りがちですし、毎回買いに出るのも大変だと思うんです。それに、慣れないうちに1人で料理するのも大変ですよね?」
「うん……」
早く会話を終わらせたいと思いつつも環には、紅梨主の言葉に一切反論する余地が無い。
実際、紅梨主の指摘した問題があったからこそ、買い物に出ようとした。
「ですから私、お兄様のご飯を作りたいと思って……一度に全部は無理でも、しばらく作り置きしたり、冷凍で保存出来る物を考えてきたんです。そうすればお兄様も楽になるかなって」
──あぁ、勘弁してくれないか。
環はそう言葉にしたくて、喉から出かかったのをどうにか留める。
紅梨主は優しい女の子だと言うのは分かっている。環の事を兄の様に慕ってくれてる事も。
しかし、辛辣な対応をされてもなお、ここまで自身の事を想ってもらうだけの理由は、環には分からなかった。──そうされるだけの事を、何もしていないから。
それに、もしこのまま紅梨主の提案をのんで家に入れたら、環は素直に姉妹を避けてる理由を話してしまう気がした。
そうなれば次に、姉妹間で何が起こるか分からない。
璃梨主が誰にもひた隠しにして、胸に秘め続けて居ただろう紅梨主への恋慕を、こんな最悪の形で、自分が詳らかにしてしまう。
そんなのは最悪だ。
紅梨主に掛かる心の負担は計り知れないし、何より璃梨主が被る被害が尋常では無い。
冗談抜きで、璃梨主に殺される事だってあり得る。
「紅梨主、気持ちは嬉しいけど、俺は──」
「私、何も聞きません!」
またも環の言葉を遮り、紅梨主が言う。
扉に掛けてる指の力も、僅かに強まった。
「お兄様がどうして最近、私達と会ってくれないのか、お話すらしてくれないのか、何も聞きません! 帰れと言われたら帰ります、だからせめて、ご飯を作るくらいはさせてください! お願いですから……っ!」
「──っ……」
──その献身的という言葉すら足りないくらいの気持ちを、俺に向けるのはやめてくれ!
心の中で環は叫んだ。
口に出してしまえば、この真綿で首を絞める様な時間を1発で終わらせられるだろう。
しかし、扉の隙間越しに見えた紅梨主の顔を見て、そんな残酷な事出来るはず無い。
「お願いです、お兄様……私、本当に何も聞きませんから。どんな理由でも良いの。一緒に居させてください。このままずっと、お兄様の顔も見えないままなんて嫌なんです!」
「……っ、もう……!」
いい加減、我慢の限界を迎えた。
環は一度深々とため息を吐いてから、改めてドアノブに力を込めて──。
「もう少し、待っていてくださいね。お兄様」
弾む様な声で、料理をしている紅梨主の背中を、食卓の椅子に座りながら環は見ている。
結局、環には心を鬼にして紅梨主を追い払う事が出来なかった。
璃梨主相手と口論した時、負けん気な璃梨主に言い負かされて、根負けする事はあった。
しかし普段大人しい紅梨主相手に、根負けするとは思わなかった。
璃梨主がひたすら強い口調と理路整然な言葉選びで、上から押し潰してくるタイプだとしたら。
紅梨主は真逆で、敵対する側が自ら道を明け渡したくなる空気を作るタイプだろう。
実際に紅梨主を家に入れたのも、罪悪感を抱いてた事もあるがそれ以上に、玄関前とはいえ野外に立たせたまま泣かれる状況そのものに、面倒くさくなったと言うのが大きい。
よしんば今日は帰したとして、後日また同じ様に迫られたら、また辛い思いをしなきゃいけない。
それなら、今回でさっぱりと終わらせる方がマシだと、環は思う事にした。
仮に紅梨主が璃梨主の様な詰め寄り方をしてたら、環は何の躊躇いもなく追い返したに違いない。
「お待たせしましたお兄様! たくさん作ったので、タッパーに分けて置きました。赤いフタの物は冷凍も出来るので、飽きてしまった時は保存してください」
笑顔で説明しながら、紅梨主は慣れた仕草で食卓に料理を並べていく。
そのどれもが、環では到底再現できそうも無い美味しそうな香りと見た目、色合いをしていて、空腹だった環の食欲を容赦なく刺激する。
「それじゃあ……その、私は帰りますね」
「えっ」
「え?」
「あ、いや……」
本当ならそのまま帰らせた方が楽なのに、エプロンをしまって寂しそうに言った紅梨主に、思わず引き止める様な態度をしてしまった。
しまったと思う環だが後の祭り、紅梨主は言葉にこそしないが、期待する様に環を見ている。
「えっと……作ってもらって終わりじゃあんまりだし……もしまだ紅梨主が夜ご飯食べてないなら、一緒に」
「はい! 私まだお腹空いてます、一緒に食べたいです!」
瞳を輝かせて前のめりに答えると共に、いそいそと自分の分の食器を用意し始める紅梨主を見て、これで良かったのだと思う事にした。
料理部に通っている紅梨主が作ったご飯は、やはりどれもが絶品と言える味だった。
向かい合って食べている間、紅梨主はずっと学園であった出来事や、最近見たドラマの話などを環に話していた。
さながら、この4日間2人の間に生じた空白を埋める様に。
環もそんな紅梨主の話に相槌を打ち、時折気になった事などを尋ねたりして、自然と会話は弾んでいく。
食べ終わった食器は環が軽くスポンジで洗ったものを、紅梨主が食洗機に入れて、筒がなく2人きりの晩餐は終わった。
しかしこれで終わりかと思いきや、そこかしらにゴミが溜まっているキッチンやリビングを見た紅梨主の提案で、急遽一緒に掃除もする事になった。
環はゴミ袋に燃えるゴミや飲み終わったペットボトルを入れて、紅梨主は掃除機で床に溜まった埃を吸い上げる。
埃っぽく、心なしか薄暗さもあった家の中は、あっという間に清潔で晴れやかな空間に変わっていき、その頃にはもう、環が紅梨主に対して張っていた心の壁も、だいぶ消えていた。
ゴミの分別や袋詰めも済んでゴミの日にすぐ出せる様にした所で、取り敢えず掃除を完了した2人は、リビングのソファで並んで座りながら、食後の休みと掃除の休みを一緒に取る。
「ごめん紅梨主、ご飯作ってもらうだけじゃなくて、部屋の掃除まで手伝ってくれて」
「良いんです。私がやりたいってお兄様に無理を言ったんですから」
「無理なんかじゃ……とにかく、本当ありがとう」
「そう言ってくれるだけで、充分です。──あっ、でも」
「うん?」
何かを思い出した紅梨主がソファから立ち上がり、リビング奥にある棚に向かうと、何かを手に取って戻ってきた。
「お掃除がまだのところがありました」
笑顔でそう話す紅梨主が手に持っているのは、綿棒の入った丸いパッケージだった。
そんなものがリビングにあった事を知らなかった環は、まず紅梨主が自分より家の事情に詳しい事に驚いて、次いでようやく、紅梨主の意図を理解する。
「もしかして……」
「はい、耳掃除です。といっても、お兄様の家に梵天はありませんから、いつもの様にはいきませんが」
「いやいやいや、流石にそこまではやらなくていいよ!」
「そんな事おっしゃらないでください。いつもやってる事じゃないですか。それに……」
環の隣に座り直し、蓋を開けて綿棒を一本指で持ちながら、紅梨主はにっこりと微笑む。
「お兄様、私の耳掃除、好きですよね?」
その通りだったので、否定出来ない。
姉妹を避ける様になる前は、よく桜ノ宮家で紅梨主に耳掃除をしてもらっていたし、紅梨主の耳掃除は金が取れるのではと思うほどに上手で、毎回してもらう度に心地よさと安心感で満たされていた。
「さっ、お兄様。いつもみたいに頭に膝を乗せてください」
「えぇっと……」
夜ご飯を一緒に食べた辺りから、紅梨主に対する心の壁が消えていたとは言え、未だに璃梨主への忌避感と、紅梨主への遠慮は残ったまま。
そんな状況で耳掃除の誘いを受けるのは躊躇いがあるが、同時に紅梨主の上手さを知ってるだけに、とても魅力的な提案を即座に突っぱねる事も難しい。
そんな環の葛藤を察してか、紅梨主は更にもう一歩、踏み込んだ誘いをする。
「お兄様、遠慮なんてしないで下さい。私がお兄様のお耳を綺麗にするのは、何も特別な事じゃない、普通の事なんですから。ね?」
微笑みながらそう言って、太ももを優しくトントンと叩く紅梨主。
その仕草と優しい言葉は誘蛾灯の様に環を誘い、彼の中にある躊躇いと蟠りを強引に溶かしていく。
「じゃあ、その……お願いします」
「はい。お任せください!」
あれだけ拒絶しておきながら、あっさり彼女の膝枕に頭を預けてしまう自分の意思の弱さを、環は恨んだ。
「どうですか、お兄様? 気持ちいいですか?」
「うん……いつもながら、本当プロ級」
「もう、そんな風に煽てたって何も出ませんよ」
口ではそう言いつつも、紅梨主が喜んでいる事は顔を見なくても明らかだった。
「お兄様、ちょっと深く綿棒を入れてみますね」
紅梨主がそう囁いてから、乾いた綿棒の音だけが、環の意識を染める。
耳腔を優しくなぞる感触、膝枕の柔らかさ、耳朶に触れる紅梨主の指先、それらが合わさって急速に意識が
抗い難い……いや、抗うという意識すら湧き出ぬほど強烈な睡眠欲に飲み込まれた環は、そのまま静かに瞼を閉じてしまう。
そうして、どれ程の時間が経ったのか。
「──あれ、寝ちゃってた……?」
次に瞼を開けた時、環の視界にすぐ映ったのは。
「あ、目が覚めましたか。お兄様」
仰向けに眠っていた自分を見つめている、笑顔の紅梨主だった。
「あ……ごめんな、どのくらい寝てた?」
すぐに状況を把握して、ゆっくりと起き上がりながら尋ねる。
「だいたい30分くらいです。だいぶ疲れが溜まっていたんですね」
体力的には、疲れなど一切無かった。
それでも耳掃除の途中で完全に眠ってしまったのは、環の中にあった紅梨主に対する緊張の糸が、完全に切れたからだろう。
言わば、心労から来る疲れだ。
「30分も膝枕してくれてたのか。脚、痺れてないか?」
「平気ですよ。むしろ、もっとお兄様の寝顔を堪能したかったくらいです」
「いやいや、紅梨主の膝枕で30分も寝てたなんて璃梨主に知られたら、どんな──」
目が覚めたばかり故に、環は一瞬だけ完全に油断した。
思わずいつもの調子で璃梨主の名前を口に出してしまい──すぐに、自分が心労を積もらせた原因を思い出して、その表情を曇らせた。
そんな環を目の前にして、紅梨主は俯いて視線を自身の脚元へと移しながら、環に問い掛ける。
「やっぱり……お姉様と何かあったんですよね?」
「え……な、なんでそう思った?」
明らかな動揺は、紅梨主の問いかけに対する肯定と何ら変わらない。
「お兄様が私達を避けるようになった日から、お姉様も何か悩んでる様に、1人で考える姿が増えたんです」
「……偶然じゃないかな」
まさかあの日、環が璃梨主の秘め事を見てしまった事が、相手にバレているのか。
声に出したいほどの焦りと困惑が、脊髄を通って脳を侵食する。
──いや、待て待て。もし本当に璃梨主が知ってるなら、俺を放置してる筈がない。
理解が進み始めてるとはいえ、未だ他者からの目が厳しい同性愛な上に、実の妹を思って
それなのに環が姉妹を避けてから一切、環に口封じや確認を取りに来ないと言うのはつまり、彼女は環が見ていた事を知らない事の証。
ただし璃梨主にとっても、今まで数え切れないほど桜ノ宮家に来ていた環が来なくなるどころか、自分達を露骨に避ける事態は異常だ。
そんな異常事態が始まった日に、仮に環が来なくなるような出来事があるとすれば──あってはならない事だが、見られていたというのも可能性としては否定し切れない。
直接尋ねて本当に見てたら最悪だし、見てなかったとしたら墓穴を掘る事になる。
かと言って放置し続けて、もし何かの拍子に環が口を滑らせてしまったら、大変な事になってしまう。
紅梨主の目に璃梨主が何か悩んでる様に見えたのは、そんな璃梨主の八方塞がりな葛藤があるからだろう。
そして原因は分からないままでも、流石に璃梨主と環の様子を見て
「偶然なわけ……ないじゃないですか」
「……紅梨主」
「お兄様が私を……私達を避ける様になって、私凄く悲しくて、寂しくて、胸が本当に張り裂けるんじゃないかってくらい痛くて──今だってそうです。お兄様が理由はわからないけど、私に何か隠してるんだって思うだけで、苦しいんです」
自分の胸に手を当てながら、紅梨主が今日まで蓄積させた気持ちを吐露する。
「お姉様も、お兄様が避ける理由に思い当たる所がある筈なのに、私に何も言ってくれない……何も知らないのは私だけ。そんなのってあんまりじゃないですか」
「……ごめん」
紅梨主を苦しめている当事者として、環はただ謝ることしかできない。
自分の発する“ごめん”の薄っぺらさは承知してても、仮にこのタイミングで本当の事を話したとして、誰も救われないだろう。
いいや寧ろ、紅梨主の立場を更に苦しめる事にしかならない。
「お、俺が……俺が2人と会わない様にしたのはな! 自立──そう、独り立ち出来る様にって考えたからなんだよ!」
「……はい? お兄様、一体何を」
「前に、璃梨主に言われたんだ。彼女が欲しいなら家事くらい覚えろってさ。いい加減俺も恋人欲しいし? だから一念発起して桜ノ宮家に頼らない生活にチャレンジしてるのさ」
迷走する思考と、正しい答えの無い状況の中、環は誰が見ても苦しいデマカセを口にする。
でも構わない。紅梨主がうわべだけでも納得してくれたら、この場はとりあえず収まるのだから。
紅梨主ならきっと、多少納得がいかなくたって分かってくれる──そんな脆弱な期待はしかし、真反対の結果を生み出した。
「そんなワケ無いでしょう!!」
「──え?」
俯いていた紅梨主の視線は、再び環へと向かれる。
見たこともない形相と共に。
「私が、そんなあからさまな嘘に“はいそうですか、分かりました”なんて言うと思ったんですか!?」
言われながら環は、それが誰の声なのか、正しく認識できないでいた。
怒号である。
懇願や泣き声では無く、憤怒の情がこもった声を、間違いなく環はぶつけられている。
あの、優しくて大人しくて、他人に強くあたるような事をしない紅梨主が、環に対して純粋な怒りを向けているのだ。
それはまさしく、環にとって初めての経験だろう。
桜ノ宮紅梨主という少女から発せられる怒声は、時折璃梨主から喰らうそれよりはるかに恐ろしく、胸に響いた。
そんな環の動揺を他所に、紅梨主は溢れ出した思いをそのまま、言葉に乗せ続ける。
「確かに私はお姉様より愚図だし、頭も回らないです。けど、お兄様の言葉が──好きな人の言ってる事が本当か嘘かも分からないほど、馬鹿じゃありません!」
「あぉ、うぇっ!? ハイ!?」
ただでさえ初めて紅梨主から本気で怒られてるのに、立て続けに衝撃的なタイミングでの告白を受けた環の脳は、既にクラッシュ寸前だった。
そしてこれは環が知る由もない事だが、紅梨主もまた焦燥感に駆られていた。
自分が幼い頃から秘めていた想いを、自分でさえ思いもしなかったタイミングで打ち明けてしまった。
ただでさえ理由も分からず想い人が急速に自分から離れようとしている今、ここであやふやにしてしまえばきっと、自分の昔年の恋は
それだけは避けなければならない。
環の行動理由は不明のままであっても、繋ぎ止めなければ。
言葉を、想いを尽くして──必要であれば身体をも使って。
自然と、紅梨主の左手は固まっている環の右手を掴む。
「お兄様、私、お兄様が私達を避けた理由は聞きません。でも──だからお願いします、どうか私を、側に居させてください! 彼女にして欲しいとか、いつも一緒に居たいなんて事は言いません。今日みたいに一緒にご飯を作ったり、お掃除するだけで良い……たまにでも良いんです! だからお願いします……っ!」
これでもかと言うくらいの想いを真正面からぶつけられ、環のショート寸前の頭は、それでもどうにか現状を正しく把握しようと努力していた。
昔からの付き合いかつ、優しい性格が理由だと思っていた彼女の自分に対する行動は、全て恋心から来るものだった。
自分は紅梨主を妹の様に可愛がっていて、恋してたのは璃梨主の方。
しかし、そんな璃梨主への恋は、告白して振られるまでもなく否定された。
桜ノ宮姉妹を同時に避ける様になったが、あくまで璃梨主に顔向け出来ないだけで、紅梨主を嫌いになったわけでは無い。
そして紅梨主は、これまでの過程を知らないままで、自分を好きだと言ってくれた上に、そばに居させて欲しいと言う。
なら、良いんじゃないだろうか。
これ程まで自分を想ってくれてる女の子を、拒絶する必要があるか?
どうせ叶わない恋だと分かった時から、璃梨主への想いは消えている。
誰に禊を捧げるでも無いし、素直に受け入れてしまえば良い。
きっとその方が楽だし、気持ち良いに違いない。
「……紅梨主、俺は──」
“分かった、一緒にいてくれ”
“俺も好きだ、付き合おう”
“ありがとう、嬉しいよ”
そんな様な言葉を、既にだいぶ思考停止しかけた頭のまま環が口にしようとした、その直前。
“──紅梨主っ”
目を背けたい事実が、璃梨主の恍惚とした声や表情を伴って、フラッシュバックした。
「──ッ!」
その途端、こちらを熱い視線と共に見つめてくる紅梨主の顔が、どうしたってあの時に見た璃梨主と重なってしまい。
気持ち悪さと嫌悪が、環の心身を瞬く間に染め尽くした。
「お兄様……?」
「……悪い、紅梨主」
紅梨主の手を振り払い、環はソファから立ち上がり背を向ける。
「色々してもらったのに図々しいのは分かってるけど、帰ってくれ」
「そんな……どうしてですか!?」
「約束しただろ、俺が帰れと言ったら帰るって」
「待って、聞いてお兄様! 私こんな形でお兄様と離れたくない! ずっと好きだったんで──」
「俺は約束守らない紅梨主は嫌いだよ、だから帰ってくれ!」
「──ッ!!」
“嫌い”
その言葉が、千本の矢となって紅梨主の心を刺し貫いた。
嫌われた、嫌われた、嫌われた。
聞き間違いなんかじゃない、言い間違いでもない。
紅梨主は嫌いだと。
幼い頃初めて出会った日から想い続けていた、大好きな人に、ハッキリとそう言われてしまった。
紅梨主の恋は、人生は、運命は、あまりにもアッサリと粉々に、砕け散ったのだ。
「……ぁ、あの、お兄さ……」
自身に背を向けた環の背中に、下がる様に手を伸ばしかけるが、紅梨主は触れる事が出来ない。
絶望と悲しみと喪失感が五感と四肢の自由を奪って、目の前が真っ暗になっていく。
しかし、紅梨主はここで意識を手放すわけにはいかない。
環に帰れと言われたのに、気絶なんてしたら、更に嫌われるから。
もはや自分の恋は叶わないとしても、これより更に嫌われるなんて事、紅梨主には耐えられなかった。
震える足でどうにか立ち上がり、一歩ずつ、玄関に向かう。
一度振り返って環を見るが、その顔を見る事はできない。
「ご、ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「…………」
「作ったご飯、ちゃんと冷凍してくださいね……」
そう言って、見てくれやしないのに精一杯の作り笑顔を浮かべた後。
紅梨主は静かに、枯園家を出て行った。
自分以外誰もいなくなったリビング。
ソファに座り直した環は、天井をぼうっと眺めながら、自分が行った行動を思い返す。
「……やっちまった」
あまりにも唐突とは言えど、告白してくれた女の子相手に、およそ考えうる中で最も最低で最悪な事をした。
「くっ……くくくっ!」
しかしそれを自覚した上で環が真っ先に取った行動は、罪悪感を覚えて自分を責める事では無く、笑う事だった。
過度なストレスに対する、防衛本能か。
客観的に無様な行動をとる自分への、自己嫌悪からくる侮蔑か。
どちらの理由であっても不謹慎な行為には変わらないが、事実はそんな殊勝な物では無かった。
「どうだ……ざまぁ見ろ璃梨主。お前の大事な人が悲しんだぞ」
──こんな結果を生み出したのはお前だよ、璃梨主。
──俺と会う約束をしてたのに、あの日部屋で実の妹相手にオナニーしたからこうなったんだ。
──あんな事してなきゃ、紅梨主が悲しむ事なんて無かったのに。
「ザマァみろ、いい気味だ、はははは!」
自分に最悪な想いをさせた璃梨主の大事な人を、傷つけた。
そんな、歪んだ黒い達成感から来る笑いだった。
きっと璃梨主は、自分が痛めつけられるより苦しむに違いない。
今頃、帰宅した紅梨主を見て酷く悲しみ、嘆くだろう。
しかしこの結果は、璃梨主の軽率な行動が巡り巡って生み出した物。
今日環が紅梨主を拒絶したのも、それで紅梨主が悲しむ事になったのも、全て璃梨主が悪い。
何故ならあの日、璃梨主があんな事をしてなければ、少なくとも環は今だって、何も知らずに桜ノ宮姉妹と過ごしていたのだから。
──そんなわけ無いだろ。
「……あぁ、ああああクソ! クソクソクソクソ!」
笑い顔から急転、ソファ前に設置されていた長テーブルを蹴る。
何度も、何度も何度も、自分のふざけた考えを一蹴する様に。
「何がザマァ見ろだよ……ふざけんな、ふざけんなよ」
自分の中から出てきたあまりにも粗雑で、倫理観と道徳を肥溜めに捨てて来たのかと疑うほどの理屈を全力で否定する。
「正当化すら出来ないなら、最初からすんなバカ……」
家に入れたのが、そもそもの間違いだった。
あのまま冷たく追い返した方が、結局紅梨主を泣かせる事になったとしても、傷は浅かっただろう。
紅梨主に対する中途半端な優しさが、彼女に期待を持たせてしまい、最終的にはどちらにとっても──いや、紅梨主にとって不幸な結末となった。
そもそもの話、璃梨主が紅梨主を愛してる限り、紅梨主とだけ関わりを戻すなんて出来るはずない。
何より、紅梨主の顔を見るだけで、環は璃梨主のことを否が応でも連想してしまう。
紅梨主の声や仕草から璃梨主との違いや共通点を見つけて、そこからどうしたってあの自慰行為を思い出すだろう。
きっと最後はそれに耐えられなくなり、今日の自分がしてしまった以上に酷い言葉と態度で、紅梨主を傷つける未来が待っている。
はっきりと告白して振られてさえいれば、ここまで拗れる事も無かっただろう。
だが一方的とは言え彼女の本心を知ってしまい、告白する機会すら失ってしまった恋心は、環の心の中で消える事も腐る事も出来ないまま、今日まで残り続けてしまった。
叶わない恋を抱えて居たのは、紅梨主だけでは無かったのだ。
環は、璃梨主に。
璃梨主は、紅梨主に。
紅梨主は、環に。
それぞれが、それぞれに対して気持ちを向けているのだ。
誰の恋も報われない、地獄の様な関係性を、環だけが知っている。
「……転校してえ」
素直な気持ちを口に出しながら、環は明日からの学園生活を思って、頭を悩ませるのであった。
桜ノ宮家に戻るまでの記憶を、紅梨主は覚えていなかった。
気がつけば家の湯船に浸かっており、ひたすら水面を見つめていた。
紅梨主の最も安らぐ湯加減と、紅梨主が最も好む入浴剤の入ったお湯は彼女の全身を温めて、促進された血行は無意識のうちに紅梨主の思考を正常化させる。
故に彼女は現実逃避のために閉ざしていた意識を、現実に戻らざるを得なかった。
「……私、嫌われたんだ」
そして、正常化された思考と意識は、まだ1時間も経ってない新鮮な絶望を、紅梨主に思い起こさせる。
「嫌われた、嫌われた、嫌われた……お兄様に、嫌いだって言われた!」
口に出せば出すほど──出したく無くても嘔吐する様に言葉を吐き出して、紅梨主は自分が置かれている状況を認識していく。
「何で……どうして、どうしてなの……お兄様っ!」
両手で顔を覆い、目の前を真っ暗にしても、涙が溢れるのは止められない。
「お兄様……お兄様ぁ……っ!」
紅梨主の啜り泣く声が、痛々しく浴室内に響く。
「──紅梨主……」
紅梨主の静かな慟哭を、璃梨主は浴室の外からただ聞くことしか出来なかった。
もっと速く投稿するつもりが遅くなってしまいました。
あと2話ほどで終わる予定です。