閉め切られた遮光カーテン。
机の上にある一切手がつけられていない食事。
梅雨時よりも重く澱んだ空気。
居るだけで気分が滅入ってしまいそうな部屋、その主人である桜ノ宮紅梨主はベッドの上で体育座りしながら、何も無い場所をじっと見つめ、ぽそぽそと口を動かしている。
「──どうして」
「──何が悪かったの」
今日一日、紅梨主の脳内でずっと同じ言葉が繰り返されている。
幼い頃から想い続けていた最愛の人に、最悪の形で振られた。
それどころか、嫌いだと拒絶すらされた。
この覆せない絶対的な事実は、少女の心に傷を付けるには充分だった。
どうしてこんな事になってしまったのだろう。
強引過ぎただろうか?
言葉選びが悪かっただろうか?
お料理が好みじゃ無かった?
部屋の掃除をせずに帰るべきだった?
色んな理由が思い浮かんでは消え、どうすれば上手くいったのかを考えては答えが出ず、右往左往と迷走した最後に思考が行き着くのはいつも、彼に言われた言葉だけ。
『俺は約束守らない紅梨主は嫌いだよ、だから帰ってくれ!』
「──いやぁっ!」
小さな悲鳴と共に頭を掻きむしり、無意味な現実逃避をする。
思い出したく無い、考えたくも無いのに、どうしてもその言葉が何度も何度も何度も何度も、頭の中で繰り返される。
「うぅ……っ、お兄様……お兄様ぁ……」
昨日から水一つ飲んで無いのに、目からは大粒の涙が溢れる。
死んだ自分の恋心が、溶けて身体から溢れているんだと、紅梨主は考えた。
ならいっそこのまま一滴も残らないほど涙を出し尽くせば、もうこんな辛い気持ちにもならなくて済むのだろうか。
もう──最愛の人の事を考えるだけで苦しまなくて済むのだろうか。
「こんな事なら……会えないままで良かった」
会いたくて、声を聴きたくて、触れ合いたくて、紅梨主は昨日彼の家に向かってしまったが、それが間違いだったのだ。
少なくとも会えないままで居た方が、ハッキリと嫌われる事も無かった。
もちろん結果的にそうだと言えるだけであり、昨日の時点で紅梨主にそんな我慢が出来るわけも無かったが。
もういっそのこと、死んでしまった方が楽になるんじゃないか。
もし今ここで死ねば、自分は嫌われたままでもお兄様の心の中に残り続けるかもしれない。
死んで、もう一度お兄様との出会いからやり直したい。
そうすれば、次はこんな事にならない。絶対にしない。
運命を乗り変える事ができるなら、どんな事だって──。
虚な瞳はゆっくりと、カーテンの先にある窓の方へと向けられる。
紅梨主の部屋は2階だが、窓の下には衝撃をやわらげるような物は何もないはず。
頭から落ちれば、たとえ2階程度の高さだろうと、人は絶命する。
紅梨主の中でふと沸いたその危険な思い付きが、彼女の身体を動かせる程に膨らみ始めた直後。
「──紅梨主、起きてる?」
彼女の姉、璃梨主の声が、ドアの向こうからした。
おぼろげだった意識がすぐさま現実に戻り、紅梨主は今の自分が到底他人に見せることのできない顔をしてる事に気づく。
「あ、あのお姉さま! 今は──」
何かしら理由を付けて入ろうとする姉を止めようとしたが、それは悪手と言う他ない。
もしこの場をやり過ごしたいのなら、紅梨主は寝たふりをするべきだった。
「起きてたのね、入るわよ」
「あのっ!? お姉さま、待ってください!」
このように、璃梨主は強引にドアを開けてしまうのだから。
普段はベッド横にあるサイドテーブルに置かれたリモコンで部屋の照明を操作しているが、ドアのすぐ横にもスイッチがあるため、璃梨主がその気ならすぐに自分の泣き腫れた顔が見られてしまう。
慌てて布団を頭まで被る紅梨主だったが、そんな妹心を分かり切ってる姉は、小さく肩をすくめながら安心させる様に柔らかい声色で、暗闇の中へ語り掛けた。
「大丈夫よ紅梨主。顔は見ないから」
「──え?」
思いもしなかった言葉に、紅梨主は布団を少し下げて、廊下から差し込む光で僅かに見える姉の顔を見た。
愛する妹からの視線を感じつつ、璃梨主は言葉を続ける。
「昨日からずっと部屋に籠ってるんでしょう? アタシだって、そういう時は誰にも顔を見せたくないもの」
当然、そんなものは建前だ。
今日のお昼に環とした会話から事態を把握している璃梨主は、紅梨主が今日一日ずっと泣いていた事くらい、容易に想像できた。
「お姉さま……」
「ご飯はちゃんと食べた? 体調が良くない時こそしっかり栄養取らなきゃいけないんだから」
「あ……はい、あとでちゃんと食べますね」
いつも通りの優しい言葉に、紅梨主の張り詰めた緊張の糸が僅かに緩む。
その弛緩し始めた空気を察した璃梨主は、紅梨主のベッドに腰かけて、約束通り顔は見ないように視線は天井に向けたまま──、
「……今日、アイツと話してきたわよ」
「……え?」
超弩級の爆弾となり得る言葉を口にした。
「あ、あの……お姉様、それって」
「環に会ってきたの。ここ暫くずっと、アタシ達のこと避けてたアイツに」
「どうして、ですか……?」
紅梨主の声は平静を精一杯装っているものの、動揺をまるで隠しきれてはいない。
きっと、今から自分が話す内容は紅梨主を今以上に苦しめて、悲しませる事になるだろう。
いや、もしかしたら最終的には自分自身も──そう思いつつ、璃梨主は言葉を続ける。
「【どうして】なんて、理由は決まってるじゃない? あなたがそんな風に塞ぎ込む時の理由なんて、アイツが関わってる時くらいだからよ」
「なんで──私、お姉様に何にも話してないのに……っ!」
「話してなくたって、それくらい分かるわよ。中学生の頃、アイツがクラスの女子と付き合ってるって噂が出た時も、今日みたいに休んだの忘れた?」
「…………そう、でしたね。そんな時も、ありました」
「もっとも、あの時は単なるデマカセだったけどね」
「はい。……でも、私のやってる事はその時と何も変わりません。いつまで経っても子どものままで……」
在りし日の自分を思い出して、紅梨主は自分の思いを隠す気が失せた。
「こんなだから私、お兄様に嫌われたんですね」
「紅梨主っ、それは」
「お姉様は、お兄様と何を話したんですか?」
「……あなたに何か、酷い事したんじゃないか聞いたわ」
「それで、お兄様はなんて?」
「告白されたから、断っただけだって」
「……それだけですか?」
「……いいえ。あと──」
ここから先の言葉を口にするのに、璃梨主は一瞬だけ躊躇いを覚えた。
「もう私たちとは会わないし、関係も持たないって」
「──っ!」
「最後は、あなたに『酷い言葉を言ってごめん』……そう言ったわ」
「…………」
長い、沈黙のあと。
「そう……ですか……」
紅梨主は、まるで死体がそう話してると錯覚する様な、何ら生気の感じない声で呟いたあと。
「──なんで、そんな余計な事するんですか!?」
普段耳にすることのない、怒りのこもった声を璃梨主に向けた。
「お兄様は私たちに会いたがらなかったのに、そうやって無理やり会話しようとしたら、嫌われるに決まってるじゃないですか!」
「く、紅梨主……落ち着いて」
何かしら、妹の感情が揺れ動くことは分かっていた。
しかし、こうして明確な怒りを自分へと向けてくるとは、さしもの璃梨主も予想しては──否、しようとしなかった。
「時間が経てば、もしかしたら──ほんの少しの、僅かな可能性だとしたって、お兄様が赦してくれるかもしれなかったのに……お姉様のせいでそれすら無くなった!」
話せば話すほど、紅梨主の激情は熱を帯びていく。
先ほどまでは泣き腫らした顔を見られたく無かったのに、衝動は紅梨主を突き動かす。
「紅梨主、何を──!?」
勢いよくベッドの上に立ち上がったかと思った次の瞬間、紅梨主は飛び掛かるように璃梨主に詰め寄って、その体を押し倒した。
床には分厚くて柔らかいカーペットが敷かれていたが、人ひとり分の重みが掛かった状態では勢いも馬鹿にはならない。
受け身をとる暇もなく倒れた璃梨主は、後頭部を打ち付けてしまう。
しかし、自身を襲う鈍い痛みに苦悶の声を漏らす
それは紛れもなく、自分に覆いかぶさぶる紅梨主の、愛おしい瞳から伝う涙に他ならなかった。
「もう会えないんですよ!? もう二度と、お兄様の笑顔を見る事も、声を聴く事も、触れる事も──一生、出来ないんですよ……っ!」
「紅梨主……」
「全部、お姉様のせいで──ずっと好きだったのにぃ!!!」
悲痛──そんな安易な表現では到底形容不可能な感情を、璃梨主は真正面から受け止める。
そして、同時に心の底から思い知る事になった。
妹が、自分の愛する人が、枯園環に抱いている愛情の深さと大きさが、どれ程の物なのかを。
だからこそ、璃梨主は認めざるを得ない。
どれだけ受け入れたくない事実だとしても、自分が生まれた時から紅梨主に抱いている愛は、全くもって紅梨主の心に付け入るスキがないのだと。
『俺はお前が好きだった。お前は紅梨主が好きで、紅梨主は俺なんかを好きだった。全員叶いっこない恋をしてたけど、それも全部お終いだ』
環の言葉が、呪詛のように璃梨主の脳裏を駆ける。
まさしく、その通りであった。
もはやこの状況に陥った時点で、3人の恋はいずれも、破局する運命だったのだ。
そして、その引き金を引いたのは紛れもなく、自分自身。
あの日、ふとした拍子に魔が差して、軽率な行為を取ってしまった自分のせいで、紅梨主の恋は理不尽に砕かれた。
「……ごめんなさい、紅梨主」
璃梨主の頬に手を差し伸べて、その涙を拭いつつ、璃梨主は贖罪の言葉を妹に告げる。
「ごめんなさい、私のせいで、あなたをここまで苦しめてしまった……本当にごめんなさい」
その声は涙ぐんでいるが、璃梨主の瞳は対照的に全く濡れていない。
自分には涙を零す資格すらないのだと、心身が理解しているからだ。
だが、その言葉に込められた謝意は紛れもなく誠実であり、荒む紅梨主の心にもまっすぐ届いた。
今まで聴いた事もない姉の謝罪と、頬に添えられた手から伝わる愛情。それらは複雑に絡まった彼女の心と理性を、瞬く間に解きほぐしていく。
「──お姉さま……わ、私──お姉様に何を」
慌てて覆いかぶさる体勢から起き上がり、後ろに尻もちをついた。
自分が何をしたのか、何を言ったのか、冷静になった脳みそが理解して、紅梨主をさっきまでと異なる混乱状態に陥れる。
「違う、違うんです私、こんな事をお姉様に言いたかったんじゃなくて──」
取り返しのつかないことを口にしてしまった。
しかし、それは紛れもなく本心から出てしまった言葉でもあり、紅梨主には取り繕う事が不可能な物ばかり。
なんで、私はまた、お兄様の時と同じ事を──。
想い人だけじゃなく、大切な家族すら失う事を、自分はしてしまったのだと、絶望しそうな紅梨主。
そんな彼女を璃梨主が放置するわけもない。
「大丈夫──大丈夫よ紅梨主。大丈夫だからね」
ゆっくりと体を起こして、今にも自分の首を絞めかねない紅梨主を、優しく抱きしめた。
幼いころ、両親が不在で寂しがっていた紅梨主にした様に、背中と髪を撫でる。
「あなたは何も悪くなんて無い。だから自分を責めないで」
「で、でも私──お兄様にも、お姉様にも」
「あなたは間違ったことなんて一つもしてないの。本当に悪いのはアタシだから。──ごめんね、その苦しみはアタシだけが受けるべき物なのに、ごめんね……」
込められた想いは、噓偽りのない心からの言葉。
たとえその言葉の真意が、紅梨主に明かされる事はないとしても。
「お姉様、お姉さまぁ! ごめんなさい、ごめんなさい……でも私、どうしても苦しいんです、胸が張り裂けそうになるんです!」
璃梨主の背中に腕を回して、璃梨主の胸に顔を埋め、紅梨主はようやっと素直に自身の絶望を打ち明けた。
「お兄様に会えないなんて嫌なんです……自分勝手でごめんなさい、でも、このままお兄様と会えないままの人生なんて、死んでるのと同じなのっ……!」
「──うんっ。そうだよね、嫌だよね……ごめんね紅梨主、本当に、ごめんね」
抱きしめあい、互いに謝罪の言葉を交わす二人。
しかし、その言葉の意味は、悲しいほどにすれ違ったまま。
──翌日の放課後。
「──つまり、セフレが欲しいんだなぁ、僕ぁ」
『ちょっと待てぃ!!』
幾つかある溜まり場の一つである街の公園の一角で、男子高校生2名の痛烈なツッコミが響き渡る。
そのうちの一人、メンバーの中では普段ツッコミを受ける事の多い沓掛涼多は、こめかみから普段絶対流さない質の汗を垂らして、同じく普段絶対やらない表情で、環に問いかける。
「え、お前は何を言ってるの? 今日は真剣な悩みがあるって前振りしてからの開口一番がそれって、何?」
もう一人のツッコミ役である喜屋武秋人もまた、漫画の登場人物がする怪訝そうな顔になりつつ、環の爆弾発言を静かに聴いていた踏鞴庭琢磨に言った。
「ボクも
「俺は、昨日のうちにコイツが乱心してるのを知ってるからな」
「あー昨日からなんだ。なにおき?」
「そうだ、お前が急にそんな事言い出すとか、薬物で頭がパリらってるか、【きのこ●山】を食べたくらいしか理由が思いつかないぞ」
この場の全員が【パイの●】派だからこそ許される発言は、しかし環には大して響かずに、あくび交じりの回答が返されるだけだった。
「もう手っ取り早くヤりたいんだよ。恋愛を経てとか怠いし、責任とか恋とか面倒じゃん」
「え、こわ……君誰ぇ、ボクの友人で常識人枠だった
冗談にもならない言葉を、冗談とは思えない声色で話す環を見て、いよいよ一連の発言が本気なのだと理解する二人。
踏鞴庭はそんな二人を見て、次に相変わらず死んだような眼をしたままの環に視線を移した後、短くも重い溜息を吐いた。
「…………枯園、流石に事の経緯くらいは話したらどうだ。このままでは幾ら何でも二人がついていけない」
「ん。あー、そっか。じゃあサクッと説明するけど」
「到底サクッとで収まる事情とは思えないんだが」
「璃梨主相手に失恋した」
「なるほど」
「え、リョーはそれでわかんの?」
環の説明に不安を抱いていた沓掛だったが、秒で納得した。
失恋を何度も重ねて──何なら毎週更新している沓掛は、恋を止めざる得ない時に働く心の乱れ模様を、熟知しているからだ。
反対に、沓掛ほどの経験を持たない喜屋武は、変わらず理解とは程遠い状況に居る。
「意味わかんないよ、マッキーが桜ノ宮の姉の方が好きだったってのは何となく分かってたけどさ、そこから急にどうしてセフレ募集マンに転生しちゃうのさ」
ワードセンスとボキャブラリーには難があるが、喜屋武のいう事は至極当然だ。
普通、幾ら失恋したからと言って、世の男子高校生は安易にセフレを求め始めたりなどしない。
ましてや、環という人間を小学生時代から知る喜屋武や沓掛は、彼がそういう人間ではない事をよく知っている。
ならば、考えられるのは環が何かを隠している可能性だ。
失恋したのは嘘ではないにしても、それが普通の失恋では無く、彼の精神に多大なエラーを引き起こすほどの、尋常ではない何かがあったに違い無いのだ。
言葉を交わさずとも、沓掛と喜屋武はどちらも同じ考えまで至り、互いに顔を合わせる。
「環、もう少し詳しく話せよ。話せる範囲で良いから」
「……お前らが想像する“最悪な人間関係な終わり方”があるとして、更に幾つかパターンがあるとして、それら全部を全部やらかした」
「……ワーオ」
全く詳細に触れてないものの、環の言いたい事はイメージ出来た喜屋武は、引き攣った笑みを浮かべた。
「だから、もう桜ノ宮姉妹諸共全部忘れたいんだよ。なまじ十数年間も付き合いがあるから、さっさと別の何かで上書きしたい」
「だからセフレって発想も大概極端な気するケド……タクも知ってるのはそこまでな感じ?」
喜屋武からの問いに、重苦しく首肯する踏鞴庭。
「俺も早計だと言ったが、枯園の決意は硬いらしい」
「……まあ、
困惑するばかりの喜屋武、呆れてものも言えない踏鞴庭。
場を動かせるのは珍しく自分しか居ないと判断した沓掛が、気を取り直すように咳払いをしつつ、話を進める。
「実際問題、高校生がマッチングアプリなんて使えるのか?」
現実的──と称するにはいささか下賤な題目ではあるが、実際に環が必要としてる物について話題を深掘りする上で、避けて通らない内容でもある。
そして、その答えは簡単に提示された。
「んや、無理でしょ。あーいうのって全部大学生以上か対象だし。年齢確認とかも必要だから」
右手ををヒラヒラさせながら、喜屋武がすぐに答える。
「中には年齢制限要らないのもあるけど、そういうの、ぜーんぶサクラばっかだし」
「詳しいな秋人、さてはお前……?」
具体的な説明もそつなくこなす喜屋武に、沓掛が疑いの目を向けると、笑いながら返した。
「勘弁してよ、ボクじゃなくて兄貴がやってんだ」
「──つまりだ、枯園。お前が以下に上書きをしたくても、マッチングアプリなんて物は使えないんだ。諦めて」
「いんや、実はそうでも無さげだったり……?」
踏鞴庭が話をまとめて環を宥めようとした矢先、喜屋武は控えめにしつつも、聞き捨てならない事を呟いた。
当然、環が聞き逃すわけもない。
「シュウ、それ詳しく」
「おい枯園! 喜屋武、お前もだな──」
「タタラ黙って。ほれ、話の続き」
踏鞴庭を制して続きを促す環に、内心“余計なこと言っちゃった”と猛省しつつ、喜屋武は自身のスマートフォンを取り出し、数秒ほど操作してから画面を見せる。
「これ、ウチの学校のコンピ研がコッソリ作った裏アプリでさ」
喜屋武のスマホには、アイコンもアプリ名も記載されてない、ダウンロードページが表示されている。
「まさに今のマッキーみたく、学生同士でマッチしたい人が出会える様になってるんだって」
「マジか!?」
「オイオイ……それ、どう考えてもダメな代物だろう」
まさかの展開に驚く環と、ドン引きする踏鞴庭。
大きいリアクションを取った2人に、喜屋武は静かにしろとジェスチャーして、辺りを確認したあと、話を続けた。
「当然、バレたら退学レベルの代物だけど、裏サイト経由で今この辺りの学校で流行ってるんだよね……あっ、もちろんボクはノータッチだよ? 普通に怖いし」
「バレて困るものを人に薦めるな、馬鹿。枯園、分かってると思うがこれには絶対手を出しちゃ──」
「金は掛かるのか?」
「──おい、枯園!」
話が悪い方向に流れていくのを、踏鞴庭は如実に感じた。
これ以上はマズい──いや、既にもう充分アウトだと判断した踏鞴庭だったが、その判断すら遅過ぎた。
「シュウ、そのページのURL送ってくれん? QRでも良いよ」
「本気で言ってるのか、退学になるかもしれないんだぞ!?」
「そ、そうだよマッキー。教えといて何だけど、やっぱ辞めた方が良いって、マッキーがバレなくても誰かがやらかしたら、芋蔓式に見つかるって可能性もあるし」
「別に良いよ、一回それでヤレたらもう使わないし」
「そういう問題じゃ──沓掛、お前からも言ってくれ」
今まさに道を踏み外そうとしてる親友を止めたい2人と違い、何故か静観していた沓掛は、首を横に振りながらむしろ2人の方を宥めるように言った。
「無駄だろ、人間こういう風に頑と聞かない時は、何言っても無駄なんだ」
「そうそう、涼多もああ言ってるんだし、分かってくれよ」
「……見下げ果てたぞ、枯園。もう知らん、勝手にしろ!」
「あ、タク!?」
馬鹿らしさと呆れ具合がメーターを振り切った結果、踏鞴庭はそう吐き捨てて足早に公園を去って行った。
「ほら、シュウ。URLくれよ」
「ええ、ほっといて良いの? 珍しく本気で怒ってたよタク」
「良いよ別に。どうせすぐに落ち着くだろうし」
「え〜……」
いよいよ、自分が余計な事をしでかした事に冷や汗を流した喜屋武だが、もちろん今から無かった事に出来るわけも無く。
結局、押し切られる様にアプリのダウンロードページを教えてしまうのだった。
「……はぁ」
呆れと怒りから立ち去ってしまった踏鞴庭だが、10分もしない内にその心には焦りが生じていた。
まさか本当に脱法アプリがあるとは思わなかったし、喜屋武がそれを手に入れる手段を知っていた事も予想だにしていなかった。
何より、犯罪にあたるかは分からないが、確実に退学のリスクがあるにも関わらず、何の躊躇いもなく手を出そうとする環に驚いた。
そのため、つい感情的な態度をとってしまったものの、そんな事をして考えを改める相手ではない事は熟知している。
今からでも戻って引き止める事も考えたが、今の荒んだ環には無駄骨な気しかしない。
「一時の感情で判断したら碌なことにならない……のは俺もアイツも同じか。本当にどうしたものか」
歩き続けても仕方ないので、近くの自販機でコーヒーを買って飲みながら、頭を落ち着かせる。
喜屋武は往来の話したがりな性格からつい紹介してしまったが、基本的には踏鞴庭と同じく反対派の立場だ。
沓掛が環を止めようとしなかったのは意外だが、喜屋武がアプリの説明をしてる時に食いついてこなかった辺りを見るに、恐らく好意的には見ていない。
後日、自分だけではなく他の2人にも協力してもらい説得すれば、親友が馬鹿をやらかす可能性を消せるかもしれない。
その間にアプリを使い始めている可能性は充分にあるが、そこは長年連んできた友人の倫理観と良心を信じるのみだ。
つまり、多少楽観的なのは認めるものの、アプリに関してはそれほど悩む問題でも無い。
なら、より大きなインシデントは何か。
決まっている、そもそも環があそこまで腐ってしまった桜ノ宮姉妹との軋轢だ。
環はあくまでも詳らかに語ろうとはしないが、彼が単純な失恋をしただけで収まらないのは、確定している。
その軋轢から生まれた心のストレスを消さない限り、今回のアプリ使用を食い止めたとて、今度は別のよく無い手段に環は走るだろう。
環と桜ノ宮姉妹の関係修復。
これこそが、今の環を正気に戻す唯一の手段。
たとえ何が起きたのか分からないままとしても、完全に冷え切った両者を再度結びつけるには、第三者の介入が必須だ。
となればそれはやはり、環の友人である自分達が担う他ない。
「…………ないんだろう。他に事情を知る奴も居ない」
微糖のコーヒーを飲んでるのに、口の中が異様に苦い。
正直な話、いくら親友相手とは言え、踏鞴庭も神や仏ではなくただの人間。
何でそこまで考えて気を揉まなきゃならないのかと思う自分もいるが、これはもはや理屈では無い。
あいにく、環と積み重ねてきた思い出と何より友情が、そうすべきと心を動かしている。
であれば、今はまだその衝動に逆らうつもりも無い。
全部解決したあと、将来笑いのネタにすれば良いだけだ。
「問題は、結局何をすれば良いの……ん?」
具体的な解決策を模索しようとした矢先、踏鞴庭のスマートフォンが微振動と共に着信を告げる。
もしかしたら、環の方から連絡を寄こしたのか? そんな事を考えつつ画面を見ると、表示されたのは見知らぬ電話番号。
市外局番やフリーダイヤルではなく、個人の携帯から来ている。
かと言って、見知らぬ人物からの着信には無条件で警戒するものだ。
その例に漏れず、踏鞴庭も電話に出るのを一瞬だけ躊躇する。
しかし同時に、このタイミングで掛かってくる電話という状況そのものに、踏鞴庭は運命を感じた。
不審に思って切るのは簡単だ。しかし、この電話を切れば最後、取り返しのつかない結果になる──無根拠な想像は、彼の中の躊躇いをものの数秒で払拭させる。
「──はい、もしもし?」
そう言葉にして、相手の声を聞き取った直後。
踏鞴庭は表情を瞬く間に怪訝な物へと変えた。
「──なんで、君が俺の電話番号を……いや、知る手段はあったか。それで、アイツじゃなく俺に電話したのは、どんな了見だ」
本来ありえない相手からの電話に対する戸惑いはものの数秒で鳴りを潜め、納得しながら相手の要件を聞く。
「……それが嘘でなければ、あまりにも渡りに船と言いたい所だが──いや、信じよう。俺からも伝えたいことがあるからな」
疑いの目は仄かに期待の眼差しに変貌し、踏鞴庭は相手の指定する合流場所へと、歩み始めた。
今更だけど、男子四人組の、互いの呼び方表記です
・枯園環
踏鞴庭→タタラ
沓掛→涼多
喜屋武→シュウ
・踏鞴庭琢磨
枯園→枯園
沓掛→沓掛
喜屋武→喜屋武
・沓掛涼多
枯園→環
踏鞴庭→踏鞴庭
喜屋武→秋人
・喜屋武秋人
枯園→マッキー
踏鞴庭→タク
沓掛→リョー