踏鞴庭が帰ってから最初の1時間は、うっとおしい説教役がようやく諦めたと清々したくらいだった。
自分から紹介しといてやたらと渋る喜屋武からもアプリをダウンロードして、さぁこれからが自分の時代だと意気揚々に帰宅した。
相変わらず誰も居ない家の冷蔵庫から、先日紅梨主が作り置きしてくれたご飯の残りを電子レンジに放り込み、3分間の温め設定をしてから、食卓の椅子に腰掛ける。
「さて、と……早速アカウント登録しないと」
アプリを起動して、簡素なチュートリアルに従いアカウント設定を進めていく。
「名前は本名かニックネームを選べる……って、普通こういうのニックネーム統一じゃねえの?」
「サムネイルは……素顔はなんか嫌だし、この前撮った電柱にするか」
「SNS連携? ポツッターにイングラ、LANEも? おいおい、こんなの身バレの元にしかならねえじゃん」
「学校が何処かも入力しなきゃダメなのか? ……あぁいや、これについてはなりすまし防止に必要かも」
ポツポツと呟きながら、なれない操作に苦戦しつつも、環は電子レンジのタイマーが切れるより早く、アカウント登録を完了させた。
「あちちっ、素手はやっぱダメだよな」
熱を持った食器を落とさぬ様に食卓の上に運び、炊飯器から白米をよそって並べる。
「ようし、いただきます……」
自分しか居ない食事で言う必要があるのかと自問しつつ、スマートフォン片手にご飯を食べ始めた。
アカウント登録が完了すると、環がいる地域のマップが映し出された。
そこには、環達の通っている学園はもちろんのこと、喜屋武のいる高校も含めた、複数の高校が表示されている。
試しに自分の学園をタッチしてみた所、環を含めた登録者の一覧が、サムネイルと共に出てきた。
「うわ、結構いるな!? うちの学園生徒数多いけど、こんなに広まってたんだ……やばぁ」
1学級分は余裕で埋まるほどの登録者数に、環は普段自分たちが歌謡学舎の闇を見た感覚を覚える。
もっとも、今は自身もその“闇”に含まれているのだが。
「女子もしっかり居るじゃん……え! コイツ知ってる奴だ、普通に本名で登録してるし……こわぁ、ネットリテラシー無さすぎだろ」
特別交流のあるわけではない、しかしうっすらと知ってる生徒がチラホラ出てきて、だんだん環は他人の見てはいけない秘密を覗き見してるような気分になってきた。
「スゲーなぁ。みんなそんなに出会いほしいのかよ、はははっ……」
自分も同じ穴の狢になろうとしているのは承知の上で、どうしたって笑いがこみあがってくるのを我慢できなくなって、くつくつと喉を転がす。
しかし……というよりも、だからこそだろう。
自分がこの不特定多数の愚かな集団の仲間入りしようとしている事実に、どうしようもないみっともなさを感じてしまった。
桜ノ宮姉妹との関係が完璧に断絶した今、彼女らの名残や思い出を払拭したいがために、非合法なアプリにも手を出そうとしているのに。
踏鞴庭との関係を悪くしてまで手に入れた物が、あまりにもしょうもない、くだらない物にしか感じられなくなった事に、環は苦笑すら浮かべる余裕が無い。
だけども、いったいどうしろと。
踏鞴庭に謝って、紅梨主に謝って、璃梨主に謝って……それで解決する話か?
そんなワケが無い、そもそも謝ると言っても何を謝れと言うのか。
きっと明日になれば、このセンチメンタルな気分もすぐに消えてなくなる。
そうなれば全部いつも通り。多少のぎこちなさが残り、桜ノ宮姉妹との縁が無くなったままでも、きっと問題なんか無い。
──そう自分を納得させた翌日。
環は、一日踏鞴庭と会話する事無く──それどころか沓掛や喜屋武とも一切会話せず、一日を終えた。
当然、彼ら以外にも友人はいるので一人ぼっちではない。
時には彼らと全く会話できずに終わる一日も、別に初めてでもない。
学校が異なる喜屋武とは、特に会えなくてもおかしくないだろう。
しかし、今回については明らかに環が踏鞴庭との会話に臆していたし、踏鞴庭や他の二人も、環を避けているように感じた。
全ての原因、とまでは言わないものの。
これは明らかに自分が発端となっていると、認めざるを得なかった。
紅梨主や璃梨主との関係はおろか、環は今、同性の友人達との関係すら、無くなりかけている。
こんなつもりでは無かったと思っても、なってしまった現状を恨んだら嘆く相手の顔が自分以外思い浮かばない。
人間関係を壊すプロ。
以前、自らを自嘲気味にそう語った環は、その自己評価に実感を覚えていた。
結局、アプリを入れても使わないまま、そのくせ親友らとも会話が無くなって3日が過ぎた日の放課後。
部活動に入ってないし、家に帰っても退屈な環がフラフラと足を運んだのは、学園の屋上だった。
基本的には施錠されている場所だが、お昼休みと放課後の部活時間中ぁけ、解放されている。
落下防止に建てられたフェンス越しに見える校庭と、運動部員の掛け声を聴きながら、環はアスファルトの床に座り込んだ。
「何してんだろ、我ながら」
同級生や後輩達が青春を謳歌している真っ只中で、自分はポツンと一人、勝手に項垂れている。
部活動に入ってたら、こんな時間を過ごす事も無かったに違いない。
今までは別に良かった、放課後は璃梨主の使いっ走り──もとい、お手伝いをしたり、紅梨主が部活で作った料理を試食させてもらったり、それ以外は男子組で遊んだりと、時間は勝手に消えていったのだから。
しかし、今の環にはそういった時間はまるでない。
それならアプリで相手でも見つけて、その子と時間を潰せば良いのに、そう言うことも無い。
中途半端にやさぐれて、結局何も出来ないでいる。
自分がこんなにも他人ありきで動いてきた人間だとは、自覚できていなかった。
「なんか……前にもこんな事あったっけか」
思い出すのは、高校生になったばかりの頃。
環は自分が他の同級生よりも少しだけ特別な趣味を持つ人間だと自負していた。
実際はよくいる文学作品好きの男の子でしか無かったが、その事実は彼の優越感にヒビを入れて、更には多大なストレスにすらなった。
その結果、彼はそれまで図書館で知り合っていた知人や、読書仲間との縁を一方的に断ち切り、教科書と漫画と、たまに流れてくるエロ本以外の書物は一切読まなくなった。
この時はまだ、桜ノ宮姉妹と親友達が居たので気づかなかったが、環は何か不快になるものや、心理的ストレスに繋がるものに当たると、極端に思考停止して、逃避する性格らしい。
璃梨主を避けたのも。
紅梨主を拒絶したのも。
踏鞴庭達と会わずにいるのも。
全て、彼にとってそれらがストレスになってしまったから。
環はあらゆる理屈と理由をもって、それらと向き合う事を辞めていた。
そのくせ、彼の人生に深く関わり過ぎた彼女(彼)らとの繋がりが消えた結果生まれた心の空洞に、現在進行形で苛まれている。
なんなら、アプリすら既にストレスの元になっているのだから救えない。
「あー、アホ臭えな俺、ホント何してんだよ!」
誰にも聞こえないのを良いことに、そこそこの声量で頭を掻きむしる。
すると、誰も聞いてないはずの空間から、予期せぬ返事が聞こえた。
「おっほ、自暴自棄になってる男を発見!」
「──っ!?」
視線をアスファルトの床から、声のした方──ちょうど屋上の入り口に向けると、沓掛がニタニタと笑いつつこちらに歩み寄っていた。
「ようようようよう、夕焼けに黄昏れますかー?」
「……うざっ」
盛大に煽ってくる沓掛だが、環も今まで煽ってた手前、文句は言えない。
そして悔しいことに、向こうから声をかけて来たことが、悔しいけど嬉しいと思ってしまう。
「……何しにきたんだよ、笑いに来たのか?」
「まさか? そんな暇じゃねえのよ、ワタシも」
一人称まで得意げに変えながら、沓掛は環の隣に立ち、そのまま校庭の方へと視線を向ける。
「こうやって屋上から下を見るとな、可愛い子が頑張ってる姿を拝めんのよ。体操着の美女をタダで拝めるなんて、受験頑張った甲斐あるよなあ。それに彼女にしたい子を見つける事も出来るし」
「お前……自分が最低な事言ってる自覚ある?」
「良いじゃねえか、見るだけだし。それにお前だって出会い系アプリなんぞ使ってるじゃねえの」
「…………っ」
それを言われてしまうと、環には何も返す言葉が出てこなくなる。
一方、ただの一言で環を言い負かした沓掛は、彼の顔をチラ見してから笑いつつ言った。
「まーあ? 屋上で項垂れてるぐらいだし、アプリ使ってねぇのは一目瞭然だけどな。どうせ日和ってるんだろ?」
「……うっせぇな。慎重なだけだよ」
「素直に辞めとけって。そんなもん使って出会った奴に碌なの居やしねえよ」
「……」
口調は軽いが、気持ちがこもった言葉だった。
アプリの使用を止めるどころか、アプリの使用者そのものを否定する様な事を言うとは思わなかった環は、思わず沓掛に問いかける。
「意外だな、普段から手当たり次第に女子に告ってるお前こそ、こういうの欲しがりそうなのに」
「ふっ……親友に対する解像度が荒いですな、枯園クン」
環の疑問を鼻で笑い、沓掛は気取った態度で語る。
普通にイラっとした環だが、何か言い返そうとする暇も無く沓掛の言葉は続く。
「確かに俺は巷では“愛多き男”と呼ばれるくらいには、女の子に告白している」
「そんな呼び方、誰もしてない……」
「しかし、俺は今まで過去に一回でも、“ヤリ目”の告白なんかしていないんだぜ」
「前に『先に童貞卒業させてもらう』って息巻いてた……」
「確かに俺も健全男子高校生、卒業するより先に“卒業”はしたい。だがな! 闇雲にするんじゃなく、相手と愛を交わし、育んだ先に待つSEXをしたい!」
夕日を見つめて握りこぶしをしつつ力説する姿に、環は不可解にも気圧され始める。
「俺の親父が酔った時に必ず言う言葉がある。『心を通わせた者同士が体を交わせた時、それは愛の無い者同士がするより1千光年倍気持ちいい』!」
「いや、光年は距離……」
「ある人は言った、愛とは性欲を文学的に表現した物に過ぎない。またある人は粘膜が生み出した錯覚だと。確かに人は愛が無くてもSEXできるし、子供だって産む。だがな、それじゃあ人は獣と変わらないだろ? 人は“文学的な錯覚”がある方が気持ちいいから、愛を経てヤるんだ。ヤッてる時に愛を囁き合うんだ」
愛のあるSEXの前後には、多大な幸福感すらあるんだぜ! 演説でもしてるのかという勢いは全く衰える気配を見せず、興がノリに乗った沓掛の言葉はなおも続く。
「学生時代にSEXをしたことのない奴は性格が歪むというが、確かにその通りだと思う。だが正確には『他人と愛を交わす経験』が無い奴が歪むんだ、SEXは結果でしかない」
「あの、そろそろSEX連呼するの辞めて欲しいんだが……普通に恥ずかしい」
「だから愛の無いSEXをした奴は、そこから先に進めない。愛を育む過程を経ずに、結果だけ手に入れたのと同じだからな。俺が数学の問題で答えだけ見るから、一向に成績が上がらないのと同じだ。SEXの先に行くには、自分の恋を相手と一緒に愛にする過程が居るんだぞ」
「……」
もはや沓掛の耳に、環の声は届いていないらしい。
少なくとも、これだけ熱く語る男がモテない理由の一つに『自分語りばかりで相手の話を聞かないから』があるだろう。
それでも、環はいつの間にか沓掛の話に茶々を入れる気が無くなっていた。
彼が何を自分に伝えたいのか、最後まで聞いてみようという気になったのだ。
「そのくらい愛ってのは大事だし、唯一無二だし、全ての人が持ってる。お前が桜ノ宮璃梨主に対して持っていたようにな」
「っ、急に璃梨主の話に繋げてくるなよ」
「はっは、お前と桜ノ宮姉妹の縁は俺達より長いんだろ? 幼い頃から好きだったんなら、それはもう立派な愛だったさ」
「……だとしても、今はもう」
「そう、愛は無くなった。お前はその失った愛によって生じた心の損失が大きかったんだろうな。ここ数週間のお前の不安定さがそれを如実に表してる」
どうやら、環は本当に沓掛に対する所謂“解像度”が低かったらしい。
沓掛涼多という男が、これだけ(方向性はともかく)確固とした価値観を持ち、周りの人間を観察している人間だと、環は知らなかった。
きっと喜屋武はもちろんのこと、恐らくは踏鞴庭だって、知らないだろう。
「愛ってのはそれだけ与える影響が大きい。だからこそ、丁寧に扱わなきゃダメなんだ。でもな、知ってるか環」
「いや、もう何も分からん……」
「なら覚えとけ、愛ってのは、それ自体は幾らでも新しく生まれるものなんだ」
「……は? 唯一無二とか大事とか言ってるのに?」
急に愛に対する捉え方をくるっと変えてきた沓掛に、思わず環は言った。
だが彼の中でその反応は織り込み済みだったらしく、沓掛は問題なく答える。
「もちろん唯一無二だ。だがそれは“愛する相手”にだけ。お前は桜ノ宮璃梨主が好きだった時、それ以外の全部に対して無関心だったか?」
「……いや」
「そうだろ? 愛は自分の中で幾らでも生まれる。その対象が人であれ物であれ抽象的な概念であれな。でも例えば、彼女と彼女が自分のために作ってくれた料理、どちらにも愛を抱くが、決して同一では無いだろ?」
「そう……かな。まぁ、うん」
「唯一無二だが幾らでも生まれるってのは、そういう事だ」
「……話がこんがらがってきた。つまりお前は俺に何を言いたいんだよ」
「“捉われるな”って事だよ。桜ノ宮璃梨主に抱いてた愛に」
その言葉は、ここまで延々と彼の口から出てきた言葉の中で一際強く、信念の込められたモノだった。
「お前がどれだけ桜ノ宮璃梨主を愛していたのか、俺には計り知れん。でもな、失った愛を取り戻すでも無く、捨てきるでも無く、宙ぶらりんに彷徨うのは、間違ってる」
「悪かったな……未練がましいって言いたいのかよ」
「そういう言い方も出来るな。否定しないよ。だがそれ以上だ。お前の中にある桜ノ宮璃梨主以外のモノに持っている愛、そして周りの人間がお前に向けている愛、それらを雑に扱うな」
“雑に扱うな”。今日沓掛に言われた言葉の中で、それが最も深く環の心に刺さった。
「桜ノ宮璃梨主に持ってた愛は消えたが、お前はこの世の女性の中でただの一人しか愛せない、器の小さな男じゃないだろ?」
「器って……」
「それに、お前を好きでいてくれる桜ノ宮の妹さんの愛を、雑にして良いワケが無い」
「なっ──、ちょ、はぁ!? お前なんで紅梨主の事も」
「知ってるに決まってんだろォ!? お前の事を“桜ノ宮美人姉妹と唯一仲のいい男子”だと恨で──羨んでる男がこの学園にどれだけ居るか分かってんのか!?」
「いや分かんねぇよ!? っていうか今恨んでるって言ったな!?」
「あぁ恨んでるよ! なんなら俺がその筆頭だわボケ!」
先ほどまでの雄弁な語り口がウソのように、目を真ん丸に開いて口から泡を出す勢いで、沓掛は怒鳴り散らす。
なんて奴だ──と言いたい所だったが、直前までの話の内容が重かった事もあって、強く言い返す気にはなれない。
「ゴホンッ、話が逸れたな──つまり、俺が言いたいのは、きちんと妹さんに向き合えって事だよ。愛のネェ出会い系アプリなんか辞めて、お前を愛してる人と触れ合え。そこから生まれる愛だって、本当の愛だろ」
「……そうだな。でも、その言葉掛けてくれるのちょっと遅かったかも」
「──へ?」
話す前に、自分が紅梨主にした行いを思い出して盛大に憂鬱になりつつも、大きなため息を吐いてから環は続けて言う。
「もう既に告られて、酷い振り方で振った後なんだよ、俺」
「ばっ──お前っ、それマジ……あー何やってんだよー!」
「しょうがねえじゃん! マジで失恋直後で、自分でも気持ちの整理全然ついてなくって……でもそうだよな、本当、あんなの八つ当たりで拒絶したもんだし……最低だよ俺は、マジでどうしようもねぇ」
「お、おい。このタイミングで鬱になるな……」
覆水盆に返らず。
桜ノ宮姉妹に関してはまさにその通りにしてしまった環だが、まだ取り返しがつく繋がりもある。
「……でも、今回はお前の言う通りだと思う。こんな
「お? 立ち直りはっや……って言うのは置いといて、それはそうだよ。ホントホント」
「──なんかお前の言う通りってのが気に入らないけど、今回は素直に感謝するよ、ありがとなリョータ」
「めっずらし! お前からのお礼なんて、明日には世界終わるんじゃね?」
「そんな簡単に終わってたまるかよ、これから俺は新しい愛を見つける必要あんだから」
「……そうだな」
でもその前に──と、環は立ち上がってお尻に付いてる砂利を手で払ってから、スマートフォンを手に言った。
「まずは、失いかけた友愛を取り戻さなきゃな。
そう笑いながら話す環を見て、沓掛もつられる様に優しく微笑んだ。