「え!? アプリ使うの辞めちゃったの!?」
仲直りを決意した翌日──本当は屋上で決意したその日のうちに謝りたかったが、向こうの都合が悪く翌日になった──先日仲違いを起こした現場である公園で、喜屋武の驚く声が響いた。
「うん、やっぱこんなのに頼るんじゃ駄目だと思った。みんなにも嫌な思いさせてごめん!」
そう言って潔く頭を下げた。
許すにせよ許さないにせよ、すぐに何かしらの反応が返ってくると思った環だが、謝った姿勢のまま何秒経っても、相手の踏鞴庭達は沈黙している。
マズい、こんな程度じゃ済まないほど愛想を尽かされていたのか。──自分の認識以上に踏鞴庭達から嫌われてる可能性が出てきて、瞬く間に肝を冷やし始める環だったが。
「その、マッキー?」
「あ、ああ!」
ようやっと喜屋武から反応が来たので、パッと顔を上げる。
すると、何故か彼は逆に申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
表情で言えば、踏鞴庭もバツが悪そうにしている。
2人から半歩離れた位置でスマホを弄ってる沓掛だけは、普段通りの佇まいだ。
「……使わないって事は、もうアプリ消しちゃった?」
「いや、まだだけど……信用ならないなら今この場で」
「いや待て枯園!」
スマホを取り出してアンインストールしようとする環を、踏鞴庭は制する様に手のひらを環に向けて勢いよく止めた。
想像していた反応と、どうにもズレが生じている状況。
どうすれば良いのか分からなくなってきた環は、素直にその疑問を口にする。
「え、あの、待てってのはつまり、どういう……消したらウイルスが残るとか?」
「そうじゃな──いや、そうだ、その通り!」
踏鞴庭が珍しいくらい焦りながらそう言うと、隣の喜屋武が驚いた顔で見る。
一瞬だけ喜屋武にアイコンタクトを送ると、何かを納得したのか小さく頷いてすぐ元の表情になった。
幸か不幸か、この僅か1秒にも満たないやり取りを、環は困惑から普段より多めに生じている瞬きのせいで見逃していた。
「き、昨日アプリ作った奴から言われてさ! いま修正アプデの準備してるらしいから、それまでは消さない方が良いと思うな!」
喜屋武が踏鞴庭に合わせる様にして言うと、環は。
「そうか、ならやめておくか」
素直に信じてしまった。
いや、そこは普通怪しむだろと誰もが思うが、今の環は2人に引け目を持っている。
それが通常の判断力を鈍らせて、無条件に信じさせてしまった。
「それでだな、枯園。俺はこの前反対していたが──1度くらいは使っても良いんじゃないかと思ったんだ」
「……なんですと?」
「ボ、ボクも同感! やっぱ何事も人生経験って言うしさ!」
「いやでも、バレたら退学……」
「約束取り付けて、直接会えたらすぐ消せば良いだけじゃん! それくらいなら平気だよ!」
「そうだな。俺もそう思う。喜屋武に同意だ」
「えぇ……?」
この前とまるで違う事を口にする2人に、さしもの環も疑念を抱き始める。
「どうしたって言うんだ2人して、あんなに反対してたのに」
「よく考えたら、お前がやさぐれるのも当然だと思ってな。俺に止める権利なんか無かった」
「うんうん、だいたいタクは彼女持ちだし、上から目線で何言ってんのー? ってなったんだよね!」
「は、はぁ……さようか」
──俺が後悔したのと同じ様に、2人も色々思うところが出てきたのかな?
多少無理がある様に見えるが、当人達の言葉はある程度納得出来る物でもある。
何より、彼らも自分に寄り添って考えてくれた事実がありがたいと思ったが、かと言って『はいアプリ使います』とはならない。
昨日の放課後、屋上で沓掛に諭されたのだから、こんな手段で桜ノ宮姉妹を忘れるなんて事はもうしない──、
「良いんじゃねえの? 人生何事もトライアンドエラーじゃん?」
「──ってお前まで俺に勧めてどうすんだよ!!??」
昨日の熱弁した男は何処に行ったのか、沓掛はスマートフォンから一切目を離さないまま、まるっきり他人事の様に環にアプリの使用を勧めてしまった。
こんな男の、自分の発言や主義に筋を通さない男の言う事に感銘を受けていた自分自身に、環はメラメラと怒りの炎を抱き始めた。
「……はぁ、もう何なんだよ。分かったよ、じゃあ一回だけ使ってみるよ、もう……」
その代わり、修正アプデが出たらすぐ教えてくれ。そう喜屋武にお願いして、この場はお開きとなった。
その際、やたらと自分のアカウントについて喜屋武が尋ねて来たので、環は口頭で説明するのも億劫だからアプリの画面を見せた。
帰る方向が同じ踏鞴庭に、帰りがてら心変わりの過程をもう少し詳しく聞こうと思ったが、彼は所用があると言って喜屋武や沓掛らと同じ方向へ帰ってしまう。
結局、環はちゃんと仲直り出来たのか分からないまま、1人帰る事になったのだった。
「ただいまー……っと、んぉ?」
玄関から家に入ったタイミングで、胸ポケットのスマホがぶるっと震えた。
靴を脱いで、洗面所で簡単に手洗いとうがいを済ませた後に、リビングのソファへ腰を落ち着かせた後、スマホを取り出すと、案の定通知が表示されている。
「なに……うげっ、よりによってかよ」
通知は例のアプリからだった。
しかも、どうやら誰かからのメッセージらしい。
消そうと決意して、逆に使用を勧められた矢先の出来事。
このまま放置する事も考えたが、顔も知らない相手とは言え無視するのは、それはそれで億劫な気持ちになる。
しばらくスマホの画面を見ながら
「えぇと、相手は……なにこれ、アリスって読むのか?」
メッセージを送って来たのは、私服姿で胸元から下を自撮りしたであろうアイコンの、“Alice”と書かれたアカウントだった。
「うっわ、うわ……うわぁ。よりによって……よりにもよって“アリス”かよぉ」
アリスという名前の人間に過去、酷い目に遭ったわけでは無い。
だが、“り”と“す”が付く3文字の名前という構成に問題がある。
「なんで“リス”なんだよ、他にも名前あるだろぉ……」
嫌でも璃梨主と紅梨主を彷彿とさせる文字の並びに、今の環が抵抗感が抱かないワケが無い。
「これ、まさか……いや、ありえないよな。流石にそれは」
姉妹のうちどちらかが他人に扮している可能性を考えたが、今から璃梨主が環にわざわざ接触を図る理由はないし、紅梨主はこの様なアプリに手を出す人間では無い。
あくまでも偶然に過ぎないと結論付けて、環は改めてメッセージを確認した。
『プロフィール見ました、良かったらお話ししませんか』
簡素な文章と、SNSの詐欺アカウントくさいアイコンの組み合わせに怪訝な顔を浮かべる環。
しかし、既読マークが付いてしまった以上、何かしら返信する他ない。
「……どんな返事が無難なんだろ」
環の人生において、女子とのコミュニケーションは8割が璃梨主と紅梨主。1割はクラスメイト、残りはその他。
すなわち、ほとんどが気心知れた相手とのやり取りだった。
したがって今回の様な初対面、しかもネットを介したコミュニケーションにおいて、適切な返答が出来るだけのボキャブラリーを、環は持ち合わせていない。
かといって、返信に時間を掛けたらそれこそ相手の心象を損なうかもしれない。
だがあんまり考えずに、脊髄反射の即レスをしたらそれはそれでガッついてると思われるかもしれない。
相手を異性だと仮定して話を進めているが、もしこれが詐欺アカウントやサクラで、相手は異性どころか単なるbot、またはネカマだとしたら目も当てられない。
「うーあー……」
様々な考えが頭の中でピンボールの様に跳ね回り、最終的に行き着いた答えは──。
「そうだ、俺もこの人のプロフィール見よう。そこから決めよう」
もっともらしい理由を取ってつけた、結論の先延ばしであった。
だが、存外それは間違った行為では無い。
相手が自分のプロフィールから声を掛けたのなら、こちらも相手がどんな人物か見て、そこから話題を繋げれば良い。
強いて言えば最初からその発想になって欲しいが、環にそれは求め過ぎだろう。
「何々……えっと、趣味は楽器演奏に料理……スペック高そう〜会話成り立つかな」
趣味といえばたまにプールで泳ぐか、友達とカラオケに行く程度しか無い環にとって、画面の先に居るだろう相手の趣味は高尚に見えた。
「……とは言っても、思えば璃梨主や紅梨主だって、何でも出来る女子だったよな」
璃梨主は女子ゴルフ、紅梨主はバイオリン、勉強に手を抜く事はもちろんないし、家事スキルも家にメイドがいるにも関わらず一通りこなせる。
ハイスペック女子とのコミュニケーション、それだけで言えば、環はとっくに経験していると言える。
いざ認識をその様に変えると人間不思議な事に、躊躇いが無くなる。
言ってしまえば、相手の『Alice』はどんな性格と容姿をしてるかは分からないが、趣味だけを見たら、環が慣れているタイプの人間だ。
ならむしろ、やりやすい相手だと言える。
心の負担が軽くなったのを自覚した環は、自然な動きで指を滑らせて、相手に返事のメッセージを送った。
『はじめまして。よろしくお願いします。
こっちもプロフィール読みました、
楽器演奏が趣味って事は、吹奏楽部とかに入ってるんですか?』
やや硬さが残る文面なのは否めないが、相手との距離感を図るにはそのくらいで良い、と自分を納得させていると、ものの数分で相手の反応があった。
『返事ありがとう
楽器は弦楽器を中心に色々してます
あと、良かったらだけど、これからはタメ語で話さない?
同じ学園の生徒だし、たぶん年も近いでしょ?』
「え……あっ、ホントだ。学園も同じ」
驚いて再度プロフィールを見たところ、確かに在籍校の欄には環の通う学園が書かれていた。
流し読みにも程があると自虐しつつ、環は続けて返事を書いていく。
『分かりました、ありがとう
Aliceさんは、どうしてこのアプリ使い始めたの?』
送ってから“こんなアプリを使う人間の目的なんて誰も同じだろう”と思い至る環。
削除してやり直そうとしたが残念な事に、一度送ったメッセージは消せない仕様だった。
『色々』
案の定、相手の返事は今までの中で一番短い。
“やばっ、相手呆れちゃったかな”などと、先程までアプリを使う事すら躊躇っていた男とは思えない不安を抱き始めるが、続けて“Alice”はこんなメッセージを送ってきた。
『ただ、ちょっと嫌な事があって
忘れたくて使った
そっちは?』
「……へぇ」
またも偶然、なのだろうか。
いや、偶然なのだろう。
だがしかし、自分と同じ様な経緯でアプリを始めた人間だというのは、彼の中に小さな親近感を生ませるのに充分だった。
『奇遇(?)だね。俺もそんな理由』
『そうなんだ』
『うん。だから同じ理由で始めた人がいて、なんか安心? してる』
『なにそれ笑笑』
「いや、ホントだよな。最初のやり取りで安心したってなんだよ」
“Alice”からの返信を読んで、環は自分でもおかしくなってきた。
しかし、このやり取りが少なくとも環と“Alice”にとって正解だったのだろう。
この後、2人は同じ学園の生徒だという事で、共通する話題でひとしきり“会話”を楽しんだ。
あの教師は日常的にイライラしていて面倒臭い。
体育の後の国語と英語が一番眠くなる。
学食が混み過ぎてるから増設するべき。
体育祭や文化祭であった出来事。
自分の知ってることはもちろん、女子生徒しか知りえない話などもあったりして、気がつけばポツポツとしたやり取りは2時間を越えていた。
『じゃあ、またね
今日は楽しかった、ありがと』
『楽しかったよ、また明日!』
そんな言葉で締め括った後、スマホを置いた環は、ふと我に帰って言った。
「いや……“また明日”って俺」
──なんかすげえ、楽しんでるじゃん。
こんな筈は無かったという思い。
それはそれとして楽しんでしまった事実。
己の浅はかな性格に、2分ほど懊悩した環だった。
「うわ、しまりました!」
帰宅してから2時間、何も食べてないのだから当然は腹は減る。
懊悩していた環も、健全な高校生である以上、空腹を訴える胃袋には逆らえない。
自分を単純な人間だと悩む時間はアッサリと終わり、冷蔵庫を確認したのだが、問題が起きた。
「あちゃー……やらかした」
すっからかん。
牛乳のパック以外、冷蔵庫はすっかり何も入って無かったのだ。
考えてみれば、紅梨主が最後に来た日からもう1週間近く経っている。
幾ら多めに作り置きしてくれたとしても、毎日食べていれば冷凍保存したところでいつかは尽きるのは当たり前だ。
「今から食材買いに……怠いわ」
こういう時、生活力が乏しい男の現実が浮き出てしまう。
時刻は21時を回ろうとしているが、大きなスーパーは問題なく開いてるだろう。むしろ、商品が安く買えるチャンスかもしれない。
けれど肝心の環自身に、遅い時間から買い物に行くだけの気力が無い。
というよりも、何を作るのか決めてスーパーに行き、買い物を終えてから今度は調理するという過程が、この上なく怠い。
環が求めているのは可及的速やかな満腹感であり、かつ、確実に美味しいと思える物。
時間がかかる上に労力まで求められ、その上素人が作るから美味しくなるか分からない自炊など、もってのほか。
ならば出前を取るか──残念ながら、近くにある店でこの時間に出前の対応が出来る場所は無い。
ウーバーなどのサービスを使えたら良かったが、登録にクレジットカードが必要な類のものは、両親から止められている。
じゃあ近くのコンビニやスーパーで、惣菜でも買えばいい話なのだが、これも特に理由もなく、“何となく”だがその気にならない。
「ぐぅ、ひときわデカい腹の虫が……」
どの方法に対しても文句を付けるくせに、空腹感はドンドンとエスカレートしていく。
この優柔不断ぶりこそ、彼の両親が心配し、桜ノ宮姉妹に世話を頼み込んだ『生活能力の無さ』である。
「あかん、このままじゃ飢え死ぬ」
人は一食抜いた程度で飢え死にはしない。
「……思えば、こういう時はいっつも桜ノ宮家にお邪魔してたんだっけ」
であれば、この状況で迷っても仕方がない。
お腹が空けば桜ノ宮家でご馳走になるか、あるいは──。
「……紅梨主が家に、ご飯届けに来てくれてたもんな」
何なら昨日まで環がお腹を満たしていたのも、紅梨主の作り置きだった。
考えれば考えるほど、枯園環という男は桜ノ宮家に──もっと言えば桜ノ宮紅梨主の好意に、支えられていた。
そうやって自分を振り返れば振り返るほど、益々、自分が紅梨主にしてしまった事の罪深さを思い知ってしまう。
「ホント……よくあんな事、紅梨主に出来たよな」
行動に至るまでの自身の心の動きは、先日自覚したので『何故あんな事をしてしまったのか』という気持ちは無い。
そのぶん、心に突き刺さる罪悪感もひとしおであり、考えば考えるほど自分を擁護できる要素も無く、頭とも心臓とも言えない身体の何処かがズキズキと痛み出す。
「あーもういいや、決めた!」
たかが夕飯を何にするかという話から、これ以上自分を苦しめるのが嫌になった結果、環が選んだのはいつも通りの思考放棄。
どうせいくら後悔したところで、既に環と彼女との縁は切れている。
今更どんかに考えたところでどうにもならない。
謝る機会すら、環は自ら潰したのだから。
「マックのポテナゲ大とビッグマック買うぞ、決めた」
苦い過去を思い出した後は、払拭する様に塩っぱくて濃い味を求めたくなるもの。
思考のベクトルを本来の空腹に向き直した環が導き出した今晩の食事は、容赦無いジャンクフードであった。
手軽、出来立て、高カロリー。
およそ栄養バランスとは対極に位置する食べ物であり、ひたすら手と口を使うだけで済む機械的な食事方法。
食べ方そのものが一種のストレス発散になり得るジャンクは、確かに今の情緒乱れがちな環にはピッタリとも言える。
やはり彼の両親が知れば苦言を呈する事は間違いないだろう、しかし普段家にいない親の事なんて、この状況では考える必要もなし。
文句があるなら家に居ろ、と心の中でこの場に居ない両親に悪態をつきながら、環は財布を手に玄関へ向かった。
「行ってきまーす──ん?」
玄関の扉を開こうとドアノブを回した時、僅かにだが普段より開きにくさを感じた。
僅かな違和感を抱えたまま、ドアを開いた次の瞬間。
「………………?」
環は、言葉を失った。
「……なに、これ」
外側のドアノブに引っかかってあったのは、大きな白いビニール袋。
中には、保冷剤などで傷まない様にされた、食べ物の入ったタッパーがたくさん入っていた。
「ぇ、え? は? なんで?」
もちろん、環はそんなサービスなんて頼んでいない。
であればこれは、環の事を知る誰かの手によるもの。
そんな事をわざわざしてくれる人間を、彼は1人しか知らない。
「嘘でしょ……勘弁してくれよ」
膝の力が抜けて、その場でへたり込む。
──いつの間に置いて行った?
──あんなに酷いことをしたのに。
──どうしてだよ。
幾何もの思考と困惑が混ざり合い、溶け合い、混濁し、最終的に彼の心に残ったものは。
「──もう、あぁ、あぁもう!」
抑えきれないほどの高ぶり、そして──。
「こんなの──こんなのって!」
紅梨主に対する、果ての無い後悔、謝意、感謝、それら全ての感情だった。
「あぁもう──紅梨主に会いたくなっちゃじゃうじゃねぇか、ちくしょう」