始まりの夜
プロデューサーは疲れていた。
この仕事を始めてもうすぐ3年が過ぎていた。283プロもアルバイトを増やし、そろそろ新しい事務員を雇うかそれとも新しい事務所を構えるかというところにあった。
要は安定期である。各ユニットもそれなりに成果を出し、革新を行う直前みたいな空気。
1年目と比べると比較的楽になった彼であったが、それでも蓄積する責任の重圧やアイドルの成長などを考えると快調とはとても言えない状況である。
外はすでに真っ暗であり事務所にはほとんど人がいない。そんな中彼の机にマグカップが置かれた。中身はコーヒーではなくお茶である。夜にコーヒーは禁物だと考えたのだろう。
「お仕事お疲れ様です~」
「ありがとうございます」
七草はづきは彼が新人プロデューサーであった時からの付き合いだ。アルバイトであったが妹である七草にちかがアイドルとしてかなり有名になり仕事量が増えたことをきっかけにようやく正社員になった。――その時社長が説得にひどく苦心したことを記しておく。
お茶を飲む。特筆することのない、ぬるいお茶だ。
「しばらくかかりますか?」
「えぇ。今日はアンティーカの動画の確認をして、終わりです」
アルバイトが作った動画はファンが見るには良いが、アイドルファンでもない人が見ると数分で忘れそうなものだった。やる気がない、と責めるのは簡単だが昨今の動画サイトの動向をみると仕方のないことだといえる。
「ではプロデューサーさん、終わったら飲みに行きますか~?」
「えっ……あー」
思考を巡らせる。
プロデューサーはこれまでに何度かはづきと飲み会に行ったことはある。ただこれはアイドルと一緒にだったり社長と一緒だったりと基本3人以上。はづきだけと飲みに行くことはこれまでに一度もない。
「――珍しいですね。はづきさんが飲みに誘うなんて」
「丁度2人で飲みたいと考えていたんですよね~どうですか~?」
*
頭が痛い。
二日酔いによる頭痛でプロデューサーは目を覚ました。部屋は朝の光が入ってきて、ぼんやりと明るい。
隣を見た。
裸の七草はづきがいた。
「……!?」
眠気は一瞬で覚めた。自分の置かれている状況は予想される最悪であった。裸で見知らぬ部屋のベッドに同僚と一緒に寝ている。どう考えても酒の魔力で過ちを犯したという状況である。
「ん……? んぅ……」
「ちょっと……はづきさん……!」
隣で寝ているはづきがプロデューサーの腕に子供のようにしがみつく。豊かな双丘が押し当てられたが今の彼には性的興奮を覚えるほどの心理的余裕はない。
何回か肩をゆすると、はづきはゆっくりと瞼を開けた。
「え……あぁ……プロデューサーさん、おはようございます……」
「え、あ、はい。おはようございます……」
彼女はゆっくりと上体を起こし伸びをした。自らが裸であることに気づいてはいるものの、気にしていないという状況であった。
「あの……!俺たち、昨晩――」
「はい~……昨日はお楽しみでしたよ~」
のんびりとした口調ではづきは最悪の答えを発したため、プロデューサーは頭を抱えた。
*
共にホテルから事務所に向かう道でプロデューサーは気が気ではなかった。そんな様子にはづきは笑う。
「昨夜は私も承諾してましたし、後で『乱暴された~』とか言って泣きついたり慰謝料請求したりしませんよ~」
「いや……でも、俺、昨夜の事何にも覚えてなくって……だから、何か粗相をしていないか……!」
「粗相……私に手を出したことですかね~」
身もふたもないことを言うはづきの顔色はいつも通りで、昨晩体を重ねたとは思えない。
「まぁまずは状況を整理して落ち着きましょう~」
はづきは人差し指を立てて子供に説明をするように順序だてて話し始めた。
「昨晩私たちは一緒に飲みに行きました。それでいつもよりハイペースだったプロデューサーさんは店を出るときには既に出来上がっていて、それでまともに歩けそうになかったんですよね~。ですので仕方なく私が近くにあったラブホテルまで連れて行くと……そのまま押し倒されちゃいまして……」
「そうして朝になると……」
最悪だった。アイドル相手ではないから気を許しても良いという言い訳にはならない。
「あぁ、気にしないでください~。きちんとゴムはしてもらいましたし、特に乱暴もされていませんから~」
「………意外と冷静ですね、はづきさん」
「まぁ別に私、おぼこっていうわけでもありませんからね~。それなりに遊んではいますし、男性経験もありますよ~。プロデューサーさんは慌てまくっていますけど、こう……その場のノリでヤっちゃうなんて経験はないんですか~?」
「無いです」
「うわ~純情ですね~」
男性アルバイトも入った283プロ内でも未だにアイドルたちの恋愛感情の矛先を向けられるプロデューサーは鉄壁ともいえる理性を誇る。だが彼も異性と昨夜のように酔っぱらったことは一度もなかった。
「ともかく、私は昨晩のことを誰かに言いふらすつもりはありませんですしこれまで通り仕事上での付き合いのみで済ませましょう~って感じなんですが、プロデューサーさんはよろしいですか?」
「それでお願いします……。――もし、その……問題が起きたら、連絡お願いします……」
はづきは「わかりました~」と言ったが、プロデューサーの言う問題が起きるとは思っていなかった。
*
数日後。
「――そういえば、七草さんが先週の水曜日に何をしていたか分かりますー?」
「……え?」
社用車の中でそろそろ高校を卒業する七草にちかがプロデューサーに質問した。自身のことを「七草さん」とは言わないと思われるので、きっと七草はづきの事を指しているのだろうということは容易に想像できた。
「先週の水曜?」
「ですですー。なんかあの日だけ家に帰らなかったんですよね……。何か知っています?」
「――いや、よく知らないな」
先週の水曜日は一緒に飲みに行ってそのままホテルに行ってしまった日だ。しかし馬鹿正直にそんなことを喋るわけにはいかないためごまかした。
「はづきさんは何て?」
「友達と飲みに行ったって言ってたんですけど、不自然でして……。お姉ちゃんにオールで飲み明かすような友人いたかなぁ」
「千雪はどうだ?」
心の中で千雪に謝罪しながらプロデューサーは続けた。
「たまに一緒に飲みに行っているという話は聞いたことがあるが」
「千雪さんですか」
んー、と彼女は車窓に流れる街路樹を眺めながら答える。
「どうやら違うみたいなんですよねー。もしそうなら『千雪さんと飲んだ』っていうと思うんですよねー」
その言葉に何も言えず、プロデューサーは「……そうか」としか言えなかった。