キーボードの上で指が躍る。打鍵音の二重奏は雑談という伴奏なしで事務所に響く。
はづきが彼の過去を知って既に1か月が経とうとしていた。あの日以来はづきは彼を夜に誘っていない。それどころか声をかけることすら難しくなっていた。
いきなりの態度急変に彼は戸惑いを隠せない様子だった。しかし彼も何かを変えることなくそのまま放置だった。
まぁそんなもんだろう。セフレといえど、彼は私の情愛と肉欲の発散に使われていただけなのだから。
結局、意識していたのは私だけということか。
そんないやな考えが脳裏によぎる。
*
そんな二人の様子を何やらおかしいぞと感じたアイドルたちがいる。
「あれ、喧嘩でしょうか……?」
雰囲気がおかしいと考えた郁田はるきが隣の鈴木羽那に話しかける。
「ん……確かに。明らかにはづきさんの雰囲気が『怒ってます』と『構ってください』だかんね」
スマホでネット小説を読んでいた羽那がそんな反応を見せる。
七草はづきがしおらしくなった現在でもアイドルからのプロデューサーに対するアプローチは続いていた。やはり結華の一件がかなり響いたのだろう。当初は膠着が続いていたが、結華のアドバイスを受けるようにアンティーカが動き始めた。
羽那も動きたそうにしていたが、現在のはづきとプロデューサーとの関係が気になる。
283アイドルたちは良くも悪くも恋愛面においては奇跡的なピンボケを発症している――まぁ職場の人間がセフレでした、なんて考える者は迷惑でしかないのだが――ためプロデューサーとはづきの関係に気づいていない。しかし察しの良さはかなりの物なため「二人の間で何かあった」という認識だけは事務所の中で蔓延していた。
「それ以前に……プロデューサーさん、かなりアイドルの皆さんに素っ気なくなったよね~……」
「そうそう! かなり積極的に誘ったり他の子もいろんな方法でプロデューサーにアプローチをかけていたけど、もはや誰の誘惑も聞かないって感じで……」
そうなのだ。
アイドル達はあれから様々な猛アタックを仕掛けていたが、もはやプロデューサーは毅然とした態度で断るようになった。チェインのグループであったPラブ最前線も様々なアイドルが加入して様々なアイデアを巡らせていたが、それに伴い態度が硬化。唯一の弱みであった不摂生もアイドルに弱みを見せないためにか一気に改善され手作り料理を渡す隙も無い。
「あたしもプロデューサーにアプローチ掛けたいんだけどなー……」
その言葉にはるきは少し疲れたような視線を羽那に向けた。
*
「まぁ、座れ」
社長はプロデューサーを飲みに誘った。場所は社長がいつもプロデューサーやはづきと歓談をするのに使うバー。
やってきたプロデューサーは木製のカウンターの下に通勤かばんを置き高い席に座る。
「まぁ、なんだ。何か頼むといい」
「はい――」
と、プロデューサーは社長の目を見る。
――明らかに何か、説教ではないが重要な対話をしようとするときの目だ。
「――じゃあ、アメリカンレモネードで」
度数低めのカクテルを注文する。変に酔ってはいけない気がしたから。それでもノンアルを頼まなかったのは、一応飲みという建前を崩さないためである。
プロデューサーが頼んだカクテルが届くまで二人の間に会話はなかった。コルクのコースターの上にコップが置かれてようやく会話が始まった。
「その……なんだ。最近、どうだ」
「えぇ、まぁ……」
なんだその思春期の娘に気をかけるような言葉は。あまりにも抽象的でプロデューサーも曖昧な返事をしてしまう。
言ってから気づいたのか社長は「あぁー……」と呻ると話題を変えるように切り込んだ。
「アイドル達との――いや、曖昧な表現はよそう。お前に対して恋愛感情を抱いている者に対してお前はどうするつもりだ」
ここで社長が「アイドル達」から「恋愛感情を抱いている者」と表現を変えたのは、前者のままだとはづきが含まれないと思ったからだ。
その言葉にプロデューサーはすぐに答えた。
「……私はプロデューサーとして彼女たちとして関わっています。そこに恋愛感情はありません」
「そうか……」
やはり、というか。プロデューサーははづきの恋愛感情に気づいていない。
「しかし、はっきりと断る――いや、恋愛恐怖症であることを言わないと状況は解決しないのではないか。彼女たちが『プロデューサーだから』で済ませるほど、諦めが良いわけではないだろう」
「………そうですね」
その言葉は肯定せざるを得なかった。現に凛世が未だにプロデューサーへの恋愛感情が未だに捨てていない状況では。
「……もしくは普通の――一般人の恋人を作ってしまうか。……いや、恋愛恐怖症の人間にそんなアドバイスは無茶か」
「まぁ、それが一番だというのは理解していますよ」
大きなため息と共に彼は自身の感情を吐露する。
「でも無理なんです。どんなものであれ、恋愛というものを意識してしまうと自殺した彼女との記憶が思い出してしまう。彼女が俺に残した遺書が首を絞めつける。大学生になっても、前の職場でもフラッシュバックは止まらなかった」
焦燥とは違う。脳にこびりついた繰り返される幻覚による諦観。心療内科による投薬とカウンセリングも効果はあったのだろうが根本的な解決にはなっていないようだ。
そして――人助け、明け透けな言い方をすれば憐憫の感情もあったが――アイドル事務所運営にあたってそのような彼の体質が「便利だ」と思ってしまった自分自身が。
(なんとも、悲しいことだ。手を差し伸べても、技量不足であったり環境だったり――そもそもこの穢れた手じゃ……)
「……何もできないな、私は。お前を救いたいと思っていても――結局お前を苦しませてしまった。私がお前をアイドル――しかも女性アイドルの場に据えるんじゃなかった」
「それは――」
肯定も否定もしないプロデューサーの言葉に強く納得してしまう。
「……もしかしたらお前はここではない別のところがふさわしいのかもしれないかもな」
「それはっ――!」
社長の懺悔にも等しい譲歩の言葉にプロデューサーが驚く。どうやら彼はクビになるのではないかと捉えたらしい。
本人にその意思はなかったのだが――
「そうだな……でも、今すぐにとは言えん。お前の体質を考慮するにしても、今の事務所じゃあ人員が少なすぎる。――少なくともバイトが正規雇用になるか事務所に新たなプロデューサーを雇ってからじゃないと――」
「俺はっ」
社長の独善でできた未来予想図を描く言葉をプロデューサーが打ち切った。
「俺は、彼女たちがトップアイドルになるまでプロデューサーを辞めるつもりはありません!」
静かなバーにプロデューサーの言葉が響き渡る。高尚な場所であるからかじろじろと眺められることは無かったが、発言の内容からか好奇の視線が向けられる。
「す、すみません……」
「いや――」
プロデューサーにそんな言葉を言っても仕方ないというのだ。彼は天性というレベルの人の好さが表れている。
しかし、社長も引くわけにはいかないのだ。
「今回は私も引くつもりはない。唯でさえ周囲の環境に左右されやすい職だというのに同僚から好意の暴力で潰される。これ以上お前を過酷な環境にするわけにはいかない」
「――」
「もっとも、お前の言い分もわかる。だが……やはり、別のプロデューサーを複数人雇った後は強引でも行動をしなければならない」
「……それまでに――」
「あぁ。それまでにお前は身の振り方を考えるべきだ」
*
七草邸。
「にちかってさ」
「んー?」
はづきは少し悩む。この言葉は少しアイドルに対してするのは残酷かもしれないが……。
「――にちかにとってのトップアイドルって何?」
「………」
まぁ難しいよね。
きっとプロデューサーも社長もうまく定義できないと思う。昔のにちかなら「なみちゃんみたいなアイドル!」と無邪気に言ってたのかもしれないが、ある程度の業界の事情を知ってしまった現在はどう答えるのだろう。
「……どうしたの、お姉ちゃん。いきなり」
「んー、別にー。強いて言うならアイドルゲームのコマーシャル見て少し思ったの」
そんな言葉を言ってみたが、実際の理由ははづき自身にも分からないだろう。
「トップアイドル……トップアイドル……」
流しに立って皿を洗っていたにちかはエプロンで手を拭きながら悩む。
「すこし悩ませちゃったかな。かなり難しい話題を世間話に選んだのは自覚しているから、別に明確な答えを出さなくても良いんだけどさ~……」
自分でも支離滅裂だと思う。実際そんなはづきの言葉を聞いたにちかは「えー! 今を時めくアイドルに対してそんな事を聴いてそれー!?」とぶーたれる。
「ごめんごめん。でもさ、今を時めくアイドルに聴いてみたくって」
「ふーん」
どうやら皿洗いは終わったらしい。にちかはエプロンを机に置いてはづきに向き合って座る。
「まぁその……たまにプロデューサーさんが私たちアイドルに対して言っている『トップアイドル』とか他の人と私のアイドル観は違うかもしれないけどさ」
「うんうん」
「自分のやりたいことをやれる事じゃないかな」
「……?」
その言葉にはづきは首をかしげる。
「それは……アイドルの仕事が――いわゆるパフォーマンスをってこと? それともネットやテレビの出演とか? でもパフォーマンスにしても出演にしても事務所が発注しているし……結局は事務所や世論が作った『アイドルとしての七草にちかのイメージ』に縛られてるんじゃない?」
「んー、まぁそれを言われてしまうとそうなんだけどさ。そういうことじゃなくって……」
にちかは頬杖をついて少し悩んで答える。
「この前のライブの物販で色々考えたでしょ。ユニット別の考案アイテムとかTシャツとか……」
「あ~」
そういえばあのウォーターダンベルは基は美琴が「ファンの体力増強」というテーマを出したうえでにちかが考えたものだったか。
Tシャツやタオルも一度のライブ用だと原価を抑えたりはしていない。すべて家で使う分には問題がないような肌触りとデザインである。
これは社長もプロデューサーもこだわっており、それに感化されたのかアイドル達もかなり気にしている。
「あんな風な……出品者側としてホントに自分が胸を張ってファンのみんなに買ってほしいって言えるグッズを企画できて、それをプロデューサーさんとかの事務所が止めずにむしろ推奨するような……環境? それがトップアイドル……」
最後のほうは「いや、でもオリコンとかの数字も考えたほうが良いのかな?」とか俗世的な言葉によって萎んだが、なんとなしににちかの定義する「トップアイドル像」が何なのかわかった気がした。
どうして進級できたかどうかもわからんのに就活をしなくてはいけないのか。
はるきと羽那のキャラが分からないので、微妙に違うかも。