一人は僕の親友。もう一人は同じく親友で、僕の初恋の人だった。
二人の頬が紅潮する光景を、僕は夕暮れのせいにはできそうになかった。
夏の終わりというには涼しすぎて、秋と呼ぶにはまだ早い、そんな時期に僕は失恋をしたのだろう。
疑問形なのは、それを失恋という一言で語るにはあまりにもおこがましく、意味をはき違えているような気がして納得がいっていないからだ。
僕は彼女に告白もしていないし、当然断られてもいない。
それでも、片付けの途中の荷物の居場所を適当な床にほっぽり出すように。
僕はこの感情を一先ず失恋という箱の中に押し込んでおくことにする。*1
それを見たのは昨日のことだった。
下校時間にはサッカー部や野球部など、外での練習をする生徒はいつもより活気のある声を上げていた。
帰宅する生徒も、夏と比べ過ごしやすくなった気温が心地いいのか、各々の帰り道をゆったりと歩いているように感じた。僕はというと、そんな生徒を眺めながらいの一番に帰ったまではいいものの、ひそかに書いている自作の小説を机の中に置き忘れたことに帰宅してから気がつき、急いで教室に戻っていた。
完成したものならまだしも、小説という形になっていない半端な文を誰かに見られることを想像すると、明日取りに行くという選択肢は最初からなかった。
しばらくまともな運動なんてやってこなかったせいで、自分の教室がある階に着いたときにはすでに疲れ果てていた。
歩くたびに足が張ったような継続的な鈍い痛みのせいで、教室までの道のりが非常に長く感じた。
ようやく扉の前まで近づいたとき、笑い声が聞こえた。
二人分。男女の声。どちらも聞き覚えがあった。
若干の戸惑い、そのあとにゆっくりと扉を開けた。
教室にいたのは、二人の男女だった。
一人は僕の小学からの親友で、隣で朗らかに笑う女子も同じころにできた親友で、僕の初恋の人だった。
最初二人はこの教室に誰かが入ってくることなんてありえないといった風に、硬直していたが、見知った僕だとわかると朗らかに僕に笑いかけた。
初めは何と言っていたか。「どうしたの? 忘れ物?」という問いかけに素直に僕が答えたのかもしれないし、あるいは僕から先に「なんでこんな時間まで残ってるの?」なんて疑問を尋ねたかもしれない。
実際のところ、それから先のことだけがきれいに切り取られて、何も覚えていない。
ただ教室のことで覚えていることは、扉を開ける寸前に見えた二人の喜色あふれた、それでいてはにかむような笑顔と、紅潮した頬だった。ふとしたときには自分の部屋の床に座り込んでいて、右手には 求めていた群青色に染まった単色のノートを手にしていた。
部屋に差す茜色に導かれるように立ち上がって窓を見れば、マッチの火が空に引火した瞬間を切り取ったような見事な夕暮れが瞳を焼いた。
気持ちの整理を、つけたかった。
答案に一つひとつマルとバツをつけるように、僕の感情を曖昧にはしたくはなかった。
そのためには夜が始まる前の茜空を見続けなければならない。
それが必要だと、なぜか思った。
親友と小学生の初めに出会い、進級してから彼女と出会った。不思議と気が合う、そんな人と出会ったのはあの二人だけだった。
なにをやるにも僕らはいつも一緒だった。
高校に入っても関係は変わらなかった。そんな彼らを僕は友人として大事にしている。
なら、僕が彼女に向ける感情が友情ではなく初恋なのはどうしてだろう。
誰でも隔てなく人に親切なところ。笑顔がきれいなところ。それでいてよく笑うところ。
どれも長点で、けれどそのどれにも違和感を覚えた。当たらずとも遠からず、そんな感じだ。
ただ思い出したのは、今日の二人の姿。
二人だけの教室で。笑顔の二人。赤みがかった頬。
僕はその光景に少しだけ驚き、そしてちょっと傷ついた。
その痛みを、僕は知らなかった。
割れたガラスが危険だということを知らず、近づいて踏んでしまったときのような愚かさと。
にもかかわらず傷跡から血が滲み出て、そのとき血というものが予想通りの赤色をしていないことに気がついたときのようなささやかな絶望と。
それを「きれい」という言葉でしか表現できなかったときのような無力感を。
それらすべてが入り混じって不確かな一つの感情となったものの名前を。
僕は、知らなかったのだ。
一睡もできなかったと言う人をテスト前日によく見かけるが、僕はその一睡を一時間ごとのインターバルを経て夜を超えたらしい。
体感だが総計しても睡眠時間は三時間を超えていない気がする。
自分でもわかるくらい足元がふらついている。
それでもわずかに残っている意志で教室に入る。
多くのクラスメイトは気がついた様子はないが、何人かは僕の目の下のクマの酷さに目を見張った気配がした。
構わず窓際の一番後ろ、自分の席に荷物を置き、僕は机に伏した。
今日は雲が太陽を遮っていて、少しも暖かくもないし、気持ちよくもなかった。机が僕の体温を奪うほど冷たかったのは覚えている。
誰かが声をかけてきたが、それも無視した。
僕は自分でも自分がどうなっているのかがわからなかった。
これが単なる寝不足なら一、二時間ほど授業を無駄にすれば解消できるものだ。
だが今は全くと言っていいほど眠くない。しかし気力というものは全くなく、何もしたくないし、授業の内容も一切耳に入ってこない。
窓の外、校庭の端に植えられた木を眺め、なんとなしに植物状態という言葉がゆっくりと頭をよぎった。妙な納得感に僕はそのまま目を閉じた。
そんな状態が何時間も続き、ただ席に座り、ノートを広げ、朝と変わらず机に突っ伏すか、ぼーっと窓の外のほかのクラスの体育の授業を眺めていただけで、放課後を迎えた。
僕は、いったいどうしたんだろう。
そんなことを考えながら、のろのろと帰りの準備を進めていると視界に影が差した。
「一緒に、帰らない?」
僕の大切な親友二人がのぞき込むようにこちらを見ていた。心配の色を浮かばせた目がこちらを見つめる。
今日のところは遠慮しておくよ。笑ってそう言えたらよかった。
口を開くもなにも言葉にすることはできなくて、仕方なく僕は首を振った。
断る気力すら、僕には億劫だった。
電車通学をしている人は小学のときも、中学のときもいなかった。
家から歩いたり、中学生になったら学校に申請をして自転車で通学していた人がほとんどだった。
僕らもその類で、小学校のときも中学校のときも家からさほど離れていなかったため、高校に入るまで、ずっと歩いて学校に行っていた。
各々の家も近いため、必然的に帰りにどこかに寄る用事がなければ、僕らは同じ駅で降りる。
そもそもが過疎化の進んだ町の駅なのか、最近近くの駅にできたショッピングモールのせいなのか、僕ら以外に降りた人は乗っていた車両の中にはいなかった。
二人はなぜかここまで一言も喋らなかった。
今までに味わったことのない独特な空気が僕たちの間に流れていた。
自然、足取りは重たくなっていた。慣れない空気が鉛そのものとなって足にくっついているみたいだった。
二人が歩幅を合わせて歩いてくれていたことに気づいて、それが余計に罪悪感として重石になった。
やがて、三叉路が次第に視界に入ってくる。
ここまで一緒だった僕らの帰り道は、ここで別々になる。
僕の家はまっすぐ進んで数分のところにあって、対して彼の家は左、彼女は右。
「じゃあ、ここで」
僕の口から出た声は、驚くほど覇気のない情けのないものだった。
少し進んで、返事のないことに違和感を覚え、そっと振り返る。
二人はなんだか、呆れたような、悲しそうな表情をして、しかし柔和な笑みをこちらに向けていた。
「まぁ、なに。なんか困ったことあれば、いつでも言えよ」
彼は頭を掻きながら、そう言った。彼が恥ずかしがるときはいつも話し始めるときにそうする癖があることを、僕は知っている。
「気分とか悪くなったら、遠慮しないで言ってね」
彼女は変わらない笑顔で、そう言った。彼女の笑顔を見ると気持ちが和らいで、それに僕は何度も助けられたことを、僕は覚えている。
「うん、ありがとう」
僕は彼らのやさしさに少しでも応えるため、今できる限り精一杯笑った。
でも、しっかり笑うことができたかは全く自信がない。
彼らに背を向け、歩き出す。重りはまだ足についている。昨夜さんざん自分をこんなになるまでした悩みの回答も、僕はまだ用意できていない。
うつむきながら、歩く。鈍色のガラスの破片を散りばめたようなアスファルトを見ながら、歩く。
そこに当然、答えはない。
感情の行き所は、地面にはない。
だが、ふと。
――影が差した。
今までにはなかった、黒く、長い、数メートルは続く影。
それは紛れもなく僕のものだった。
背後を見る。雲と雲の隙間を縫うように、僕の通る三叉路、そのまっすぐの道を照らしている。
光の麓に視線を落とせば、彼女が手を振っている。
「またあしたー! がっこうでー!」
彼女の顔は逆光で見えづらい。けれど確かに笑っている。最高の笑顔で、笑っている。
そんな彼女を、夕日の眩しさに焼かれ、僕は顔をしかめた。
眩しいからではなく、嫌悪でもなく。
僕は、ひどく泣きたい気持ちになった。
大きく手を振る姿は不格好と人は思うかもしれない。
けれどそんなことを気にもせず、羞恥という感情を彼方に置いてきたように笑って手を振る彼女の姿は、とても美しくて、愛らしくて。
――あれがきっと、僕の初恋の姿だった。
ゆっくり、ゆっくりと空に手を掲げる。
彼女みたいに決して立派なものではないけれど、自分なりに手を広げる。
何かを包み込んでいるような、丸まってしまっているのが見なくてもわかる。
それでもよかった。
彼女の振る手と僕の振る手が違うことに、僕は今更安心感を得た。
「また、あした」
張ったと思った声は、思ったより小さかった。けれど遠くでふっと彼女が笑った気がした。
僕はそれに満足して、岐路に再びつく。
影が次第に薄れていっていることに気がついた。
それでも前を向いて歩く。
夕日はもう僕を照らしてはいない。
家を通り過ぎて、僕は近場の公園に足を運んでいた。
開けた場所にあるのにも関わらず、ふとしたときに見落としてしまう、鳴き疲れた捨て犬みたいな場所だ。
一周するのに歩いて一分もかからないほどの広さの中に、簡易的な木製のベンチが二つと、ブランコと鉄棒が無秩序に置かれている。
今のところ、この公園に誰かがいるのを見たことは一度もない。
入口から近い方のベンチに座るとよく空が見え、僕はそっちに座った。
背もたれなんてものはなく、両手をベンチにつけ、背中を反らせて見上げる。
数刻経てば落ちる太陽の輝きをもって、その雲は夜の色に染まりつつある空に悠然と在った。
雲は停滞を知らず、同じものはない。
かといって形に意味があるかといえば、そんなものはない。
雲の形が食べ物だろうとなんだろうと、探したところでなにもない。
それでも、この光景から目を離すことができなかった。
この雲に名前をつけるべきだと、直感的に思った。
キーワードを頭の中に散りばめる。そしてパズルピースを一つひとつ確かめて嵌めていく。
それを終えるのに一分もかからなかった。
代わりにできた名前を口にするのに、一分もかかった。
開いた口を閉ざして、少し躊躇ってまた開ける。
これは、恐怖だ。
名もなき感情を、言葉という一つの箱に押し付ける恐怖。
言葉という器が釣り合っても、釣り合わなくても、僕はこの気持ちを失う。
そんな気がしてならない。
でも、進むしか道はなかった。
知りたいと思ってしまった罪を、清算しなければならない。
「失恋雲」
その名前は、わだかまっていた僕の感情すべてを吸い出して口から飛び出した。
今までにない無力感、虚無感。と同時にすべてを諦めることができるような無責任な感情がやってくる。
その中で彼女との記憶が蘇ってくる。その最初のころ、今日みたいな夕日がきれいだった日のことを思い出す。
いつもの三叉路。大きく手を振る姿。笑顔の君。
そっと目を閉じて、暗闇に慣れる前に僕は目を開けた。
とっくに夕日は消え去り、星空なんて見えない曇った夜空がのぞき込んでいた。
「僕は、君に初恋をしていたらしいよ」
そう口に出して、軽く笑ってみる。
頬が吊り上がる感触、目はいつもより細く。
今度はしっかりと笑えている。
そう信じることができた。
あ
あ