「アーミヤ、アーミヤ!」
「えっ、あ、はい!」
聞き慣れたケルシーの声が、どこかへ漂いかけたアーミヤの意識を引き戻す。
ここはロドスのミーティングルーム。手には書類。そして今は、ケルシーと相談の途中だった。
集中しなければいけない時に、完全に気が散っていた。自戒し、目を凝らし、仮面じみたケルシーの無表情と向き合うと、彼女は顔色を変えずに嘆息する。
「言ったはずだ、アーミヤ。仕事をする時は集中しなくてはならない、と」
「う……」
「大方、ドクターのことを考えていたのだろう。彼も先日、アーミヤが自分を避けていることを打ち明けて来た。一体、何を遠慮している?」
「え、遠慮しているわけでは……」
アーミヤは両手の指を合わせて、顔を俯ける。
確かに、このところドクターとは、口を利いていない。いつだったか、お姫様抱っこをされているドクターを見てから、ついつい遭遇を避けてしまっていた。
何が理由なのか、一応言語化は出来る。ただ、声に出すのは憚られた。
ケルシーは、真剣に受け止めて慰めてくれるだろう。サベージなら笑い飛ばし、グレースロートなら一蹴して、アーミヤ自身もそれを飲み込んでしまえるはずだ。
けれど、なんとなく、そんなことをしてしまえば、懸念が現実になってしまうような気がした。
何も言わなくなってしまったアーミヤを見つめていたケルシーが、嘆息しながら言う。
「アーミヤ、見舞いに行くといい」
「え?」
「彼は、面会謝絶が必要な重病者ではない。ドクターの症状は重く、彼の体質に合致した薬はないが、それでも命に関わるようなものではなく、今は投薬により症状も落ち着いている。覚醒していれば、会話することもできるだろう。どの道、君とドクターがその調子では、業務にも差し障る。不安があるのならば、打ち明けて来い」
「…………」
アーミヤは逡巡した。
しっかりと仲直りするべき理由はいくつもあり、会いたくない理由は感情的で曖昧だ。どちらを優先するべきかなど、誰に言われるまでもない。
それでも、素直に頷くことは出来なかった。いっそ、残っている仕事を理由に、先送りにしてしまおうかと考える程度には。
そんなアーミヤの悩みを、ケルシーは当然のように見抜いていた。
「行って来い、アーミヤ。ドクターが待っている」
ハッと顔を上げると、優しい微笑みがそこにあった。
ケルシーはアーミヤの頭を撫で、言葉を重ねる。
「行って来い」
「は、はい!」
アーミヤは頷き、小走りでドクターの部屋へと駆けだした。
不安が完全に払拭されたわけではない。ほんの少し、ドクターに会う方へ天秤が傾いただけだ。
それでも、ケルシーの言葉少なな励ましで、アーミヤの足は動き出していた。
ミーティングルームを飛び出していくアーミヤを見送り、ケルシーは珍しく独り苦笑いを浮かべる。
「そろいもそろって、手のかかる―――」
―――と、そんなことがあって、ドクターの私室まで来たのはいいのだが、アーミヤは扉の前で、立ち尽くしてしまった。
思い返せば、ドクターの私室を訪ねるのは、随分久しぶりのことだ。
昔は、ドクターによく添い寝をせがんで、読み聞かせや子守歌を枕に眠ったものだが、サルカズの戦争に介入したあたりから、そんなことはめっきりと無くなっていった。
戦争中は、ドクターもケルシーも昼夜を問わずに駆けずり回っていたし、チェルノボーグから助け出した後も、山のような仕事に忙殺されて、眠ることすらロクに出来ていない。
最近はロドスも大きくなり、人員も増えたことで、それなりに休む余裕は生まれたのだが、ドクターに添い寝をせがんだりはしなくなっていた。
そのせいだろうか。たかが扉をノックするのが、こんなにも難しいと感じるのは。
握りこぶしが寄せては返し、やがて開いて扉の取っ手に指先で触れる。
結局ノックすることもせず、ほんの少し隙間を開けて中を覗くと、ベッドに腰かけたドクターと、何事か書き込むススーロの姿があった。
耳をそばだてて会話を聞いたところ、どうやら問診をしているようだ。
ドクターの顔色は悪くない。裸体の上からいつものジャケットを羽織っているようで、上がり切っていないジッパーの隙間からは胸元が露わになっている。
首筋は細く、肩幅も以前より狭い。表情は柔らかいが、どこかぼんやりとしている風でもあり、アーミヤの心をどよめかせる。
マスクのない顔を、じっと盗み見ていると、ドクターが不意にこちらを見た。悪事を咎められたような気分になって、ギクリとするアーミヤに、ドクターは微笑みかけて手招きをする。
「アーミヤ? そんなところに居ないで、入っておいで」
「お、お邪魔します……」
おずおずと扉を押し開け、最低限入れるだけの隙間を確保してから、体を滑り込ませる。自分の忍び込むような動作に、居たたまれなくなった。
けれどドクターは気にした様子もなく、アーミヤを暖かく迎え入れる。
「どうかしたのか? あまり顔色が良くないようだが」
「いえ、なんでもないんです。ただその、ドクターのお見舞いに来ただけで。ドクターこそ、具合はどうですか?」
「問題ない。薬が効いたようで、随分と良くなった」
「油断しないでよ、ドクター。一応、理論上は大丈夫ってだけで、本当のところどうなるかは、まだわからないんだから」
ススーロに釘を刺され、ドクターは苦笑する。
若き医師は“本当にわかっているのかな”と頬を膨らませた。そして、もじもじと座りの悪い様子のアーミヤを見て、小首を傾げる。
ドクターも、アーミヤの態度がどこか余所余所しいことに気が付いている。
だが、いきなりそこへ切り込むような真似はせず、出来る限り優しく、当たり障りの無い言葉をかけた。
「アーミヤ、仕事はどうだ? ここのところ、私のせいで迷惑をかけてばかりだが」
「い、いいえ、迷惑だなんてそんな。私の方こそ、皆さんやケルシー先生に手伝ってもらってばかりで。それに、ドクターにも休息は必要ですから」
「君もな。今日の仕事は、もう終わったのか?」
「はい。といっても、次の書類が来るまでですけど」
「そうか。私も、早く復帰したいところだが……ススーロ?」
「最低でも、もう二日か三日は様子を見るよ」
「既に丸一日休んでいるんだが」
「え?」
アーミヤの耳がぴょこんと動いた。
ドクターが月経で倒れてから、かれこれ丸三日は経っている。もしや、意識が朦朧としていた分、時間の間隔がズレてしまっているのだろうか。
そう思って口を開きかけたが、ススーロの席を立つ音によって阻まれた。
「まだ大人しくしていて。君の体がどうなっているのか、薬がちゃんと効いているのか、しっかり確かめないといけないんだから。また下手をして倒れられたら、今度は医療部のみんなが倒れちゃうよ」
「……すまない」
「なら、安静にしていて。アーミヤ、ちょっといい? ドクターが仕事に復帰した後のことなんだけど」
「あ、はい!」
ススーロに呼ばれるまま、アーミヤはドクターの部屋を出る。
扉の枠をまたぐ寸前で、一度振り向くと、ドクターと目が合った。
真珠のような白い瞳は煙っていて、眠そうに見えた。
ススーロに袖を引かれて部屋を出ると、彼女が小声で口止めをしてくる。
「日付と時間については、内緒にしておいて」
「ど、どうしてですか? PRTSがあれば、遅かれ早かれ……」
「PRTSの端末は、机に隠しておいた。三日も眠っていたなんて知ったら、ドクターはすぐにでも復帰しようとするでしょ。勤務時間も落ち着いてきて、ようやく医療部の話も聞いてくれるようになったんだから。今は無理されたくないんだ。ただでさえ訳の分からない状態なんだし」
「それは、そうですが……」
ロドスに引っ張り戻しからというもの、仕事漬けにしてしまっている自覚のあるアーミヤは、ちょっと後ろめたい気持ちになる。
ドクターの立場、ロドスの使命を考えれば、当然やらねばならない仕事ではある。ただ、ケルシーやフォリニックが、ドクターが仕事を理由に様々な指示を無視していると愚痴を零していることも知っている。
何より、女性になって一番苦労しているのはドクターだ。無理にでも仕事から離す必要はあるだろう。
アーミヤはもやもやとした気持ちを抱えつつも、不承不承頷いた。
「どうせ、日付のことは復帰したらすぐにバレるんだ。今だけ、気付かずにゆっくり休んでくれればいい。だから、お願いね」
「わかりました。ススーロさんは、これからどうなさるんですか?」
「一度医療部に戻って、今日一日分の経過観察の報告に行ってくるよ。その間、アーミヤはドクターと一緒にいてあげて」
ススーロはアーミヤの耳に口元を寄せると、少々語気を強めて言う。
「何があったかは聞かないけど、これを機に仲直りするといいよ。君とドクターがぎくしゃくしているところなんて、誰も見たくはないからね」
「うっ」
それじゃあ、と告げてススーロはその場を離れた。
アーミヤは長い耳を萎れさせ、重い気分になりながら、ドクターの私室の扉をもう一度開く。
ドクターは変わらずベッドに腰かけていたが、顔を俯け、うつらうつらと体を揺らしていた。
薬の副作用か、それとも日頃の疲れのためか。アーミヤはドクターの傍によると、起こさないようにベッドへ横たえてやる。
随分と軽い。ドクターの片手を拾い、上下から優しく包み込むと、違和感を覚えた。
ドクターの手は、記憶にあるものより薄く、指も細い。そんな気がした。
「ドクター……」
アーミヤは、重ねた手に額をつける。
バベルが崩壊し、ドクターと離れ離れになる直前。あの“戦争”末期の折りに漠然と感じていた不安が今、はっきりとした形を持って、名を呼べるまでになっていた。
このままドクターは、自分の知らない、別の誰かになってしまうのではないか。
そうなれば最後、ロドスのことも、自分のことも忘れて、どこか遠い場所へ行ってしまうのではないか。
少なくとも、レム・ビリトンで出会い、親代わりとなってくれたあの頃のドクターには、もう二度と会えなくなってしまうのではないか。
アーミヤは、両手にきゅっと力を込める。
窓から差し込む夕日の熱が、胸を切ない火で炙る。
そのまま日が暮れ、一日とともに寝入ってしまうまで、アーミヤはずっとそうしていた。