左耳のすぐ真横で、ドン、と低い音がした。
ニェンの手のひらが壁を打った音だ。当の本人はと言えば、誘拐してきたドクターを壁際に追い詰め、至近距離でドクターの顎をクイッと持ち上げている。
今のドクターは、マスクとフードを取り払った状態だ。当然、来る途中で奪われたのだが、なんとかそれだけで済んだ。しかし今、それさえも危うい。
影がかかり、どこか妖艶な雰囲気を醸し出すニェンの顔に、不覚ながらドキリとさせられつつ、彼女の後方に鎮座するトルソーを見やる。
バイビークが持って来たそれは、炎国の伝統的な衣装を下にデザインされた、ドクター用の服であった。
何度かニェンやシーが、私服として着ているところを見たことがある。ただ、用意された服は、胸から上と腰から下を覆う形で、胴回りはあっぴろげとなる形。太ももの下半分が見える程度のスリット、胸元には切り絵を埋め込んだような穴が空き、肌の色が良く見えるようになっていた。
反面、両袖は長くゆったりとしていて、スリットから覗く左足にはハイソックスを履く予定らしい。靴は黄昏を過ぎた空のように暗い青。磨き上げられた表面に、照明が星の如く映り込む。
率直に言って、かなりフェミニンで大胆だった。
「おい、ドクター。着ろよ、衣装」
「い、嫌だ……!」
圧力のあるニェンの声を、首を振って追い払おうとする。
しかしニェンは、ドクターの右耳に口元を近づけると、低くしっとりとした声音で囁いた。
「着ろよ、お前のステージ衣装。悪いようにはしねぇからよ」
背筋が強くざわめいた。
普段のカラッとした、ニェンの軽薄な態度からは想像もつかなような艶やかな声。
股下に差し込まれた膝が、防護服越しに太ももをさする。痺れにも似た感触が、足の付け根にまで這い上がってくる。
未知の感覚に動揺しながらも、ドクターは首を振って顎を固定する手を振り払った。
「百歩譲って映画の出演はいいだろう、だがそんな恥ずかしい服、私は着ないからな……!」
「あァ? 普段私が着てる服と大差ないだろうが。それともなんだ、私の普段着を、恥ずかしい服だって思ってたのか?」
「君が着る分には構わないが、自分で着るのは嫌だ」
「どういう意味だ、オイ!」
それまで纏っていた妙なオーラが剥がれ、いつもと変わらぬ様子で憤慨するニェンから視線を外し、ドクターはトルソーの傍らに立つバイビークを見つめた。
バイビークは顔を覆う両手の、指の隙間から事態を見守っていたのだが、ドクターと目が合うなり、顔を背けてしまう。
「バイビーク、君は君で、なぜそんな衣装を! 着せる相手が私だって知っていたのか?」
「その、ええと、はい……」
申し訳なさで胸をいっぱいにしながら、バイビークは衣装制作の経緯を思い出す。
事の発端はクロージャで、ニェンの映画について文句を言ったことがはじまりだったらしい。
そこからふたりの間で口論になったのだが、途中でクロージャがこう提案したそうだ。“ドクターをヒロイン役で出してみないか”、と。
そうしてとんとん拍子に事が進む。ニェンがプロデューサーを担当し、台本を含む各種用意はクロージャが受け持つことに。その用意の一環として、バイビークに衣装を手配してきた。
オーキッドも交え、クロージャと三人で衣装作りのアイデアを詰めていくうち、気付けばバイビークの創作意欲は頂点に達していた。
最近、ドレスコードを満たすべく、ドクターの採寸を行ったことも大きな要因だ。採寸のために、ドクターの裸体を観察する機会もあり、そこにファッション雑誌の編集者だったオーキッドの意見が加われば、もはや手は止まらなくなってしまい、気付けば完成させてしまっていたのである。
だが、いざこうして嫌がられてしまうと、ショック以上に申し訳なさと後悔が、火山噴火のように噴き出してくる。うまい具合に、クロージャの口車に乗せられたような気がしなくもない。
最も、“絶対に似合うから着てほしい”という想いが、今のところ一番強いのだが。
「うう、ごめんなさい、ドクター。でも一度だけ、せめて一度だけでいいので着てくれませんか?」
申し訳なさの滲んだ上目遣いでお願いされ、ドクターは言葉に詰まってしまった。
断固として拒否したいのだが、そういう顔をされると弱い。辛うじて首を縦に振ることは無かったが、それでも動けなくなった。
ニェンは溜め息を吐いて、そんなドクターから体を離す。
諦めてくれたのか、と思ったのも束の間の事。
「しょうがねえなぁ。おーい、ラヴァ、エフイーター! ドクター着替えさせるぞ、手伝え!」
「なっ、待て、ちょっと、やめっ……ああああああああああ!?」
一足先に着替えを終えていたエフイーターに、嬉々として服を奪われたドクターの悲鳴が、更衣室に響き渡った。