そんなわけでシリアス回。
「はぁー……」
ドクターは深い溜め息とともに、ベッドに身を投げ出した。
過酷な撮影、慌ただしい祝賀会を終えて、ようやく戻ってきた今となっては、既にへとへとに疲れ果てている。
衣装は撮影時そのまま。着替えるだけの気力も無く、そもそもどうやって部屋に戻ってきたのかも覚えていない。
そして、なぜ自分の部屋にニェンが上がり込んでいるのかも。
「そんなしみったれた顔してんじゃねえよ。名演だったぜ、ドクター。私ほどじゃないけどな」
「……どうも」
枕に顔を埋め、くぐもった声を適当に返す。
ニェンの気まぐれと自由っぷりには慣れたと思っていたが、案外そうでもなかったらしい。
映画撮影に誘われたり、急に買い物に連れていかれたり、麻雀の頭数に引っ張られたりと、振り回されることはそれなりにあったが、今回は群を抜いていた。
ニェンは勝手に椅子に掛け、ポデンコお手製のクッキーを無断で頬張りながら、理解できないとばかりに問いかけてくる。
「なあ、まだヘソ曲げてるのかよ。そんなに嫌だったか?」
「白状すると、かなり」
「そりゃあまた、なんでだ?」
枕に埋めた顔を少しずらしてニェンを見る。彼女はクッキーを頬張りながらも、真面目な面持ちをしていた。
ドクターは片目を枕に戻す。
「私が、私ではなくなりそうだから、だ」
ニェンは、ハッと目を見開いた。
クッキーを口に押し込んだ姿のまま、彫像のように動かなくなる彼女を見ることなく、ドクターは胸中の不安を滔々と語る。
誰にも言わないように、と喉の奥に押さえつけていた本音は、疲労でタガが緩んだか、すらすら流れ出ていく。奇しくもそれは、月経で倒れた際、見舞いに来たアーミヤが押し込めていたものと、よく似ていた。
「この頃、不安が大きくなっている。もしかしたら、私はずっとこのままで、もう二度と元には戻らないのではないか、と。……私には、過去の記憶が、あまりない。ブレイズが言うには、記憶喪失になる前の私と、今の私は別人と考えた方がいいそうだ。なら、記憶を失い、元の肉体まで失った私は、次は何に成り果てると言うんだ?」
「………………」
ボリッ、とクッキーを咀嚼する音が、ほんの一瞬だけ鳴った。沈黙が、ドップラー効果よろしく尾を引くようだ。
ニェンはクッキーの袋を置くと、彼女には珍しい、神妙な表情で考え込む素振りを見せる。
事ここに至って、ようやく、ドクターの置かれた状況を理解したのだ。ニェン自身、その不安はよくわかる。彼女と、彼女の兄妹は皆、少なからず同じような気持ちを抱えて生きているのだから。
巨獣“歳”と、十二人の代弁者。永い時を経て失われ、ひとつに束ねられる者。
ニェンはそのひとかけらでありながら、それを良しとはしていない。
ニェンはしばし考え込んでから、顔を上げた。
「その、なんだ……悪かった」
ドクターがもう一度、ニェンを見つめる。
疲労にくすんだ白い瞳から、逃げるように顔を背けた。
隣の椅子に置いた包みを掴み、ドクターへと放り投げる。中身は、ドクターから奪い取った服だ。
「ほらよ、さっさとシャワー浴びて着替えちまえ。あ、衣装は返せよ。ラヴァにでもくれてやるから。って、なんだよ、その目」
「いや……」
ドクターは訝しそうな顔をしたが、緩慢な動きでベッドから起き上がると、包みを開く。
乱雑に畳まれたフードやインナーなど、全てちゃんとそろっている。
解放されたからか、眠気の圧し掛かった目蓋を擦っていると、ニェンは早々に席を立った。
「私はもう行く。映画の完成、楽しみにしておけよ」
「本当にリリースするのか?」
「当たり前だろ。まあ、お前に無理やりその恰好させたのは悪かったけど、他の奴らの手前もあるし」
「それもそうだな。はあ」
「そんな嫌そうにするなよ。お前に女優を任せるのは、これっきりだ」
「有難いことだ。……いや、待て、つまり他の役で出ろと?」
「おう、イカした男の役を用意してやるから、期待して待ってろ」
得意げなウィンクをくれるニェンに、嘆息を隠せない。だが、いたいけな少女の役をやらされるよりはマシか。
だが、結局お姫様役の映画が公開されることに変わりはない。一体、オペレーターから何を言われるやら。
これが元で自分の女装が流行り出したらと思うと、気が重い。
暗澹たる気分になるドクターを余所に、ニェンは部屋を出ていった。
しばらくして、彼女は重い体を引きずりながらシャワーを浴びていたドクターの下に、火鍋を持って戻ってきた。
珍しく辛さを控えめにし、羽獣の卵まで落とした火鍋は、いつもこうなら大好評だろうにと思うほどの美味であった。