ロドス本艦、療養庭園。
パフューマーとビーンストークが、住み込みで花やハガネガニの世話をする空間は、ロドスにいる多くの人にとって、憩いの場のひとつとなっている。
ともすれば、屋内であることを忘れてしまいそうな土と花の香り。とことこと横歩きをする小さなハガネガニたちと、それについていく幼い患者を見ていると、長いデスクワークで凝り固まった肩から力が抜けていくようだった。
「ドクター?」
「こんにちは、ナイチンゲール。今日はひとりか?」
「いいえ。シャイニングさんなら、あちらに」
木製のベンチに腰かけたナイチンゲールの視線を追うと、少し離れたところで、黒衣と白い角が特徴的なサルカズが、困り顔で立ち尽くしていた。
彼女の前には、縦一列に積み上がったハガネガニ。シャイニングが右に体を傾けると、彼らも同じように傾く。
崩れるのではと心配になるが、一番したのハガネガニがちょこちょこ動いて位置を整え、バランスを取る。あれもビーンストークの調教の賜物だろうか。見事なものだ。
ドクターはナイチンゲールの隣に腰を下ろすと、どちらともなく微笑み合った。
「いつからあんな調子なんだ?」
「それほど経ってはいませんよ。十分か、十五分か。どうやら気に入られてしまったようです」
「ビーンストークに見つかったら、熱い営業トークが始まりそうだな」
シャイニングの足元にも数匹のハガネガニがいるのを見つけて、小さく苦笑する。
こちらに気付いたか、アイコンタクトで助けを求めてくる彼女に、手を振った。
流石にあのハガネガニの塔を安全に解体するには、ビーンストークの手を借りる必要がありそうだ。
商魂たくましいレプロバの少女を探して療養庭園を見回すが、彼女は不在の様子。
代わりに、土の入った袋を運ぶポデンコや、花に水をやるロープ、新芽の間引きをするエンカクの姿が見えた。
「パフューマーは恐らく奥にいるとして、ビーンストークは?」
「ビーンストークさんなら、しばらく前に、ハガネガニをもらった患者の子に呼ばれて、どこかへ行ってしまいました。そういえば、遅いですね」
「後で様子を確認しよう。となると、シャイニングの救出には、もう少し時間がかかりそうだ」
「ドクターは、どうしてこちらに?」
「見回りだ」
女になる前から、ドクターは暇を見てロドスを巡回していた。
オペレーターや患者の様子を確認するのが主な目的で、エンジニア部や療養庭園にも顔を出す。日々増えていくロドスの人員や、改装を繰り返す施設の状況を確認するのも、ドクターの仕事だ。
レユニオン絡みのごたごたで忙しかったり、カジミエーシュの摩天楼のように連なる書類の山に埋もれたり、とにかく優先して処理する仕事が多い都合であまり出来なかったが、最近は事務仕事を手伝ってくれるオペレーターも増えたことで、こうしてロドスの様子を見ることができるようになった。
もっとも、最近は色んなオペレーターから、変な絡み方をされるようになっていたため、滞っていたのだが。
「君の方はどうだ、ナイチンゲール? 体調は」
「おかげさまで、比較的楽に過ごせています。誰かのお手を煩わせなければ、ろくに動けないのは変わりませんが」
「悩むことは無い。ロドスは、元からそういう目的で運営されている。助けが必要なら、遠慮なく言ってほしい」
「本当に、ロドスの皆さんは親切ですね」
ナイチンゲールの笑顔が、憂いに煙る。
その表情から、彼女が何を想っているのか、正直測りがたい。彼女自身も、はっきりと口に出来ない類のものかもしれない。
ただ、この頃は柔らかく微笑む回数が増えてきた。それだけでも、充分な進歩だ。
ドクターはマスクを外すと、花の香を胸いっぱいに吸い込んだ。
パフューマーたちの努力のおかげか、療養庭園には虫がいない。清涼な空気をじっくりと吸い込んでいると、ナイチンゲールが意外そうに問うてくる。
「ドクターも、マスクを外す時があるのですね?」
「四六時中着けているわけじゃないさ。……最近は、無理やり引っぺがされることも増えたが」
「ふふふ」
ベンチの背もたれに体重を預けるドクターの頬に、柔らかくひんやりととした感触が触れた。
ナイチンゲールの手のひらだ。
「私は、素顔のあなたの方が好きですよ。フードを被っている時よりも、なんだか安心するんです……」
ドクターは目を丸くしてから、破顔した。
被っていたフードを後ろに倒して、素顔を見せる。そうすると、何故だか重荷を少しだけ下ろすことが出来たような、そんな気持ちになった。
「素顔か。近頃は、正直鏡を見るのも疲れてしまうんだが」
「そうなのですか?」
「ああ、色々ありすぎて」
そうやって打ち明けた自分の顔が、どんな笑みを浮かべていたのかわからない。
自分の心持ちを把握する前に、目の前で黒いカーテンが閉ざされた。
ハガネガニに取り囲まれていたシャイニングが、ドクターのすぐ前に、瞬間移動のようにやってきたのだ。
「シャイニング?」
サルカズの剣士は無言で、ドクターの顔を覗き込んでくる。
暗く、冬の夜風のような冷たささえ感じる瞳が、じっとこちらを凝視していた。
息の詰まる時間だった。離れたところで、シャイニングを見失ったハガネガニたちがバランスを崩し、あたふたとしている。
ドクターは不安になって、もう一度シャイニングの名を呼んだ。
彼女は何度か瞬きをしてから、ずっと止めていた呼吸を再開する。彼女は静かに謝意を示した。
「申し訳ありません。人違いでした」
「え?」
「……なんでもありませんよ」
シャイニングは言うと、ナイチンゲールを挟んでドクターの反対側に腰かけた。
ドクターもナイチンゲールも、その様子に気になるところはあったが、結局シャイニングは、それ以上何も言わなかった。
突然の剣幕も、誰と間違えたのかもわからないまま、疑問符を浮かべるドクターを、花の世話を終えたエンカクが遠くから見ていた。