戦争の話早くして鷹さん!
「待て」
低い制止の声をかけられ、ドクターは振り返る。
しかし、声の主はそれを待たず、ドクターの手首をつかんで、背中を廊下の壁に押し付けた。
至近距離から見つめてくるのは、熔鉄の輪郭が放つような金色をした瞳。
額から伸びる、節くれだった二本の角を見るまでもなく、それが誰だか気が付いた。
「エンカク!? 一体、何を……!」
エンカクは戸惑うドクターのマスクを引っぺがして捨て、顎をつかんで上を向かせる。
ドクターは思わず息を呑み、エンカクを振り払おうとするが、力の差は歴然。
壁と屈強なサルカズ傭兵の体に挟まれたまま、動けなくなった。
握りしめられた手首が痛い。なんとかそこだけでも自由にしようとするが、叶わない。
やがて、エンカクは納得したように鼻を鳴らした。
「……そうか」
「え?」
思いのほか、あっさりと解放された。
エンカクは興味を失ったとばかりに背を向けて、療養庭園に戻ろうとする。
鈍く痛む手首を抑えながら、今度はドクターが制止した。
「待て、エンカク。私に何の用だったんだ?」
「用は済んだ」
「その用がなんだったのかと聞いているんだが」
「確認だ。遠目ではなく、近くで確かめたかった。まあ、俺の記憶に間違いがなかったという、ただそれだけの話だ」
「何を言っているか、さっぱりわからない」
「なら、気にするな。お前はお前だ」
眉をしかめて首をひねっているうちに、エンカクは庭園にさっさと入っていってしまった。
何が何だかわからない。ドクターは投げ捨てられたマスクを拾うと、軽く手で払ってから着け直す。
そこで、少しだけ固まった。
さっきは動揺していたから気が付かなかったが、向けられたエンカクの眼差しには、覚えがあった。
女性になってからしばらくした頃、ケルシーが似たような視線を向けて来ていたのだ。
あれは確か、患者たちに会いに行った時のこと。
医療オペレーターから物資や治療状況を聞き、オペレーターではない患者たちの様子を見ている時、偶然出会ったケルシーが、珍しくこちらを凝視して突っ立っていた。
彼女がひとりで何もせず、廊下に棒立ちすることなど、性格的にも考えられない。
それでもその時、ケルシーは息をするのも忘れて、こちらをじっと見つめていた。
最初は驚きが、次に訝しげに、何かを探るような瞳で。
ドクターが何か言う前に、彼女は身をひるがえして去って行ったが、今思えば、先のシャイニングやエンカクと、似た雰囲気をまとっていたように思う。
ドクターは、マスクに隠した自分の顔に指で触れる。
彼女たちは、一体自分に誰を重ねていたのか?
指先が冷える。
胸の内に乾いた風が吹く。
足元の床がぐにゃりと歪むような、不気味な感覚に襲われた。
その感覚と、もたらされる感情が言語化される前に、ドクターは誰かの気配を感じて顔を上げる。
前方、廊下の分かれ道の角から、テンニンカが顔を覗かせていた。
重ねた両手で口元を隠し、大きく見開いた瞳をきらきらと輝かせている。
ドクターは首を傾げた。
「テンニンカ? そこで何をしているんだ?」
「……だ」
「え?」
小声で何事か呟いたテンニンカは、はわ、と妙な声を上げて叫んだ。
「壁ドンだ! ドクターがエンカクに壁ドンされてた!」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか理解が出来ず、ポカンとしてしまう。
壁ドンという単語自体は知っている。前にクロージャやシラユキと共に見たドラマで、そういうシーンが出てきてクロージャが騒いでいた。
確か、男性が意中の女性を壁に追い詰める具合のポーズだったような。
―――壁ドン? 私が、エンカクに?
無い。一秒で否定の言葉が導き出された。彼に限って、そういうことは絶対に無い。
だがそれを口にする前に、テンニンカは身をひるがえした。
「壁ドンだ! ドクターが壁ドンされてたー!」
「ま、ま、ま、待て、テンニンカ! 違う、君は明らかに勘違いしている! 騒ぎながら走るな、待ってくれ!」
赤い風のように駆けだしたテンニンカの後を追いかけて、ドクターは大慌てで走り出す。
その後、騒ぎを聞きつけたエリジウムやら、パゼオンカやら、その他女性オペレーターやらに様々な危機をもたらされそうになりながら、なんとか捕まえて説得に成功したのだった。
「……と、いうことがあってね。はあ、また変な噂が流れないか、正直心配で」
「そ、それは……ご愁傷様です……?」
全て打ち明け終えると、流石のハニーベリーも反応に困っていた。
軽く苦笑して頭を撫でる。ハニーベリーはくすぐったそうに微笑み、いそいそとくっついてきた。
ドクターの恋愛沙汰、と言われても、なんだかピンと来ない。
ドクターは誰にでも優しく、その時に見せる笑顔は―――こう言ってはまたドクターを悩ませてしまうかもしれないが―――我が子を愛でる母親のようである。
誰に対してもそうなので、恋愛の時に見せる表情というのが想像できない。
きっと他のオペレーターもそうなのだろう。
だからこそ、だろうか。テンニンカがドクターの恋愛シーン(早とちり)にときめいていたのは。
「すみません、ドクター。私にはちょっと」
「聞いてくれるだけで、少し楽になるよ」
「それなら、いいんですけど」
ハニーベリーはドクターの顔を見上げる。
相も変わらず優しい瞳。その奥に、何か別の悩みを抱えているような気がしてならない。
カウンセラーとしては、そうした悩みを無理に引き出すのは御法度だ。あくまで、相手が口にしてくれるまで、待つのがセオリー。
けれど、それで本当に大丈夫なのだろうか。それだけが心配だった。
「ドクター、お茶のおかわりはどうですか? ポデンコちゃんが、色んなフラワーティーを持ってきてくれたんです」
「じゃあ、一杯頂こうかな」
「おやつもまだありますから、好きな物を食べてくださいね!」
「ありがとう」
ハニーベリーはいそいそとソファを離れ、ポットにお湯を注ぐ。
湯気に乗って舞い上がってくる花の香り。それを手にテーブルに持っていくと、優しいお香のようだ。
ドクターはマスクを外して、空気に溶けていく残り香を嗅ぐ。少しリラックスした表情を見て、ハニーベリーは言った。
「何度も言いますけど、悩み事は隠さずに言ってくださいね。抱え込めば抱え込むほど、重くなっていってしまいますから」
「そうだな、確かに、そういうものだ」
そう呟いて、ドライマンゴーをひとつ頬張る。
硬い実にゆっくりと奥歯を食いこませながら、ドクターはささやかなティータイムを楽しんだ。