雪原。
一歩踏み込めばふくらはぎまで沈むほどの深い雪に覆われた地を、ドクターはぐるりと見回した。
あたり一面、白く平らに
気温は低いが、陽射しと凪いだ天候が着込んだ防寒着を温める。マスクの下に籠もる湿った温もりも忘れて、ドクターは感嘆した。
「改めてみると、凄いな。こんな場所があったとは」
「ねー、あたしもここまで広い雪原を見たのは初めて!」
隣のマゼランが双眼鏡を下ろす。その下は、陽光を受けて輝くトパーズのような、きらきらした目だ。
「そうなのか? 君なら、こうした雪原のひとつやふたつ、発見してると思っていたが」
「ううん、あたしが行くのは、山になっていたり、崖になっていたり、森になっていたり、源石の結晶が生えていたりするところだから。こんな走り回れそうなところ、見たことが無いんだよ」
「アスベストスに感謝だな」
振り返ると、雪を退かして設置された仮設テント。
その前に置いた簡易なキャンプチェアには、苦虫を噛み潰したような表情の、サヴラの冒険家が腰かけていた。
膝に肘をついて頬杖を突いた彼女の表情は、明確にうんざりしている。
何にかは、彼女を知る者には明白だ。
「なあ、おい。アタシもう帰っていいだろ?」
「ダメ! ここで抑制剤をもらう手筈なんでしょ? それまではここにいないと」
「うるせえな、アタシは別に病気がどうとか、興味ねえんだよ! つか、ここまで案内してやったんだから、もういいだろ? 鉱石病より、退屈で死にそうだ」
「今は、それなりに人数も多いからな。すまない、アスベストス」
「チッ」
顔をしかめて、聞こえるように舌打ちをしてくるアスベストスに、ドクターはほんのり苦笑する。
マゼランは、彼女が心配で仕方がないようだ。
元より人嫌いで、単独での冒険を好むアスベストスにとって、平和な雪原に大所帯など、それはもう退屈で仕方がない環境だ。
加えて、同行者が同行者である。不機嫌になるのも当然だった。
「ドクター、基地局の設置が出来たよ!」
「お疲れ様、オーロラ。ノーシスは?」
「例のお花を見て、作業してる」
「わかった。必要な物資と人数の概算はメモしてある。ここにノーシスが必要だと思うものを付け加えて、クロージャに連絡してくれ」
「うん! あ、アスベストス、そこにずっと座ってたら寒いでしょ。ココアを持ってくるね」
「いらねえよ、アタシに構うな!」
アスベストスが噛みつくように吠えるが、オーロラは既にテントの中に戻ってしまっていた。
彼女の傍まで戻ってきたドクターは、ポケットに入れていたスキットルを投げ渡す。
「あ? んだよ、これ」
「イェラグの酒だ。今朝、シルバーアッシュに持たされた。マゼランも、後で飲むか?」
「いいの? イェラグって、オーロラちゃんの故郷だよね?」
「彼女も、自分の分を持たされている。ノーシスもな」
スキットルの蓋を開け、アスベストスは怪訝そうに匂いを嗅ぐ。
早くもひと口呷ると、機嫌は多少直ったようだった。
「ふーん、悪くねえな。ドクター、こっち来いよ。一杯付き合え」
「ああ。だが、飲みすぎるなよ。物資を運んでくるのは、ハイビスカスだ」
「げっ、あの健康食のクソガキか」
「潰れていると知ったら、長く説教されるぞ」
「チィッ」
アスベストスは渋い顔で、ちびちびと酒に口をつけた。
ドクターはその隣に腰かけ、取り出したメモ帳とレコーダーで記録を残す。
今回、ロドスを離れて雪原までやってきたのは、マゼランが探索途中で発見してきた“花”のためだ。
ライン生命より早くサンプルを手にしたミルラにより、その花には特殊な薬効成分が含まれていることが判明した。
だが、療養庭園における栽培の試みは失敗。パフューマーたちの提言により、原生地に近い環境での栽培実験が行われることになる。
そこにちょうど、半年に一度の帰艦を果たしたアスベストスが、酒の席で漏らした“退屈な場所”―――つまり、この雪原に研究室を作るという案を、ドクターが提示して、今に至る。
現在は下見と、設置する研究所の規模、資材搬入ルートと通信基地の確立、冷凍保存したサンプルのチェックが目的だ。ついでに、次の冒険に旅立つアスベストスの物資補給も兼ねている。
アスベストスは、さも当然のような顔をして、椅子を持って来たマゼランをじろりと睨む。
「なあドクター、アタシを嫌うのはいいがよ、嫌がらせするぐらいなら……」
「そう斜に構えるな。私にとって、君のような人物は貴重なんだ」
「半年に一度しか戻ってこない冒険野郎がか?」
「色々気にしないでいてくれる人が、だ」
ドクターは猫背気味になって、膝に置いたメモを取る。
こうしないと、胸が邪魔で手元が見えなくなってしまうからだ。
こうすると、妙に積極的な女性陣から注意されるのだが。
女性になってからというもの、捻じ曲げられた習慣は多い。
オペレーターたちの反応も、前とは変わってきている。それなりに時間が経っているので、ある程度の落ち着きこそ見せているが、それはむしろ、ドクターに危機感を抱かせるものでもあった。
そうした中にあって、アスベストスやスルト、トギフォンスなど、何も気にしないでいてくれる者の存在は、とても有難い。
酒が入って少し機嫌が直ったアスベストスを挟んで、ドクターとマゼランはペンを走らせる。
考えることは山積みだ。研究所の見取り図作成案、完成までのあれこれ、物資や研究データの輸送について。
マゼランはマゼランで、ライン生命に提出する報告書を書かねばならない。彼女を通して、研究に一枚噛ませられれば、より多くの研究費用や機材が手に入る。
「つくづくご苦労なこったな。紙切れの山に囲まれて、手にペンだこ作ってよ」
「君は冒険を記録しない主義か、アスベストス?」
「しないね。必要もねえ」
「ええ、それじゃあ勿体ないよ。せめて写真だけでもさ」
「いらねえっての。そんな時間ねえんだ、こうやってボヤボヤしてる時間も惜しい」
「君が逃げ出そうとしなければ、ここで医療物資を待つ必要もなかったんだが」
「こんなことにならなきゃ、アタシだって、もう一杯引っかけてから出たっての」
憎まれ口の応酬が、深い雪の中に吸い込まれていく。
やがて、その輪にオーロラが加わった。寒冷地帯でも使えるキャンプコンロを設置して、火をつける。
ほどなくして火の粉の爆ぜるパチパチという音が、他愛のない会話に花を添えた。
網の上に三つ置かれた、炭火でも煤けないケトルが炙られるのを目端で捉えつつ、ドクターは見取り図をオーロラに手渡す。
「たくさん建築資材を注文してたから、もしかしてと思ったけど、結構本格的だね。雪解け水を利用した濾過装置に、源石粉末を集積・凍結保存する設備まで……。あっ、この防衛設備、もしかして私の?」
「君の成果の応用だ。天災を凌いだ君の盾については、マゼランから聞いている。そこにライン生命の“共振”技術を加えることで、より強固なものにしたそうだ。特許料は、ちゃんと入っていたか?」
「入ってたけど、ねえドクター……」
「気にするな。あれは、君が受け取るべき報酬だ。君がさらに先へ進むための」
「でも……」
申し訳なさそうに首を縮めるオーロラに、ドクターはココアを淹れてやる。
オーロラは躊躇いがちにカップを受け取り、チョコレート色の水面を啜る。
少し、カカオパウダーが多かったようだ。
彼女に特許を取るよう勧めたのも、ドクターだった。
「その躊躇を忘れないでくれ、オーロラ。躊躇う限り、君が道を誤ることはない」
「そんなこと言って、オーロラちゃんが道を踏み外す心配なんてしてないんでしょ、ドクター?」
「ふ。マゼラン、ココアは?」
「淹れてくれるの? 飲む!」
「アスベストス、君は?」
「アタシはいい。酒を寄越せ、酒を」
「健診の前に、飲みすぎるなよ?」
「お前も飲むんだよ!」