夕日の中、すぅ、すぅと耳元で小さな寝息が立っている。背に背負ったヨルダのものだ。
新技を開発して疲れたのか、戦い終わった後にうつらうつらと船を漕ぎ始め、隣に立っていたイクスを枕に眠ってしまった。流石にイクスも疲弊してフラフラになっていたので、レグラムに来てから一戦もせずに体力が有り余っているお姉ちゃんが妹を背負うことにしたのだ。
リィン達の厚意でこのままヨルダをアルゼイド邸のベッドへ寝かしに行くことになり、付き添いのエマとミリアムと共にゆっくりと道場からアルゼイド邸へ歩いていた。
「ふふ、こうしていると普通の女の子ですね」
「そりゃまだ9歳だからな。こいつも、イクスも」
エマに返事をして、よっこいせ、とずり落ちてきたヨルダを背負い直す。
すると、隣でジャケットの裾を握っていたイクスがぶうと頬を膨らませ、姉の顔を覗き込んだ。
「まだってなんだよ」
「ガキってこと」
「はぁ? そこら辺の9歳よりシャカイケーケン豊富だし」
「そうやってムキになる所とかがまだガキだって言ってンの」
言い返せなくなったイクスは、ラフィの横っ腹をポカポカと殴りはじめた。
力加減をしてくれているのか、そこまで痛くはない。いつものじゃれあいだろう。ラフィは声を上げてカラカラと笑う。
「ふふん、ボクは13歳だからイクスよりも年上だよっ」
「にしてはミリアムってチビだよなー」
「あっ言ったな!? 」
「やべっ」
けっこー気にしてるんだけど!
ならもっと牛乳飲めよっ
口喧嘩を始め、駆け出し階段で追いかけっこを始めたミリアムとイクスに転けるなよ、と注意しつつ、ラフィは目尻を下げて微笑んだ。
「……むぅ……」
「あ……」
「起こしてしまいましたかね」
ふと、寝息が聞こえていた右耳から妹の唸り声が聞こえる。起こしてしまったかと焦った年長二人をよそに、ヨルダはもぞもぞとポジションを調整し……
「……おねえちゃんの、におい……おち、つく……」
一度身じろぎしてそう呟き、首元に額を擦り付けてから、ヨルダは再び寝息を立て始めた。
「……あたしって匂う?」
「うーん……ちょっと失礼しますね」
エマが一言断りを入れ、すん、と首元で匂いを嗅ぐ。
「コーヒーと、ちょっとだけ海の匂いがします」
「えぇ……? その二つって共存できるんだ……」
「はい。独特ですが、なかなか落ち着く香りですよ」
しばらく海には近寄ってないんだけどな、と唸り、階段の一段目へと足を踏み出す。
服についたと考えれば、あのブリオニア島の実習の時に染みついたのだろうか。わずか3日で。
しかもそこから何度かクリーニングに出しているはずだが……
「まあ、ヨルダちゃんが落ち着くなら良いんじゃないでしょうか」
「……それもそっか。おし、気合い入れて上がるぞ」
細かいことは気にしない、の精神だ。
ゆっくりと階段を登り切った後、エマがそっとアルゼイド邸の扉を開ける。
追いかけっこですっかり疲弊した子供たちは肩で息をしながら部屋へ歩いていき、一人は寂しいからとイクスも女子部屋へと足を踏み入れた。まだ幼いからこそ許される行動だ。
ベッドに寝かせたヨルダは念のため持ってきていたラフィのパーカーを抱き枕にして眠っている。
そのヨルダの腰を枕代わりにイクスが寝転び、これまたヨルダが持ってきていた小説を静かに読み始めた。
「ねー、小説って面白いの?」
「わぶっ」
それをミリアムが横からつつく。
驚いて顔面に闇医者グレンを落としたイクスは顔から小説を浮かせ、姉とそっくりな色をした瞳を影から覗かせた。
「まー、そこそこ? 暇つぶしにはなるぜ」
「ふ〜ん……一冊貸してよ」
「そこに積んでる」
イクスが指を刺した先にはヨルダが既に電車で読み尽くした小説が鞄から少しはみ出して見えていた。
一番表面にあるのは『聖女と白い狼』。クロスベルの民話を元にした短編小説だ。
ミリアムは双子と同じベッドに寝転がると、なんとなくで手に取った『聖女と白い狼』を開く。
ベッドとは反対側に設置されたテーブルから、子供達を眺めていたエマはゆっくりとアルゼイド邸の侍女から出された紅茶を飲み込んだ。
霧で冷えた体に温かい飲み物はよく沁みる。ほう、とため息をついて、そっとカップを机に置いた。
「それは……クロスベルタイムズですか?」
「ん? あァ、そうだぞ」
同じく紅茶を味わいながら膝に週刊誌を広げたラフィが、エマの問いかけに頷いた。
クロスベルタイムズ。帝国と共和国によって揉みくちゃにされている渦中の地において最も信頼のおける週刊誌だ。
「一応、通商会議について情報は集めとこうと思ってさ。ワジ……じゃなくて、現地に住んでる友人に色々聞いてはいるんだけど」
「通商会議……そういえば、オリヴァルト殿下も御出席されるんでしたっけ」
西ゼムリア通商会議、いよいよ開催!
そんな見出しで始まるクロスベルタイムズ。各国の首脳の紹介も続き、その面々を眺めてため息をつく。鉄血に共和国の狸が揃うのだ、従妹の言う“盤面”がひっくり返しにひっくり返されて大変なことになるだろう。
それに真っ向から立ち向かおうとしている友人二人を思い出すと、心がなんだかざわめいて。
────通商会議ぃ? 厄ネタだろあんなモン。ノータッチだ、ノータッチ! 匂いすぎて鼻が曲がる!
……“同業者”の反応といい、どうも妙に胸騒ぎがする。
神経を逆撫でされるような感覚と、体全体にずぅんと重くのしかかる緊張感。極め付けには今月に入ってからやたら静かな“天使”だ。
何かが起こる。そんな確信めいた予感がラフィを焦らせていた。
「当日にはあたしたちも会場近くには行くんだ。知っておいても損じゃないだろ」
「……それも、そうですね。何が書いてあるんです?」
「出席する人とか、市内の反応とか……あとはオルキスタワー? が同時にお披露目、とか」
誌面には青い布を被せられた巨大な何か────オルキスタワーを下から見上げるような構図で撮った写真が掲載されている。
「あぁ、ゼムリア一の高さを誇るっていう。今回の会場もそこでしたよね」
「高けりゃいいってモンじゃないと思うんだけどなァ」
「そこは、ほら。高層ビルは技術の進化の証でもありますから」
そういうもんかね、と呟いて、再びクロスベルタイムズへと視線を落とす。
(……ま、クロスベルにはワジが居るんだし、大丈夫か)
メッセージカードにも二人を頼むと添えておいた。星杯騎士がついているとなれば、よっぽどのことがない限り安全だろう。
「……あら、皆さん帰ってきたみたいです」
ふと、エマが顔を上げる。
確かに外から人の話し声が聞こえる。侍従の人達が騒がしく早足で歩く音も。
顔を上げたラフィに、エマは空っぽになった自分のティーカップを手に微笑んだ。
「少し様子を見てきます」
「ん、行ってらっしゃい」
トコトコと部屋を出て行った長い三つ編みの先を眺めながら、再びゆったりとソファに沈み込む。
クロスベルタイムズの残ったページは市内の高級クラブの広告や現地の遺跡の話ばかり。もう通商会議についての話題は無さそうだ。
パタンと閉じた雑誌を膝に置き、再び紅茶を味わおうと手を伸ばし、カップを持ち上げ、口に含んだ。
「ラフィ、居るかっ!!」
「んぐっ!? げほっげほっ」
自分の名と共に突然開かれた部屋の扉に飲み込みかけていた紅茶が気道に少しだけ入る。
げほげほと咽せたラフィに申し訳なさそうな顔をして、驚かせた犯人であるラウラが隣へとしゃがみ込んだ。
「す、すまない。驚かせてしまったな」
「ん゛んっ……いや、大丈夫。それよりどうしたんだよ、そんな慌てて」
胸を2、3回強く拳で叩き、呼吸を安定させる。
そうしてラウラに問い掛ければ、彼女は満面の笑みで立ち上がり、自分が開け放った扉を振り返った。
「ラウラ、少し落ち着きなさい」
「でも、その……父上に彼女と早く会って頂きたかったのです」
ラウラとよく似た色の短い髪が扉の枠から覗く。
水浅葱の色をしたロングコートの裾が揺れ、白いズボンに包まれた足がゆっくりと部屋に歩を進めた。
差し出されたラウラの手を取って、立ち上がる。そのまま引かれ、男性の前へと連れ出された。
「父上、こちらがラフィです!」
「あ……ど、どうも。ラフィ・ウィステルっす……」
突然の出来事に戸惑い、思わず首だけで会釈をする。
男性はじっとラフィの頭のてっぺんから爪先までじっと見つめ「そうか、そなたが」と感心したように呟いた。
「ラウラの父、ヴィクターだ。娘が世話になっているな」
差し出された手を反射で握ると、レグラムの亭主はニッコリと笑う。
────ヴィクター・S・アルゼイド。アルゼイド家現当主であり、アルゼイド流の真髄を極めし者。
人呼んで、光の剣匠。
ラウラによれば多少不器用で可愛らしいところもあるらしいが……それはそれ、これはこれ。
半分寝かけたミリアムが顔面に本を落とし悲鳴を上げると共に、女の首筋にも冷や汗と脂汗がごっちゃになってわけのわからなくなった液体がたらりと流れていった。