「……少しは落ち着いたか」
綺麗な湖面を見せるエベル湖。
そこに伸びる桟橋へ座り込んでいた友人に、リィンはそっと冷たい水の入ったコップを差し出した。
白い半袖を皺になるくらい握りしめ、ミルクティーの前髪を腕にくしゃりと乗せている。顔を上げる気配はないが、安物の腕時計が付けられた右腕が無言で伸ばされた。
「溢さないようにな」
「……ん」
小さな声と共に、コップがぎゅ、と握られる。
そうしてようやく、彼女は真っ赤に腫れた目を太陽に晒す。ず、と鼻水を啜って、コップの水を少しだけ飲み込んだ。
アルゼイド邸に帰って来たⅦ組が見たのは、派手な服装に身を包んだ、橙色の癖っ毛を持った男だった。
アルゼイド子爵と相対するその男を見た瞬間、ラウラ、ユーシス……そしてラフィの三人が、声を失った。
目を見開いて固まってしまった姉を心配して袖を引く双子を押し退け、階段を駆け上り、手のひらを強く握り締め……男を、殴った。
──── アンタの悪行、あたしは知ってんだぞ!! クソ親父!!
感情の昂りに呼応するように顕れた翼を見て、咄嗟にエマとリィンが走りだし、ラフィを彼女の父から引き剥がした。
立ち尽くしたまま何も言わない父親に、怒りを堪えるように、行き場のない拳をそっと下ろし、「頭を冷やしてくる」とだけ言って外へと飛び出してしまったのだ。
リィンは双子に頼まれ、ラフィを探しに出て来ていたのだ。彼女が自分たちの次に気を許しているのはリィンだから、と。
水はアルゼイド邸のメイドから持たされた。外へ出る間際に泣いているのが見えたから、と。
事実、彼女の白夜の周りは真っ赤だ。
「……父さん、何か言ってた?」
女は、ぽそりと呟いた。
確かにカイエン公は娘に殴られた頬をさすりながら、寂しそうに一言だけ呟いていた。
「儘ならないものだな、とだけ」
「ハハ……そっか」
手首の内側でぎゅ、と目尻を擦り、白夜が湖を見つめる。
凪いだ湖面は波立つ海とは似ても似つかず、彼女には少し似合っていなかった。
「ホントに白々しい。自分は結社と繋がってるくせに」
「結社って……あの機械仕掛けの魔獣の?」
「そう、それの生産元」
きっとあの人は四大名門全体を巻き込んで何かを企んでいるのだ。
そう宣うラフィに、リィンは曖昧な笑顔を返す。まだ確定していない事柄だからだ。
「あいつに雇われたって、結社の中でもヤバい奴がこの前バイト先まで会いに来たんだ」
「なっ……マスターと常連さん達は!?」
「大丈夫、全員無事。その日はメルキオルも居たし」
返事に安心したように息を吐いたリィン。
そんな友の様子に微笑み、女は突き抜けるような蒼天を見上げた。
「……アイツから父さんの名前が出た時、嘘だって思った。父さんは結社と手を組むほど落ちぶれちゃ居ないって」
「クロワール・ド・カイエン公爵、だったか。やっぱり、ちゃんとした人みたいだな?」
「うん。あたしとミルディーヌ……従妹の憧れだった」
アルフレド公と貴族の勤めを果たす父を見て、ミルディーヌといつかあの様になりたいと、よく二人で話したものだ。
すっかり氷の溶けた水を一気に喉へと流し込み、俯き、深い湖面を覗き込んだ。
「たった5年で、父さんに何があったのかなんて知らない。知ろうともしなかったんだから当然だ」
父は何を思って結社に手を貸しているのか。
父は何を成そうとしているのか。
自分が近くにいなかったから。
自分がそばで支えなかったから。
私がラファエラ・カイエンという役割から逃げたから、父は……こんな暴挙に走ったのではないか。
「なら、今からでも知っていけばいい」
ふと、友が口を開いた。
白夜を小さくまん丸にしたラフィに、リィンは笑って見せた。
「まだ大きな事件は起こってないだろ。手遅れじゃないさ」
一回、ちゃんと話し合ったほうがいい。
そう言って振り返った友の視線の先に、娘は父の姿を見た。
困ったように眉尻を下げて、たった一人で立っている。領邦軍も、あの妙な二人の護衛も連れずに。
「……とう、さん……」
未だ父の頬は赤く腫れている。
気まずくて俯くと、父が木板をゆっくりと踏みしめる音が、女の鼓膜を揺らした。
嗅ぎ慣れた海の匂いが、ふわりと漂う。父が昔から愛用している紺色のコートと、金の差し色が綺麗なブーツが桟橋の上に乗っていた。
そして、ゆっくりとしゃがんだ父の顔が、視界に映った。
「すまない、ラファエラ。苦労をかけた」
「……ぁ……」
5年ぶりに、大きな手がミルクティー色の上に載せられた。
ゆっくり、ゆっくりと、毛流れに沿って撫でられ。
真っ赤な目尻には、じわりと再び涙が滲んだ。
「帝都では上手くやっているようだね。私のところまで噂が聞こえてきたよ」
「別、に……こういう生き方しか出来ないだけだし」
「フフ、そうか」
翡翠を宿した垂れ目がゆるりと細められる。
ずび、と鼻水を啜った娘に、父はくしゃりと笑った。
「まだパパのことは嫌いかい?」
「……信用は、できない。どうせ“母さん”のこともまだ思い出せてないんでしょ」
「っ……あぁ……だが、倒れることは無くなったよ」
母の存在を口に出した瞬間、クロワールは眉を顰め、頭に手を添えた。冷や汗を流しながら、男は娘へと安心させるように微笑む。
それを見て、娘は目を見開いた。
「私とて、この5年間何もしてこなかったわけではない。あらゆる伝手を使ってでも……ママのことは必ずいつか思い出してみせる」
じっと、父の瞳を見つめる。
ただひたすらに真っ直ぐ、自分を見つめている。……どうやら嘘はついていないようだ。
「約束よ、父さん。破ったら許さないんだから」
「パパが可愛い娘との約束を破ると思うかね?」
「信用はできないって言ったでしょ! ……でも、母さんについては待っててあげる」
ぷい、と顔を背けた娘に、父は破顔する。典型的な親バカだ。
その父をちらりと見て、懐から第四世代の導力器を取り出し、軽くラインをなぞる。
やがて駆動が終わった導力器は初級回復魔法────ティアを繰り出し、頬の赤みを引かせた。
「どうせ今からバリアハートとかでしょ。ヘルムートさんによろしく」
「……フフ、本当にお前という子は……ありがとう、ラファエラ」
だって、会談に行くのに頬が真っ赤じゃ格好がつかないだろう。
父はすっかり元の色に戻った頬に手を当て、立ち上がった。
「シュバルツァーくん、だったか。ラファエラのことを頼んだよ」
「えぇ。無茶しないように見張っておきます」
「いやなんでリィンに頼むんだよ! んでお前も了承すんな!!」
余計なこと言ってないでほら行った、と父の背を押す。そして桟橋の付け根に立つチョビ髭の男へ向かって微笑み、手を振った。
やがて紺色のコートが見えなくなった頃、振っていた手を下ろし、じ、とリィンを睨みあげる。
「つか、お前のが限界超えがちだろ」
「じゃあ相互監視ってことにするか」
「だからあたしは無茶してないっての!」
どす、と肘で脇腹を突けば、リィンはバランスを崩してヨタつく。そして楽しそうに笑った。
「ラウラ達も心配してるし、戻ろうか」
「ウン。あーあ、なんかスッキリしたら腹減ってきた」
「もう昼時だもんな。宿酒場の魚介ピラフとか美味しそうだったけど」
「魚介かァ……良いな、だいぶアリ」
リィンのせいでもう完全に魚介の口だ。
お腹の虫が空腹を知らせる。安物の腕時計を見れば、短針はすっかり12を回っていた。
友が持ってきたくれた水を飲み干し、アルゼイド邸への道筋を辿る。再び晴れた心は、なんとなくレグラムの街を色鮮やかにしてくれた気がした。
『いい?ラフィ。 釣りってのはね、己との勝負なのよ』
かの爆釣王の言葉を胸に、川へと釣り糸を垂らす。
心頭滅却、足元でじっと水面を見つめる妹すら視界から追い出し、全神経を釣竿へと集中させる。
『じっと、じいっと待つの。エモノがかかるまでね』
木々のざわめきと川のせせらぎが聞こえる。
夏の暑さにやられた頭に涼しさを吹き込むそれに紛れる、魚の泳ぐ音。
じっとそれを聞き、捉え、そっと擬似餌を寄せる。
────かかった。
「ここだァっ!!」
思い切り竿を巻いて、引いて、釣り上げる。
その釣り針の先にかかっていたのは、目当てとは違うくすんだ灰色。それを視認した瞬間、ラフィは肩を落とした。
「わ、なにそいつ」
「カルプだよ。ハズレだ」
「まぁ! カルプとて適切に調理すれば美味しくいただけますのよ?」
釣れたカルプから針を外して川へと返し、隣で釣り糸を垂れる女性を見上げた。
彼女の名はアナベル。釣り好きの旅行者だそうだ。どうやら釣り経験者であると見抜かれたようで、実習課題でゴルドサモーナを狙うラフィの隣に陣取ってきたのだ。
「いやそれは知ってますし、結構好きだけど……やっぱ狙いの魚じゃないと気分が下がっちまうって言うか」
「えぇ……少し分かりますわ。しかし、相手は自然ですもの。思い通りにいかないだなんて当然ですわ」
「ッスよね〜……おし、もう一発!」
立ち上がり、頬をぱちんと叩く。
そして橋に置いていた竿を拾い上げ、再び釣ろうと思い切り竿を振りかぶったところで────
「うわっ!?」
「これは……凄まじいな」
「すっげー!! ホントに金色だ!!」
ばしゃり、と横で音がした。リィンが何かを釣り上げたらしい。
その手元に輝くは、ギラギラとした金色の鱗。
「……ああいうビギナーズラックには勝てないんだよなァ」
「なんだか見ていて悔しくなってきますわね」
アナベルの言葉に頷き、釣り糸を巻く。彼女と違って釣りをする大義名分が無くなってしまったからだ。
元々、ラフィは釣りが好きな方だ。双子が転がり込んでくる前からバイトのない日にはアノール河で釣り糸を垂れるのがお決まりなくらいには。
セリスと旅をしていた時には釣りで食料を確保することもあったし、エステルに釣りの楽しさを教え込まれてからは趣味程度には嗜んでいるのだ。
だから渋々、本当に渋々
「そう言えば貴女、その腕前……やはり釣皇倶楽部とやらに所属していらして?」
「や、あそこまでの熱意はないんで完全フリーっスね。釣りの師匠はリベールの釣公師団だけど」
「あら……そうなのですね。まぁともかく、非常に有意義な時間でしたわ。機会があればまた共に釣り糸を垂らしましょう、ラフィさん」
「もちろんッス。アナベルさんも時々は人里に降りてしっかり休んでくださいよ」
善処しますわ、と頷いた彼女に別れを告げ、ヨルダを拾い上げてから興味津々でゴルドサモーナの金色をしげしげと眺めるⅦ組に近づく。
「あ、ラフィ! 見てみてー! ユーシスの髪とおんなじ色してるっ!」
「俺の髪と魚の鱗を一緒にするな」
「そうかァ? ユーシスのがもっと薄くて上品な色してるだろ」
「ラファエラも乗るんじゃない!!」
「っとアブネ」
容赦なく後頭部に飛んできたユーシスの平手をしゃがんで避けて、目のあったミリアムとにひひと笑う。
咄嗟に動いたことで傍に抱えたヨルダがむう、と文句の唸りをあげる。ぺしぺしと橋の表面を叩くから、ゆっくりと地面に下ろしてやった。
それを見ていたリィンが釣り竿を片付け終え、ケースを片手に立ち上がる。
「グローグラスも採ったし、そろそろレグラムに戻ろうか」
「うむ。シンディとウェイバーにそれぞれ届けに行くとしよう」
今日で実習は終わり。既に太陽は傾き始めており、時間も残りあと僅かしかない。
父の訪問を受けて何かを思いついたらしいアルゼイド子爵に供としてついて行ったトヴァルにギルドの書類整理も頼まれている。リィンとラウラの言う通り、さっさと戻ってしまおう。
「ギルドの書類整理か……2年ぶりだな」
「え、姉ちゃんやったことあんの?」
「あァ。リベールでな」
「なら、色々と頼りにさせてもらうことになりそうだな」
ガイウスの言葉に「任せとけ」と胸を叩く。
あとはトヴァルがサボって書類を溜め込んでさえなければ良いが────────
「お姉ちゃん」
くい、とヨルダが制服の裾を引いた。
「わたし、見覚えあるよ。この光景」
「ボクも。二度と見たくなかったけど」
あの時のウィステル家程ではない。流石ベテラン遊撃士、書類自体も丁寧に仕分けられている。
だが、高い塔のように積み上がった書類は、事件屋姉弟の口端を引き攣らせるのに十分な威力を持っていた。
これから一行は、この書類の群れと格闘することになる。
いつまでかかるだろうか。そんな考えにすら至らないほど、目の前に聳え立った壁は……
「……自分一人だからってBP関連の処理一切やってねェな、あの人」
(物理的に)高かった。