────聞いてしまった。
魔獣の少ない街道を必死に走る。
谷に吹き抜ける風の音が夜明け直前の空に響いて、普段なら心地よいはずの音が、どうにも青年を急がせた。
「おい! 居たか!」
知らない男の声に、青年はびくりと肩を震わせ、近くの大岩に隠れた。
声の主は、正規軍。今現在、領邦軍と争いあっている、革新派の連中だ。
ばくばくと大きな音を立てる心臓を抑えながら、青年は軍人が去るのをじっと待つ。
「いや、こっちには居なかった」
「チッ……とっとと
「わかってるよ。あーあ、谷底に勝手に落ちてくれねぇかなぁ」
「落ちたら確認のほうが大変だろうが」
足音が去っていき、ふぅ、と息を吐く。
見つかったら殺される。そんな緊張感が青年をずっと襲っていた。
大岩の陰から出て、ラングドック峡谷道をさらに走る。
ラクウェルはもう駄目だ。正規軍に占領されている。
目指すは故郷────オルディス。
あそこまで行けば、領邦軍が保護してくれるはず。
もつれそうになる足を必死に動かしながら、青年はようやく西ラマール街道へ逃げ出した。
「────うぁっ」
しばらく走ったところで、体が限界を迎え、倒れる。
ズボン越しに膝が擦り剝けて、ひりひりと痛んだ。
手に力を入れようとして、手のひらも擦り剝いた。
撃たれた横腹は、血をだらだらと流して、土を赤く染め上げた。
「……ちく、しょう」
ここで終わるのか。
帰ることもできずに。伝えることもできずに。
そんなの、そんなの、あの人に誇ることができない。
「ひめ、さま……」
朝焼けに手を伸ばす。
幼いころ、毎日のように街に降りてきていた、ミルクティー色のお姫様。
平民のガキ大将だった青年と身分関係なく遊んでくれた、あの人を思い浮かべて。
ふと、朝焼けが遮られる。
「大丈夫かい、君。しっかりしたまえ」
擦り剝いた手を取られ、青年は最後の力を振り絞って顔を上げる。
くすんだ金髪の男だった。
白いコートを着て、背にはリュートを背負っている。
旅の吟遊詩人だろうか。
いや、それでもいい。今はただ、この事実を伝えなくてはならない。
「あんた……オルディスに、伝えてくれ……」
────明日。否、今日。今から数時間後、正規軍がオルディスを全兵力をもって襲撃する。
民間人を殺すことも厭わないと、あの軍人は言っていた。
それを聞いた男は紫色の目を見開き「なんだって」と驚く。
「たのんだ……姫様が愛した街を……」
伝えられた、と満足して。
青年は気を失った。
そんな情報を聞いて、大人しく出来たら家出なんかしていない。
夜明けの時刻。といっても、冬なのでかなり遅い時間だが。
ラフィの枕元でけたたましく呼び出し音を鳴らしたARCUSを半分寝ながら開き、飛び込んできたのはオリビエの大声だった。
『ラフィくん!! 今すぐオルディスへ来れるかい!?』
東部から最西部へ行けとは、この人も無茶ぶりをするものだ。
寝ぼけた頭でぼんやりそう考えたラフィの目を覚ましたのは、次の一言だ。
『正規軍が暴走している。オルディスに焼き討ちをかける計画を立てたらしい』
「────ア゛?」
まず懐で愛らしく眠っている妹を申し訳なく思いながら起こして。
それから男子部屋に殴り込んでメルキオルを叩き起こし、イクスも起こして。
騒音に気づいてのそりと起きたリィンのベッドの隣にしゃがみ込んで、まだ眠るエリオット達を起こさぬよう、小さな声で現状を告げた。
「悪ィ、今からオルディスに行かなきゃならなくなった」
「なら俺も、」
「お前は東部に残ってろ。ヴァリマールとカレイジャスっつー抑止力がここにゃ必要だ」
ログナー侯が抑えられた今、アルバレア公が暴走する可能性は高い。
一方西部は、おそらく乗り気ではないであろうハイアームズ侯と、帝都にかかりきりのカイエン公。それに────相手は正規軍だ。
貴族連合の機甲兵を圧倒できる戦力は、今のところヴァリマールとラフィのみ。どちらか片方が爆発する可能性のある東部に残っていたほうがいいだろう。
「待ってくれ、そもそもどうやって行くつもりなんだ。ヨルダの転移にも限界があるんじゃないのか」
「オリビエさんがなんとかしてくれたらしい。とにかく、行ってくる」
すぐに帰ってくるから、とリィンに無理やり布団をひっかぶせて、眠そうなメルキオルとイクスを引きずって、廊下で待っていたヨルダと合流。
甲板へ出て…………
「まぁヨルダ。ラフィさんも。私たちに何も言わずに行くとは、なんて薄情なんでしょう」
「そうだよ。イクスとメルキオルさんも、僕たちを起こすくらいしてくれたらいいのに」
皇室の至宝たる双子が、同じ顔で頬を膨らませて仁王立ちしていた。後ろにクルトを控えさせて。
はぁ、もう、この人たちは。まったく。
ラフィは顔を覆って、ため息をついた。
「クルト、止めろよ」
「すみません、僕も両殿下と同意見でして」
「ッカ~、行動力モリモリロイヤルガキンチョどもが!」
「君もロイヤルガキンチョの一角だけどね」
「メルうるさい!」
ガリガリと何も考えずに後頭部を掻いて、結び目が若干解ける。
うっとおしいから、と一度解いてもう一度キツく結びなおした。
「ラフィさんだって、後ろ盾は必要でしょう?」
「あっちにはオリビエさんいるけど」
「合流するまでの、ですよ」
「面白そうだからついていきたいって顔に書いてるぜ」
イクスの指摘に、セドリックは少し恥ずかしそうに頬を赤く染めた。
しかし、二人ともついてくるつもりならば、このカレイジャスの大義名分がいなくなるも同義。
そこまで考えたところで、アルフィンが胸を張った。
「カレイジャスには私が残りますわ。ちょっぴり残念ですが、ご安心を」
「……はァ。わかってますか? 正規軍の焼き討ちを防ぎに行くんスよ、あたしら」
端的に言えば、領邦軍の手助けをするわけだ。
皇族を狙う、貴族連合の。
そんな場所にセドリックを連れて行ってしまったら……
「そうならないために、
ふと、クルトがそう声を上げた。
じっと彼を見つめて。
その兄の面影を感じて。
心の中で、何度も問答して────
「いいじゃねぇか。連れてってやれよ」
「……え」
上空から、白い飛空艇がルーレ空港の空きにゆっくりと降りてくる。
流線形のそれに刻まれた数字は、"04"。
聞き覚えのある声に思わず顔を上げたラフィの視線の先。4、5人程度しか乗れなさそうな、小さな甲板。
確かに、これからラマールへ1時間以内に向かうには最適な代物だ。
「なんとかしたって、そういうことかよ……」
「ンだ、不満そうだな」
「いや、その……不満ではないけど。なんで帝国にいるんだよ、師匠ッ!!」
赫灼の髪が風になびく。
にぃ、と笑った、ラフィにとっての導きの炎が、そこに立っていた。
「いや~久しぶりだなぁ、お嬢!!」
「大きくなりましたね。もうオルテシア卿を越したんじゃないですか?」
「まだギリギリ越してないけど一応毎月伸びてるからそのうち越す」
「オイコラ聞こえてんぞバカ弟子!!」「やべっ」
「お嬢に会うって聞いて好きだったロールケーキ買ってきたぞぅ。ラウンジの冷蔵庫に入ってるから食べちゃってねぇ」
「え、本当!? ありがと先輩!」
飛空艇────メルカバに乗った瞬間、ラフィはセリスの従騎士たちに囲まれた。
普段は姉風吹かせている彼女も、七耀教会の関係者に会う時ばかりは末っ子ムーブをかます。
「おらテメェら、席に戻れ! 一時間以内にオルディスだぞ!!」
「っとと、そうでした」
「まさか皇太子殿下を乗せることになるとは」
「できる限り速度を上げるから、どこかしらに座っておいてねぇ」
号令で一斉に散った従騎士たちにため息をついて、セリスは一行に向き合った。
「っつーわけだ。ラウンジで大人しくロールケーキ食ってろ」
メルカバが浮かぶ。
つい二年前までは毎日のように感じていた浮遊感。久々に味わったそれを、女はぐ、と嚙み締めた。
心配そうな双子と皇太子主従と、何か言いたげな恋人をみんなラウンジへ追いやってから、ひとりの弟子は、かつての様にそっと師匠の袖を引いた。
「ん? どうした、ラフィ」
もう殆ど同じになった目線は、ずいぶんと優しい。
相変わらず彼女は自分を弟子として扱ってくれる。
あの日────リベル=アークを堕とした日に、一人で生きて行けと言ったのに。
「師匠はさ。あたしに独り立ちしてほしいのか、してほしくないのか、どっちなの」
「そりゃあ独り立ちしてほしいに決まってる」
「……じゃあなんで、こんなに優しいの。これじゃあ、立てなくなっちゃう」
きょとん、と碧色の瞳が見開かれる。
それからじーっと見つめられて、ラフィの頬がだんだん赤くなっていって。
ぷるぷると震え始めたところで、セリスはふっと笑って、わしわしと弟子の頭を乱雑に撫でた。
「可愛い一番弟子を突き放すわけねぇだろ?」
────ひとりで生きて行けと言われた。
自分の将来を星杯騎士団に縛り付けないためだったのはわかっている。昔から、将来についてはよく考えろと口酸っぱく言う人だったから。
……拾ったときは自分も未成年だったくせに。
リベル=アークが堕ちた後。さっさとアルテリアに帰ってしまったセリスにぶつぶつ文句を言いながら、帝国に行くと言うエステルとヨシュアに同行して、帝都まで来て。
それから、ミルディーヌにあの部屋を借りて。
バイトが決まって。オリビエと再会して。
いろいろ安定してから、ようやっと恐る恐る連絡して。
────よう、ラフィ。いい家住んでるじゃねぇか。
この人はすぐさま飛んできた。
任務が近くであったからとか、いろいろごちゃごちゃ言い訳してたけれど。
困っていないかとか、危ないことに首を突っ込んでいないかとか、生活リズムは安定しているかとか、いろいろ心配していた。下手をすれば、実父よりよほど保護者らしく。
一緒に来ていたリオンはそれはもう笑い転げて死にかけていた。
「弟子バカ」
「言ってろ」
まったく、こういう時に飛んでくるこの人もこの人だ。
いろいろ任務だってあっただろうに。きっとオリビエから話を聞いたとたんにすべてを放り出して飛んできたのだろう。
実際、従騎士はガン無視しているが、先ほどから通信がひっきりなりに鳴り響いている。この音は五号機からのだろう。
「ケビン先輩キレてない?」
「あの程度ならアイツ一人で出来るだろ。ほっとけ」
まぁ、彼なら一人でなんでもこなせるだろうけども。
ステルスをかけながら飛ぶメルカバは、帝都上空を通過する。
オルディスにたどり着いたのは、ちょうどそれから30分後のことだった。