くぁ、と宙に放たれた大きなあくびは、戦車の足音にかき消された。
一個師団どころか大隊にも及ばない人数の中、男はラインフォルト製の銃剣片手に、惰性で回りのカッチリした同僚たちに合わせて歩いていた。
「おい、何あくびしてんだ」
男の隣にいた、親友ともいうべき男。たまたま入軍が同時だっただけの同期が、ひじでどすりとつついてきた。
「仕方ないだろ、徹夜明けなんだから」
「コーヒー飲んで来いよ」
「そんな上等なもんが内戦中にあるわけない」
男だって飲めるなら飲んできた。別にコーヒー嫌いというわけでもなかったから。
だが、そういった上等なものは駐屯していたラクウェルの市民に配られるか、上官が独占するかだ。
一兵卒でしかない男が懐かしのコーヒーにありつけるはずもなく、いつも通りのカタい保存食が朝食だった。
東の山からようやく頭を出した朝日がしぱしぱとする目に染みる。
前を歩く上官の高そうな腕時計、その短い針が7を指し示しているのを、先ほど見たばかり。
今から虐殺にも等しいことをしに行くのに、ちょっと火薬が多いだけのいつもの行軍で、なんだか現実感が湧かない。
くぁ、と欠伸をする。
キャタピラの音がうるさい。火薬のにおいが、周りに充満している。
なんとなしに、男は空を見上げた。
青空が広がっているはずだった。
だが、そこにあるのは────炎の大蛇。
「全軍、止まれ────ッ!!」
前を歩いていた隊長の悲鳴のような号令が聞こえて、ようやく男の寝ぼけ眼はぱっちりと開いた。
隊長の、さらに向こう。
二人の女が立っていた。
そのまま、射撃の命令が出る。
慌てて銃剣のスコープを覗き込んだ男は、はっきりと女二人の姿を見た。
片方の、黒いパーカーを着込んだ女の胸元で、何かが輝いている。
もう片方の、真っ赤な髪の女の背には、赤い紋章が浮かんでいて。
あぁ、この炎はあの女たちが出しているのだ、と、どことなく理解した。
「────空の女神の名において聖別されし七耀、ここにあり」
「────我が深淵にて震えし赫灼の刻印よ」
遠くにいるはずなのに、声がはっきりと聞こえた。
どちらも教会の聖典の文章のようなものを唱えており……そのうち、黒いパーカーの女がキッとこちらを睨んだ瞬間のことだ。
「我、氷焱の教えを受けし者。蒼耀の輝きを以て、今大地を封じん!!」
足が、凍った。
服の内側まで凍って、ガッチリと掴まれている。ひんやりとしていて、このまま放置すれば間違いなく凍傷になってしまうことは間違い無いだろう。
慌てて引き抜こうとして、隣でしゃがみ込んでいた親友に止められる。
「やめろ、皮膚が持っていかれるぞ!!」
「でもっ!!」
「いいからお前もしゃがめ!! ────アースガード!!」
親友のアーツは自分たちだけを包み込む。
第四世代のオンボロ導力器じゃこれが限界だったのだろう。
だが、同じ判断をした者は多く、あちこちでアースガードやクレストなど、防御系のアーツが発動されていた。
次に動いたのは、赤髪の女だ。
「昏き魔を喰らう、炎の
上空の炎の蛇が、とぐろを解き、うねりながら男の頭のすぐ上を通り過ぎていった。
それと同時に足をどんどん覆って言っていた氷が割れて、べり、と嫌な音がする。
男は思わず悲鳴を上げた。
「チッ、残ったか」
「全員気絶させるって言ったの師匠なのに」
「アァ? 思ったよりコイツらの練度が高かったんだよ。あのタイミングでの補助アーツ、よく訓練してるじゃねぇか」
そう褒められてもあまり嬉しくはない。
結局部隊は壊滅しているし、この状態で立ち上がれる人間など、隣の親友含めて誰もいないからだ。
ひとり戦車の上に乗っていた────憧れのクレイグ中将を真似したらしい────隊長は、一人無傷で、すっかり腰を抜かしてへたり込んでいる。
あれほど自分たちに強く厳しく、理不尽を浴びせてきた男がそうなっている様に、ほんのすこし心がスカっとした。
「おや、セリスくん、ラフィくん。もう終わらせてしまったのかい?」
女二人の奥から、一人の男が、自分たちと同じ軍服を着た軍人を連れ立って歩いてきた。
くすんだ金髪をひとまとめにした、赤い服を着た男だ。
その手には何故かリュートが握られており、
彼が誰であるか、なんて。2年前ならいざ知らず、今この時代の帝国軍人に知らぬ人などいなかった。
「ふむ、これなら彼らを置いてくる必要もなかったんじゃないかい?」
「あたしとバカ弟子だけで制圧できんだぞ。戦力過多だ」
「クルトならまだしも、アイツら連れてきたら殺しちまうって」
バケモノのような女二人と親しげに話す、われらが皇子殿下は、くすくすと笑って、それから隊長に視線を投げた。
「やぁ、ヴォルフ大尉」
「お、お、お、オリヴァルト、皇子殿下ぁっ!?」
「これは君の独断かい? いやぁ、間に合ってよかった」
すぐさま這うように戦車から降りた小心者の隊長は、皇子の足元に縋りつくように胡麻を擦る。
皇族なんて、雲の上の人だ。一部の高官でもない限り、直接声をかけてもらうどころか御目にかかることすらないのだ。あの隊長の態度も、男は理解できた。
「それで────これは何事か」
すっと、声の温度を下げたオリヴァルト殿下に、隊長も佇まいを正して、びしりと敬礼をする。
「はっ。陛下に愚かにも謀反を行った、憎き国賊の本拠地を焼き討ちする手配を……」
「ほぉ、国賊の本拠地ねぇ。それは一体どこにあるというんだい?」
「州都オルディスにございます!」
その瞬間、黒いパーカーの女から、妙な光が放たれた。
青色をしたそれは、何か翼のように見えて────一瞬、空をさらに青く染める。
「ラフィくん」
「……わかってるよ」
皇子に制止された女はふぅ、と息を吐き、頭を振る。
空はもういつも通りの、透き通った色をしていた。
「それで、ヴォルフ大尉」
皇子は隊長に向き直る。
「君は民間人の安全は考慮したのかい」
大尉が小さく悲鳴を上げた。
当然、あの脳の足りていない、他人を見下すことしか考えていない隊長が民間人のことなど考えているはずがないだろう。
どうやら親友も同じことを考えているらしく、気絶した仲間の山に隠れながら、二人して笑った。
こんなこと、男もやりたくなかった。
隊長は貴族連合しか見えていない。そこに暮らす人間など、全く考えていなかったからだ。
「で、ですが殿下! 戦争とはそういうものでございます」
「それがどうしても許せないから私はこうして西部を回っているのだ!!」
「ヒィッ!?」
オリヴァルト皇子の怒鳴り声は、中隊の全体に響き渡った。
といっても、意識があるのは数人だけだが。男は皇子の言葉に心の中でいいぞ、もっとやれと野次を贈っていた。
「はぁ、全く……全軍、ラクウェルに戻りたまえ」
「で、殿下」
「戻れと言っている!!」
その言葉を待ってましたと言わんばかりに飛び出したのは、ずっと身をかがめていた男だった。
やったぁ、と言わんばかりの飛び出しっぷりに、隣の親友は目を丸くして見上げた。
「皇子殿下直々のご命令だ、さっさと帰ろうぜ親友!」
「……はは、そうだな。さっさと帰って寝るか」
それを皮切りに、意識を残していた軍人たちが立ち上がり、周囲の気絶した同僚たちを雑に戦車に載せながら、帰ろうぜ、と口々に呟く。
慌てたのは隊長だった。待て、帰るな、と叫ぼうとも、皇子の命令には逆らえないと普段からストレスを貯めていた中隊員達は喜んで帰投の準備をする。
それを見たのか、軍人たちを気絶させた張本人である女二人も、戦車に気絶者を乗せるのを手伝い始めた。
「すまない、そこの君」
ふと声をかけられたウキウキの男が振り向く。
皇子に付き従っていた青年だ。同じ軍服を着た。
「私はミュラー・ヴァンダール少佐だ。少し頼まれごとをしてもらえないだろうか」
「あ、やっぱりヴァンダールの方だったんスね。勿論です、何でもおっしゃってください」
皇族の守護役といえばヴァンダールだ。そりゃあ、皇子殿下と並ぶ男はヴァンダールに決まっているだろう。
階級も隊長よりはるかに上。もう気が抜けてナヨっとした敬礼をしながら、男はミュラーの話を聞いた。
「ヴォルフ大尉の身柄を内戦が終わるまで拘束しておいてはもらえないだろうか」
「あー、流石に領邦軍に引き渡すのはマズいッスか」
「そういうことだ。頼めるか?」
「モチのロンです。皆大尉には腹立ててますから、喜んで見張りしますよ」
そう返した瞬間、ミュラーが少し驚いた顔をして、カタい顔をほんの少し綻ばせる。
いきなり微笑んだ少佐殿にクエスチョンマークを浮かべつつも、男は泡を吹いて気絶した大尉を雑に受け取った。
後から考えてみれば、「モチのロン」はリベール人である祖母の訛りで口癖だったな、と男は上司の軟禁されている部屋の前で久方ぶりのコーヒーを飲みながら思い出した。だから少し、変な顔をされたのだろうか。
こうして、オルディス焼き討ちはなんとか未遂に終わったのだった。
「僕は弱いです」
突然そんなことを言い出した蒼灰色の少年に、白夜はパチクリと瞬いた。
焼き討ちを未然に防いだ上にお嬢様が帰ってきたと内戦中にもかかわらずお祭り騒ぎのオルディスの、少し静かな一角。
そこで胴上げから逃げてきたラフィと、ずっと静かにそこにいたクルトが、なぜか一緒にアイスを食べていた。
そして耐え難い静寂の中で出てきた一言が、僕は弱いです、だったのだ。
「まァ、まだガキだしな。何歳だっけ」
「15です」
うーん、子供。
2つしか変わらないラフィが言えたことじゃないけれど。
15歳といえば、まだラフィが何も考えずにただセリスについていくことばかり考えていた頃だ。
同時にエステルやクローゼに出会って、道を固められた歳でもあるけれど。
それを口に出さずに、女はワシワシと自分と同じくらいの位置にある頭を撫でた。
「で? 自分が弱いって?」
「……ラフィさんも、セリスさんも、兄も、オリヴァルト殿下も。連れて行ってくれなかったじゃないですか」
「お前らがついてきたら火力過多になってたっつったろ」
「その"お前ら"の中に僕は入っていないでしょう」
随分と卑屈だな、と少年を見下ろす。
彼は返事を待つように、アイスを掬って食べた。
「ヴァンダールが弱いわけなくないか」
「それは兄や父の話です」
「いいや、十分お前も強いね。"力"抜きで勝てる気がしない」
「……たとえそうだったとしても、イクスより僕は弱い」
突然出てきた弟の名前に、ラフィは目を丸くする。
当の本人は、たった今ラフィたちの正面でヒツジンの人形を抱えながら楽しそうにヨルダとセドリック、それと何故かオリビエと一緒に走っていった。
「そりゃ、お前さァ。アイツは規格外だろ」
「わかっています。わかっているんです。それでも、あの日帝都から逃げられたのはイクスがいてくれたからだった」
俯いた少年の目じりは、何かに耐えるように歪んでいる。
きっと、泣かないように耐えているのだ。
「イクスは……貴族連合の兵士を殺すことに躊躇がなかったから」
────イクスは、ヨルダ共々規格外だ。
なんせ、生まれた時から人を殺す場所にいたのだから。
暗殺者として育ってきた二人は、いくら普通の暮らしをしようが、その性根が変わることはない。
イクスは見ての通りだし、ヨルダも普通の暮らしを享受している裏で、殺しの時には"アガッてる"ことが多かったと、メルキオルは言っていた。
だから。
「僕にも、そんな勇気があれば────」
「それは勇気じゃない」
彼が歪む前に、言ってやらねばならない。
アレは、本当は正しいものではないのだと。
「イクスのあの躊躇のなさを真似するな。それは絶対にお前の強さじゃない」
「でも」
「あのな、考えてみろ、クルト」
アイスのカップを置いて、食い下がる少年の方を掴んで、まっすぐ目を合わせる。
「ヴァンダールは何のために振るう?」
「……守るため」
「そう。なら、イクスの強さはヴァンダールの強さ?」
「違います、けど……!!」
首を振ったクルトの青灰色の髪が乱れる。
「僕よりイクスのほうが、セドリックの護衛としてふさわしいと思ってしまったんだッ!!」
叫び声で、海鳥が飛んでいく。
「────え」
「あっ」
そして、金色と青灰色のヒツジン人形を抱きしめたセドリックが、呆然と立っていた。