幻想再帰のアリュージョニスト二次創作「コルセスカさん変形する」【togetterでも投稿中】 作:鳳卵
執着、煩悩、自分が自分であり確かなものであると言う思い込み、錯覚、実態を持たない複合仮想観念(ヴァーチャル・リアリティ)
そう、結局それらは単なる““固定観念”、先入観に過ぎなかったのだ。
時空間と関係性、そしてそれに連なる『自己』(セルフ)が存在すると言う認識。
所詮――そんなものは、存在することを確証することも、永続を保証することも出来ないような…実に曖昧(あいまい)かつ不確かな代物(シロモノ)に過ぎない。
『ラリスキャニア』は、そしてその観客(ファン)は、そんな因業(カルマ)に縛られなかったのだ。
「では一体、何があると言うのだ!
何が今のお前の存在(ありかた)を保証している!」
そんなラクルラールの問いかけに対し、ゆらぐアイドルは二重の姿で二度ずつ答えた。
その輪郭(シルエット)を、影と実体の間で交互に行き来させながら。
「それは、他の確かさです!
二重の確かさと外へと開いていく可能性!」
「『身体性』の確かさ、観衆(ファン)の『邪視』(まなざし)の確かさ、まだ出会っていない人々、未来の応援者(ファン)たちとの『関係性』(ファミリア)が築かれる可能性の確保!」
「それが、アイドルをアイドル足(た)らしめる“アイドル・アイデンティティ!”」
「それが『ラリスキャニア(ボク)』にして"ボクら"なんだ!」
しかし、そんな答えが女教師の気に入るわけもなく…
「何がアイドルだ!
こじつけがすぎるだろうがーー!」
怒声と共に、強風が吹き、強烈な光が降り注ぐ。
それは、空中舞台の地下アイドルに、その存在自体を打ち砕かんと襲いかかった。
だが、その攻撃が当たらない。
"彼女"は、平気な顔、不確定な姿で飛び続け、上昇を続けていた。
その姿自体は、はっきりと視認することが出来る。
だが、その実態は実に朧(おぼろ)げだ。
一人なのか複数なのか、その数を確定させることさえ誰にも出来はしない。
新しい解釈によって転生した『ラリスキャニア』
その姿は、つねに多重にブレ続け、万色の輝きを以(も)ってその存在を世界に示す。
更に、その足元に何故(なぜ)か小さな板も顕現した。
“彼女たち”は、そのよく分からない円状の浮遊板(フロート)に乗り
「板についているのですよ!」
シナモリアキラ(どや)顔をしながら、宙に留(とど)まる。
それは、飛行と同時に床を踏み、跳躍を続けているという奇妙な体勢。
これもまた、キロン戦で空中階段によって勝利したシナモリアキラの引喩(アリュージョン)なのか何なのか。
ともかく、その軽(かろ)やかな跳躍は足音(タップ)となり、独特な舞踏(ダンス)へと昇華されていく。
そうして、夢世界に新たな音楽が鳴り響く。
それは、規則的に発され続ける、心音(ハートビート)の律動(リズム)
心地良く世界に木霊(エコーし)、周囲(かんきゃく)から反響を受けて更にその勢いを増して行く。
あるいは、その有り様(さま)は、一種の永久機関とすら言えるのかもしれない。
なぜならこの響きの基調(パターン)こそが、音の集約点としてその奏者の存在を定義し続け、それへの承認を継続させているのだから。
「質量を持った残像…いやその逆だと!
なんだそれは!
どの“像”からも、常に質量の反応が移動し続けている!
貴様の『主体』は一体どこにある!」
女教師の批判的な叫(さけ)び。
質問でもあるそれに対し、“それら”は答えた。
「「「どこにも」」」
どこにも(ノーウェア)、そして同時にどこにでも(エニーウェア)
その座標は誰にも特定することは出来ず、その出現に終わりは無い。
こうして語り合っている間ですら、配信窓に描かれた奇怪な怪物のイラストから、新たな『ラリスキャニア』が実体化している。
そして異質で標準から大きく乖離(かいり)していたはずのその幻像(イメージ)でさえ、やがてわずかな馴致(いっぱんか)を経て、他の『ラリスキャニア』と合流していくのだ。
注目すべきなのは、この際、合流された『ラリスキャニア』全体の像もわずかな変化を遂げていたことだ。
そう、この“場”で起きているのは、単なる『統合』や『収斂(しゅうれん)』などではない。
多様な“解釈”を受け入れつつ、より新しく魅力的な在(あ)り方を追究するソレは、もはや一つの進化であった。
改良(アレンジ)、最適化(オプティマイゼーション)
、あるいは都市における環境の高級化(ジェントリフィケーション)に相当するような、大きな変化。
それは、曖昧(あいまい)さを活かした、"終わりなき改善"と言う幻想の具現だった。
そしてまた、『吸血鬼』の霧化、『青い鳥』(ペリュトン)の分身、飛翔から類感(いんゆ)しての『空の民』の幽体(アストラル)離脱。
多種族の能力をごちゃ混ぜにして、境界を越えて限界も超えて。
“それ”は同時に、曖昧な存在として自己を完全に確立していた。
けれど、カーティスのような“多数と単数に区別がない”と言うわけでもなく、単なる多重人格や“キャラ作り”でもない。
何しろその魂魄(アストラルたい)は、しっかりと安定し、それが“彼女たち”にとっての『普通』であることを強く訴えている。
そもそも、皮相(ひそう)な“キャラ”程度では、ファンたちの再演と投射(ねんしゃ)で復活出来るわけもない。
今の『ラリスキャニア』“たち”が持つ実在感は、どうみても、もっとずっと厚みのあるものだ。
それはあるいは、異界の神秘生命『猫』にしか成し得ないとされる、異形の存在形式。
非在と存在の両立、不可能の可能化。
すなわち、そこに立っていたのは、量子的にゆらぎ続け、常に複数性を確保し続ける奇怪な偶像(アイドル)だった。