幻想再帰のアリュージョニスト二次創作「コルセスカさん変形する」【togetterでも投稿中】   作:鳳卵

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195話 九つの異界、一つの戦い/共演①(その2の53の途中まで)

 

そして九つの争い、それぞれの結界で師弟は同じようなことを言い合い、そしてそれぞれの局面で勝敗を繰り返す。

それはいつかあるはずの、あるいはいつか誰かが見た未来の可能性。

 

師は、それを無数の再試行の果てに経験として知り、元生徒は、それを師の振る舞いから推測して補完し、しかしそれに留まることなく新たな“解釈”を以(も)って上回らんとする。

それは、互いの失敗に向き合い続ける、終わりのない合わせ鏡の死闘。

女教師は、“起こらないことになった”未来(かこ)を経験(はんせい)として新たな試行を重ね、元生徒"たち"はそれを対手の動きから読み取ったうえで、更にその裏をかこうと立ち回る。

それは終わりのない、自らの尾を呑(の)む蛇のような円環の争い。

九つの局面でそれは展開され、それぞれ新たな発想と答えを以(も)って、対立を発展的に解消しようとあるいは完全に消滅させようとする。

 

やがてそうした激突は、思想同士の綱引きを超え、夢世界という呪術の場の“編み直し”を巡(めぐ)る主導権争いへと変わっていった。

けれど、それもだんだんに収束していく。

 

演じられているのは、次なる舞踏(パフォーマンス)、"太陽の再演"を巡(めぐ)って行われる競い合い。

それは、幾多の外敵を退(しりぞ)け続けた第五階層を、単独で実質的に陥落させた『守護の九姉』ラクルラールに匹敵する"高み"を得るための争い。

至高(しこう)の座に座す彼女に対抗するには、当然ながら同じく究極に至(いた)るほどの業(ワザ)、未来永劫に渡って讃(たた)えられるほどの価値(ひかり)を示さねばならない。

 

だからそれは、最初から熾烈(しれつ)なものになることを約束された試み(チャレンジ)であった。

確かに、このアイドル空間では"最底辺からの上昇"という神話(おやくそく)が、基幹物語(でんとう)として確立しつつある。

けれどその理屈は、どちらにとっても同じことなのだ。

なにしろ、元学園長ラクルラールは、一度第五階層の住民に喧嘩(ケンカ)を売ったうえで惨敗(ざんぱい)している。

そうした意味で彼女は間違いなく、この世界の最底辺(ボトムズ)なのだ。

当然、底辺からの逆転物語(シンデレラ・ストーリー)の主役としては、十三分に資格があると言える。

ゆえに、逆転勝利の神話は対立する双方に対し、平等に機能し両者の後押しとなる。

この状況では、"むしろ一度負けた方が、後から追い抜きやすくて逆に優勢(アド)"などという、どこかのゲーマー魔女が言いそうな特殊戦術(うらわざ)さえもが、有効な計画(プラン)として選択肢に挙(あ)がる始末である。

と言う訳で、この戦いでは相手を追い詰めることが、逆に自らを追い詰めることにもなりかねないのだ。

 

圧倒的な実力差がありながらも、どちらが上位かを断言しきれないと言う不可思議な戦況。

それはあるいは、死霊使いガルズの逆転劇やそれに使われた魔将エスフェイルの『大物食い』のようでもあった。

一言でまとめると…師弟の呪術と演技による対決は、泥沼化しつつあったのだ。

 

 

 

炎で世界が満ちている。

 

飜(ひるがえ)る炎、舞う朱色、閃く黄、嘲笑(あざわ)う橙、躍り上がる火焔。

咲き乱れる花弁は、極めて細く、まるで夜を流れる後尾灯(テールライト)のよう。

軌跡の火弁を無数に持つ華炎(かえん)が、下方一面を覆っている。

 

その間から這い出すは、赤赤とした火の蛇。

それは瞬(またた)く間に肥大化し、異界の龍へと転じて、天地を巡る。

そうして描かれた円の内側では、朱と金の羽を持った蝶が飛び交(か)い舞い集(つど)い、砂金のような火の粉を宙にばら蒔(ま)きながら、新たな星々を、そして黄金の銀河を形作っていく。

それは、既存の騙し絵(トリックアート)を超えた、現実を侵食する立体芸術の“絵画”だった。

 

糸と言う、単なる“線”に過ぎない存在を織りまとめ、三次元、いや時々刻々と変化する四次元の動態を再現し、完全にその効果を再演する神域の絶技。

もはや言うまでもなく、ラクルラールの業(ワザ)はその域に達している。

それは、高度な技術と莫大(ばくだい)な手間をかけることによって、『模造』の概念を再構築し、『再創造』にまで至った芸術(アート)だった。

 

そもそもこの世界において『杖』とは、神秘を零落させる技術であり、神聖さと希少性、そして信仰の重みと歴史を貶(おとし)める業(ワザ)として知られている。

所詮(しょせん)は大量生産の“廉価版”を造る技術、劣化と間に合わせ。

他のあらゆる系統の適性を持てない『鉄願の民』のための代替技術(ベイビー・サブミッション)に過ぎない。

それが、『杖』に対する一般的な評価だ。

本物の神が降臨すれば、それまでその代用だった巫女や生贄(えいゆう)があっさりと殺されてしまうように、高い費用や手間をかけられた神像や供物もそのために壊されてしまうように。

『杖』とは、結局のところ本命の神秘を引っ張り出すまでの、二次的な引換券(ふみだい)でしかない。

そう、思われている。

 

だが、これはどうだろうか?

ラクルラールの、この『浄界』は?

これはその例外と見なすべき、傑出した存在ではないだろうか?

 

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