幻想再帰のアリュージョニスト二次創作「コルセスカさん変形する」【togetterでも投稿中】 作:鳳卵
また、彼女彼らはこれまで莫大(ばくだい)につぎ込んできた美容のための費用、膨大(ぼうだい)に費やしてきた時間や手間というコスト、それらの見返りを得たいという気持ちを、どうしても捨てきることが出来なかった。
ちょうど『地下』がいくら『正しい』価値基準(イデオロギー)を掲げ(かかげ)ても、弱肉強食と単一価値序列の『地上』を倒せていないように、『多様性』は“美の競争と闘争”を、この世から消し去ることは出来なかったのである。
それゆえ、モニ子の安易なSUMOボディー、もはや現在の新たな古典、典型(テンプレ)と成り果てた『プラスサイズ』程度では、この複雑かつ繊細な問題領域(ジャンル)を打破することは、敵(かな)わぬ問題であった。
おそらく、ラクルラールは予(あらかじ)めこのことを予期して、SUMOアイドルに『ボディポジティブ』戦略を採(と)るように誘導したのであろう。
彼女は、最初から“他人のふんどし”でSUMOを取らされていたのだ。
その敗北は、もはや必然であった。
「球電(プラズマ)タメ右衛門先輩、大砲(グレートキャノン)先輩、お姉様(エルダー)と貴公子(ノーブル)姉妹、ハープアジア後輩、悪役(ヒール)ツインテール・ユウコ後輩…夕朱雀(イブニング・ヴァーミリオン・フェニックス)後輩。ごめんなさい。ジブンは、もうダメです…」
そしてモニ子が、絶望のあまりグループの同朋(なかま)たちに心の中で詫(わ)び、両手を木の床につこうとした、ちょうどその時!
「まだあきらめるのは、早過ぎるんとちゃいますか?」
新しい声と共に、配信窓が彼女の頭上に開く。
通信が、入ったのだ。
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同時刻、“札部屋”
ここでは、先程の“サウナ部屋”などの他の部屋部屋(へやべや)の様子をリアルタイム受信し、それぞれを“一枚の札(カード)”として認識している。
そこでは、女教師人形が三体口を揃(そろ)えて対戦相手を非難していた。
「「「所詮、人形(アイドル)は人形師には勝てぬのだ。諦めて、今すぐ降伏(サレンダー)しこの我(ラクルラール)に忠誠を誓うが良い!」」」
『ラクルラール』のこの嘲(あざけ)りは、単なる【嘲弄(トーント)】ではない。
口々に相手やその戦術の弱点を指摘し、“教示”の形で自身の手法(ハウツー)に誘導するそれは、ある特定の職掌に固有の業(ワザ)なのだ。
その名も、教育呪術【愛の鞭(ムチ)】
これを打ち破らなければ、『ラリスキャニア』たち“地下アイドル連合(仮)”には未来が無い。
まず、前述したようにこのアイドル空間と言う戦場では圧勝こそが最大の負けフラグである。
それゆえ、劣勢を覆(くつが)したり、優勢に持っていくこと自体はそう難しくはない。
だが、それは同時に『逆転』や『逆襲』と言う行為(ふるまい)こそが、更なる劣勢と逆境を招いてしまう、と言うことをも意味している。
下手な反撃は、却(かえ)って逆効果なのだ。
ただし、その範囲内に収まらない戦法も、戦いの定石(テンプレ)には既(すで)にちゃんと存在していたりもする。
それは、主に二つの呪術大系から導かれるもの。
一つは『呪文』もう一つは『使い魔』
そしてそれらは、あらゆる呪術と道具があるいは人間(ロマンカインド)自身がそうであるように、『善』とも『悪』とも取れるもの。
あるいは、そのどちらでもあるものであった。
その“表裏”の明暗を分けるのはその扱い方、ただそれのみ。
例(たと)えば、融和と平和を祈る歌姫ならば、それを各々(おのおの)が対等に成り、なおかつ互いの境界線を合意無しに破らぬ形で達成するであろう。
それは、配慮、思いやり、優しさ、そして他を尊重する『尊敬』と『道徳』そして『愛情』の王道に基づく手法。
だが、そうではない邪悪な例としては――言うまでもなくラクルラールは――その全ての逆を行く。
暴力、恐怖、抑圧、羞恥(はずかしさ)、苦痛(いたみ)そして同調圧力と権威による侵食と操作。
『技能』『地位』『健康』『富』そして『知識』といった価値の悪用あるいは濫用(らんよう)によって他者を操り自らと一体化させ、戦わずして勝利を得る方法(ノウハウ)である。
そう、直接戦って圧倒することにリスクがあるのであれば、そもそも戦わず“敵を味方につけ”てしまえば、あるいは屈服させ、服従させてしまえば良いだけなのである。
そして、ラクルラールのもつ教師としての『知識』と『技能』こそは、まさにその路(ルート)に最適なものなのであった。
加えて言うなら、今まさにそのために振るわれている【愛の鞭(ムチ)】は、とうに廃(すた)れたとされる呪術基盤であるとされているが…ところがどっこい、これは【脳髄洗い】などの洗脳や一般的な【躾(しつけ)】とは極めて区別しにくい、境界線が曖昧(あいまい)な概念でもある。
実のところ、これを毛嫌いしているかに思える『地下』でさえ、“摩擦(さべつ)の嗜(たしな)め”、『正道への訓育』と言った『善導』の実現のため、そのような手段は日常的に用いられている。
いや、むしろ『下』のような場でこそ、そのような技法は必要不可欠だと言うべきだろう。