幻想再帰のアリュージョニスト二次創作「コルセスカさん変形する」【togetterでも投稿中】 作:鳳卵
舞台は、闇に包まれている。
ここは、たくさんのヒトビトが関わり、資金が注ぎ込まれるような、そんな公的なステージではない。
ある特定個人の練習場としてあつらえられた場所であり、元を正せばただの廃墟だ。
薄暗く埃(ほこり)っぽいのは、当然のことと言えた。
ここには、まばゆい栄光につながるようなものは、何一つとして見られなかった。
そして、その『場』は二分されていた。
片方には、醜悪な『愛の巣』が、閉鎖した自己完結のフィールドを展開し……
もう片方には…仲睦まじい師弟による、指導の光景が演じられていたのだ。
そこに立っている『生徒』は、一人だけ、そのはずだった。
けれど、その姿は常にブレていた。
形状が安定しないのである。
それは、ときに高く伸び上がり、またときに薄く広がっては気づけばまた元のヒトガタへと、何事も無かったかのように戻っていた。
まるで化学汚染で泡立つ沼のような有様である。
沼のそうした悪印象を更に強めるのは、時折走る青い光だった。
まるで、尖塔の金属骨格だけをなぞったかのような、そんな奇怪な光。
それは、まるで通信ケーブルか血管のように沼に張り巡らされ、それを縛り続けていた。
見るものが見れば、その正体も分かったことであろう。
それこそが、『霊媒』としてラクルラールに最適化された、『本体』のラリスキャニアである。
そして同時に、それは『生徒』という概念の『化身』でもあった。
あるいは、十把一絡げ(ジッパヒトカラゲ)にくくられた『群衆』あるいは『奴隷集団』と言っても良いかもしれない。
『彼女たち』を束縛した相手は、自分にとって都合の良いように形を整えるため、そのような呪縛を施していたのだ。
ついさっきまで教師に反抗していた『偽物』の方の姿は、今はどこにも無い。
さて、そこで行われている演目はと言えば…これがまた、完全なる茶番であった。
玩具(おもちゃ)の兵隊を使った、閲兵式(えっぺいしき)である。
なるほど、確かに兵隊の動きは見事である。
それを指揮する女将軍にも、不足はない。
凛々しい動き、大きく、そしてよく響く声、あらゆる戦況を想定した的確な指示があれば、小隊は即座にそれに応え、将軍の要求を十二分に満たしていく。
だが、それでもこれは茶番なのだ。
まず、あらゆる存在を意のままに操るラクルラールにとって、この程度の動作(アクション)をとらせるために、わざわざ教練を行う必要はかなり薄い。
糸使いである彼女が、統制のために声や身振りを使う必要性についても、言うまでもない。
そしてなにより最大の問題は、兵隊たちが文字通り、女将軍の完全な操り人形に過ぎないということだった。
ラクルラールは、反乱の意志どころか、戦意も忠誠心も元から皆無な人形相手に、それらがあることを前提とした命令を下している。
確かに、それは『使い魔』を得るために必要な呪術儀式ではある。
だが、これほど無意味なことはない。
こんなものは、虚空を相手にして行う、伽藍堂(がらんどう)の儀式でしかない。
こんなことなら、自分自身の影を捕まえようと飛びかかったり、鏡に向かっておしゃべりでもしていた方が、まだしも有意義なことであろう。
問題は、まだある。
この『生徒たち』の不定形な姿は、『夜の民』の本来のカタチであり、その『本来の主』が降臨するための最適の形態(フォーム)である。
これこそが『夜の民』の最強の姿と言っても、過言ではない。
だが、その『本来の主』、不定形の存在は、仮にも天使、古くは神と崇められた神性である。
本来なら、とても彼女程度に扱いきれるようなモノではない。
ラクルラールは、それを誤魔化すために不定形の霊媒に対し、自身に忠実な群衆の概念として 『生徒たち』を上書きした。
すなわち女教師は、ガワとしてかぶせた固定的なイメージを媒介とした使役を試みている。
それが現状だ。
けれど、その目算(コンセプト)には、元から大きな無理があった。
一言で言えば、『矛盾』である。
『完全な霊媒』は、制御出来ないほど強力な存在であるからこそ価値があるモノだ。
だが、ラクルラールの制御は、完全な従属、完璧なる支配を原則としている。
ゆえに、その二つの要素は、どこまで行っても全く噛み合わないのだ。
さらに問題なことには、間を取るという思考が、ラクルラールには存在しなかった。
この場合、適切な選択肢は二つある。
つまり、思い切って戦力の弱体化を覚悟して強い制御で安定性を取るか、あるいは暴走の危険性を覚悟してあえて手綱をゆるめた弱い制御で突き進むか、その二択である。
けれど、この女将軍は、そのどちらも選ばなかった。
彼女は、強大さと同時に、自身への従順さをどこまでも追求したのだ。
それは、好きなおやつを一度に食べ尽くそうとする小さな子どものような、そんながむしゃらな強引さであった。
そこには、妥協や躊躇(ちゅうちょ)というものが、何もない。
その『指導』は、まるで何かに追い立てられているような、あるいは何かを恐れているかのような、そんな強迫的なスタイルであった。