悪役を与えられた藤丸立香が聖杯戦争でオベロンを召喚する話 作:凛夏ナツ
◇
山門の前では、一組の男女が向かい合っていた。全身からトゲを生やした黒いフードと、鎧の女性武者。赤黒い槍と大振りの太刀。互いが互いの胸を貫き、相手をその場に縫い止めていた。足元から、光の粒が夜空へと立ち上る。
「……潮時か」
「ええ、そのようですね」
雨は上がっていた。
轟音と共に立ちあがった光の柱に、雨粒が弾き飛ばされたのだ。退去の黄金が強まり、その体を塵へと還して行く。狂王が口を開いた。
「此度の聖杯戦争、あいつの勝ちだ。……俺はむざむざと利用され、消えゆくわけだが」
「あら、言うほど悪く思っていないのでは?」
頼光が問えば、狂王は沈黙する。
「ふん。……そうだな」
微かに笑うと、二騎のサーヴァントは消えていった。
◇
「……下らない茶番だったな」
オベロンは足下の小石を蹴り転がした。
聖杯の成れの果てだった肉塊は、跡形もない。わずかに木々や草花が残っているくらいだろうか。柳洞寺の境内だった場所は、ただの更地になっていた。
「こらオベロン、立香に嫌われても知りませんよ? ちゃんと最後まで、頼むんですからね」
顔を上げたオベロンがうぇ、と曇天の瞳をしかめた。
夜の冷えた空気が、金の髪を揺らす。
虫をたしなめたアルトリアの姿は、光のなかに薄れ始めていた。全身全霊をかけて放った、最大の一撃。消耗で、霊基が保てなくなったのだ。
「──さようなら、立香、マシュ、凛」
王の風格を漂わせて、聖剣の守護者はふりかえる。湖面の瞳が輝いていた。
もう、前世の
「恐れなく進まれますよう。あなたたちの道行きには、新しい未来へと続く、輝ける希望の灯火があるのですから」
「うん。──さようなら、アルトリア」
立香の前で、豪奢なドレスと大剣が、湖面の瞳が、黄金の塵へと還りゆく。
別れの風が、王の残滓をさらって消えていった。
「お、次は儂か」
後方で声が上がる。赤髪の刀鍛冶が、凛の隣で頬をかいていた。
「儂の今回の仕事はお前さんを護り、聖杯戦争で勝利することだったワケだが……。ま、聖杯の方は使い物にならなくなっちまった。目標はそこそこ達成出来たってところかねェ」
ぽん、と凛の頭に手が乗ると、わしわしとかき回す。にかりと村正は笑ってみせた。
「いやあしかし、お前さんにたらふく食わせてやれるこの仕事は、役得だったぜ」
「っ、セイバー!」
黒髪の少女の頬が真っ赤に染まる。
「はは、達者でな、凛。嬢ちゃんたちも」
「……ええ、セイバーも」
立香とマシュも見守る中、最後の言葉と共に刀鍛冶が宙へと還って行く。
「ふむ」
木立に背を預けていた探偵が、身を起こして肩をすくめた。
「傍観者に別れの言葉は必要あるまい。だが、そうだね」
ふわりと夜風が金色を帯びたホームズの外套をさらう。微かに端正な顔をゆるめて、男は笑ってみせた。
「──なかなか歯ごたえのある事件だった、と言っておこうとも」
言い残して、探偵も消えていった。
人の気があったはずの境内が、一気に静かになった気がした。
「あと残っているのは……」
立香の目が、地面に倒れ伏した道化へと向く。
裂けて血に染まった衣に、傷だらけの肌。術式を使い尽くしてぼろぼろの霊基。酷いものだったが、わずかに上体を起こして道化は問うた。
「……怒っては、おられませんので?」
きょとんとした少女は男の顔の辺りに近寄ると、膝をついた。ニコニコと笑顔で道化の
「
「……」
背後で見守っていた虫は妖精眼で視ずとも言葉の裏を察し、無言で立香の握られた拳に付与をかける。攻撃力を大幅に強化する、オベロン最大の魔術だ。
前世ならば素直に怒りを表現したであろう彼女がこうも婉曲に微笑むのは、自分のような大嘘つきと時間を共にしたが故か。
「
にこにこ、にこにこ。満面のいい笑顔を浮かべて、額に青筋を立てた少女はのたまう。
「──歯ぁ食いしばれ」
飛び出た彼女らしからぬ物騒な言葉に、後ろに立つオベロンの方が思わずぎょっと目を丸くする。正気か? 彼のほうが立香を止めようと思ったくらいだ。
「みんな、私のこと愚かだの可哀想だの言うけどさぁ……」
そんな彼にお構いなく、立香は拳を振り上げた。
武術系サーヴァントたち直伝、全体重をのせた鋭い渾身の一撃が道化へと迫り。
「決めつけるなバカやろう!!」
「ンンンぐッふ!!?」
きりもみしながら、軽く三メートルは吹っ飛んだ。綺麗な白い頬が、めり込んだ拳でぐしゃりと音をたてる。魔術でしっかりと強化された、非常に綺麗な右ストレートが決まった瞬間だった。
「あースッキリした!」
少女はパンと手をはたく。ズカズカと転がった道化まで歩み寄った。意思の強い瞳が男を見下ろす。
「私は私なりに、やりがいと矜持をもってやってるの!」
力強くスカートが風になびき、夕焼けの瞳が不敵にかがやく。勢いよく親指を横に引き、宙で首を掻ききってみせた。
「──だから
ちりん、と悟ったように鈴が鳴る。
しばらく呆然としていた道化は、ふ、と笑みをこぼした。体を起こし、少女へと手をのばす。大柄な黒い衣が、少女を包んだ。
「……ンン、それでこそ、我が主」
「!」
磨かれたつややかな黒曜石の瞳が迫り。
立香の後頭部を引き寄せると、流れるように唇を奪った。
「──しかしこの愛は、真にて」
そこな虫には、音に出来ぬ言の葉でしょう。
美しいかんばせが溢した笑みは、光の粒となって溶け消えていった。
「……」
少女の思考は、止まっていた。
は? 私は今何をされた? いやいやいや、え?
かっと夕焼けの瞳を見開いたまま、血溜まりの残る地面を見つめる。
「……おや、お優しいマスターサマだことで」
うしろで静かに、ブチリと何かが切れた音がした。
道満が退去してひとり残され、呆然とする立香の肩に、後ろから手がかかる。曇天の瞳が、据わっていた。
「ずっと告げないでやったのに、自分からチャンスを不意にするなんてね」
「!?」
ちう、と頬で音をたてた唇が離される。驚きと混乱で少女の頬が赤く染まった。
「あーやだやだ。これだから害虫は」
自分のことを棚に上げてオベロンはぼやく。
ぼんやりして捕まるきみも大概じゃない? ほんっと頭腐ってるね。虫がするりと目元を撫でれば、少女は目を白黒させて大げさに手を振り回した。
「やめろし!?」
「あと触られてたのはどこだっけ。ここ?」
「ひぇ! おおお、オベロンが壊れた! どうしたのお腹すいてるの花の蜜でもいるかなマスターが取ってきてあげようか!?」
「なんできみはそう斜め上にいくかな」
「いやいやオベロンのが頭いってるじゃん!」
だって、おかしい。隙あらばメロンをねだる、いつもの気だるげな彼ではない。頬をくすぐる手つきは『マスター』じゃなくて、明らかに『女の子』を扱う時のものだ。
「ふは、花の蜜とか気色わる。それより、虫にはもっと甘いモノを用意しなきゃ」
「へ?」
オベロンの瞳を見上げて、気づいてしまった。吸いこむ空気が甘ったるくて、とろりと溶けそうなことに。息をすればするほど、身体に熱がたまってジリジリともどかしいことに。
いつのまにか添えられた手が腰をなぞり、夕焼けの髪をすく。道化が先ほど触れた髪に、額に、目じりに。リップ音と共に、柔らかな口づけが落とされる。じわりと少女の頬が真っ赤に染まった。
「ああ、ここもか」
ゆっくりと分からせるように、あえて最後に残された少女の唇を指がつたう。どうにもその先を予測してしまって、ぴくりと夕焼けの髪が跳ねた。
「いい加減、きみは前世から鈍すぎるんだよ」
「な……な…………!」
ぱくぱくと口を開くが、なにも言葉は出てこない。高速で頭の中を思考が流れていく。
というか、オベロンはなぜこんなことをするのだ。新手の嫌がらせか? 人理の修復やら何やら色々ありすぎて気にしていなかったが、前世からベタベタ引っついて来たのは、妖精特有のじゃれつきではなかったのか。いや、え、違うの?
「いや、だって、」
冷や汗をたらして、必死に穴だらけの理論を構築する。
だって、ハベにゃんもバーヴァンシーも、バーゲストもメリュジーヌも、そんな感じだったじゃん! モルガンとか『我が妻』って、出会うなり抱きしめてほっぺたにキスは当たり前だったじゃん! そりゃあ、ちょっと照れたりすることはあったよ!? あったけど、そういうものかと思ってたんだ!!
「言い訳は良くないなあ、マスター?」
おとがいに手を添え、妖精眼が細められる。余さず立香の内心を読み取ってくる瞳を、この時ほど恨んだことはない。オベロンは少女の耳元に口を寄せる。
けどさあ、りつか。
やわらかで、砂糖よりあまい糖蜜をぶっかけたような声が少女に絡みつき、低く耳朶を震わせた。
「──今さら鈍感ぶって、俺から逃げられると思うわけ?」
びくりと少女の体が跳ねる。
「~っ、な!? に、を、」
「うるさい」
やだなあ、人の気持ちには聡いマスターのくせに、まだ分かんないんだあ! そうだ、消毒しとかなきゃ。虫よけスプレーが無くてざんねんだったね。
わざとらしくつぶやいて、また綺麗な顔が近づく。あわてて両手をオベロンの前にかざせば、手首ごと片手で絡めとられた。腕の向こう側からじとりと視線を感じる。雪のように白い肌が心なしか染まって見えた。
「きみはもう少し、男心ってものを理解すべきだと思うけど」
「はぁ!? 知らないよそんなもん! なにが消毒じゃ……ん、むぅっ!?」
照れ隠しで叫んだ口は、あっさりと唇で塞がれる。鮮やかな夕焼けと黒銀の髪が溶け合って、今度こそ混じりあう。悲鳴を上げようものならソレごと飲み込まれ、もちろん息つく暇なんて少女には与えられなかった。
「あーあ。真っ赤になっちゃってカワイソー」
たっぷり時間をかけて翻弄した後で、ようやく虫はぐずぐずに溶けた立香を離した。しめってツヤツヤになってしまった、小さな唇をなぞる。長い指でくすぐった真っ赤な耳には、言葉なんてほとんど入っていないはずだ。
「う、あ……」
ぐるぐる沸騰する頭を回しながら、立香は結論を出さざるを得ない。それから、自分の気持ちにも。
ここまでされれば、流石に分かる。『バカだな』と散々オベロンに言われていた意味がわかってしまう。……いやいや、元から彼のことは信頼してたよ?
なら私は、知らずに告白をしてしまったのでは? 勇気を使い切っちゃったのでは? さっきも『信頼してるよいつもありがとう』の意味で、オベロンに『だいすき』とかナチュラルに伝えて……!
「ああ、今度こそ自覚した?」
曇天の妖精眼が愉しげに笑う。舞台から降りる最後のさいごでようやく。捨てられるはずの憐れな
「ウワガキした甲斐があったね?」
きみに巣食う虫は俺だけで十分だろう?
ぺろりと唇をぬぐって虫は艶っぽく微笑んでみせた。
「──さて、幕引きだ」
足下から、金の光が立ち上っていた。
少女は夕焼けの瞳をかがやかせる。決意を示すように髪がはためき、グローブをつけた手を虫へとのばした。
「オベロン。私、もう君なんていらないよ」
もう、『殺して』なんて終わりを求めたりしない。もう、酷薄な舞台に再び引っぱり出したりしない。私に縛りつけたりなんて、しないから。
手をとって腕の中に引き込まれ、笑われる。
「あたりまえだ。再演はごめんだっていっただろう?」
「……あれ?」
ぐらりと視界がゆれて、足下がふらつく。ゆるやかなめまいがした。背中に手を添えられて座りこむ。
「ほら、そろそろ
オベロンが立香に付与した魔術は、『夢のおわり』。大幅に攻撃力を引き上げるかわりに絶対的な昏睡をもたらす、避けられない終焉。
いつだったか、『いくらでも恨んでいい』と、きみは言ったな。
もうオベロンの身体は向こうがわの朝焼けが透けて見えるほど、薄く、儚くなっていた。
「覚えておいで立香。妖精との契約は運命を縛りつけるものであり、竜の執念は絶対的で嫉妬深い。ラストチャンスだ。今きみが二度と関わるなといえば、俺は手を引こう。どうする?」
立香は重たくなってゆく口を、必死に開く。
「嘘でも君が手を離すのなら、私がもう一度つかんで引き上げるよ」
「ふは、最悪だな」
役目を終えたサーヴァントは座に還る。それは、オベロンとて例外ではない。再び、あの奈落に落ち続けるのだろう。強く少女を抱き締めた指先が、腕が、黒い外套が、光の粒に還っていく。
「ねえマスター、ウソは得意な方かい?」
「ん、」
ねむい。けれど、起きていたい。
消えゆく最後までその姿を脳裏に焼きつけていたくて、重たい瞼を押し上げる。視界にやわらかな眼差しがうつった。
「よく聞いて」
「──俺は憐れなきみを、永遠に嘲笑い続けるとも」
あまりにも最後まで彼らしくて、笑ってしまった。これには相応に答えねばなるまい。
ちゃんと、笑えているだろうか。瞳に涙は、浮かんでいないだろうか。震える声で、答えを口にする。
「……わたしも、オベロンのことなんか大嫌いだ」
「ああ、二度と喚ぶな。吐き気がする」
ひねくれた曇天の瞳が、柔らかな黒銀の髪が、ゆるやかに黄昏に溶けて。
にやりと笑って口づけると、奈落の虫は消えていった。
とうとう眠りに落ちた少女を朝日が照らす。あとには何も、残っていなかった。風に花が揺れるだけ。優しげな、森の匂いが残るだけ。
それはまるで、ひと夏の夢のように。
◇
◇
「『拝啓、藤丸立香さま』、かあ」
構内のベンチに腰かけ、寒さでかじかんだ手をこすりあわせる。大学一年生になった立香は、鼻を赤くしながらガサガサと手紙の封を破いた。二通ある。マシュと凛からだ。
あれから三年。時間というのは現金なもので、経ってしまえば砂浜にかかれた文字のように、思い出は波にさらわれ薄くなって行く。かかれた細部が分からなくなって、曖昧に記憶の底へと沈澱していくのだ。
「マシュ、元気みたいで良かった。また夏には日本に遊びにくるんだね」
マシュは時計塔の魔術師になっていた。
聖杯戦争の代表として、イギリスから参加していたらしい。今ではこまめに連絡を送ってくる。前世の記憶こそないが、嬉しいことにまた立香を「先輩」と呼んでくれるようになったのだ。
夕暮れのなかで吹いてきた冷たい冬の風が、立香の橙のコートの裾をさらう。マフラーに顔をうずめて、立香はもう一通の手紙の続きを追いかけた。
「楽しいなあ」
想像以上に大学生活はにぎやかで、忙しかった。毎日同じように起きて同じように食事をする、穏やかな日々。
最後に自覚した彼への恋心は、とうに捨てた。持っていたってどうしようもない。三年もあれば諦めがつく。ふわりと吐いた温かな吐息が寒空へと消えた。
「……楽しい、な」
寂しげに、枯れ葉が白い手の甲に舞い落ちる。
そっとはらって、通りを行き交う学生たちのおしゃべりと足音をBGMに、寒さで薄く氷の張った水溜まりに目を向けた。
「……」
だんだんぼやけていく輪郭。三年前の、高校二年生の夏。あの時あった出来事は、夢だったのではとすら思えてくる。しかし、人類最後のマスターであった記憶は脳裏に焼きついている。おとぎ話の妖精王に出会った場所も、悪口いい放題のわりに優しい手つきも、別れの唇の感触も覚えているのだ。振り払うように立香は手紙の文章をなぞった。
「へえ! 凛ちゃん、エルメロイ先生の研究室に入ったんだ」
凛はロンドンへ留学した。
時計塔の魔術師として、教育を受けるのだそうだ。なんでも、村正そっくりな知り合いが向こうにいるらしい。時折送られてくる手紙には、先生は偏屈だけど授業はすごいとか、ぶっ飛んだ学友たちの多彩さだとか、楽しげな生活が書かれている。グレイにも会ったようで、あの子、本当に師匠が大好きなのね、と文面で凛はぼやいていた。
「……っと、次の講義行かなきゃ」
コートをはらって立ち上がる。
途中の自販機でお茶買って、ロッカーに教科書置いてるから回収して。
輝きを増した黄昏が、立香の顔を照らす。まぶしくて思わず目を細めた。
ぱしゃり、と水溜まりの氷が踏み割られる音がした。細かく砕けた氷の欠片が、いくつも水面に浮かぶ。立香の目の前に影が立った。
「相変わらずだな。笑っちゃうほど気持ち悪いツラしてるね、きみ」
「……嘘だ」
目を見開く。拒むように一歩下がれば、相手は前へ踏み出した。
もとが非現実的なおとぎ話の登場人物。
カルデアという、どことも知れないゆめのような場所で共に時間を過ごした彼だ。現代的な建物と、続く並木道を背にして立つ姿には、違和感があった。
白いシャツの上から羽織った黒いモッズコート。切れ長の瞳。黒銀の髪こそ奈落を彷彿とさせるものの、アゲハ蝶の羽もなければ異形の手足もしていない。
寸分違わぬ容姿で。
目の前で消えていったあの日のように、オベロンは曇天の瞳をすがめて口もとをゆがめた。
「なんで今さら、下らないウソつかなきゃいけないワケ?」
「……だって、ここに君がいるわけない」
立香はゆるゆるとかぶりをふった。
信じるわけがない。あなたは、私の見ている幻だ。都合のいい、脳が見せた思い出に決まっている。だって三年前のあの日、私を眠りに落として自分はさっさと消えたじゃないか。失恋の傷だけ刻んでおいて。もう、とっくの昔に聖杯戦争は終わったのだ。今さら心をこじ開けようとしないで欲しかった。
オベロンは忌々しげに立香へと歩み寄る。
「げぇ、悪趣味なやつ。ぼくがこうして目の前に立っても信じないとは、きみの目玉も取りかえ時じゃないのかい?」
「……嘘だ」
嘘ウソうそ。
ほら。その聞き慣れた悪態だって、ぜんぶ私がそう言って欲しいだけ。また彼が距離を詰めるから、もう一歩下がれば逆戻り。立香の体はすとんとベンチに腰を下ろした。
「浄化された聖杯」
「!」
「いらなかったんだろう? 使わせてもらったよ」
オベロンはつまらなそうに黒銀の毛先をいじる。
……受肉、したのか? アルトリアから託された聖杯を使って? だから、現世に留まっていられると?
「ここから先は、アンコールのその後の物語なんだ。呪いから解き放たれた一匹の羽虫が何を言おうが読者は知らないし、関係ない」
「というわけで、ぼくも軽率に口にしよう」
ちらほらと雪が降ってくる。
かがむと、呆然とかたまった立香の頬へ手をのばす。視線が立香を真っ直ぐに捕らえる。まなじりを赤く染め、美しい顔でオベロンは少年のように笑った。
「『だいすき』」
「っ!」
動揺、した。
心臓がばくばくと早鐘を打つ。口を開けばひねくれた言葉しか出なかったオベロンの純粋な告白は、それはもう凄まじいもので。たぶん本人も破壊力を分かって使っているのだから、尚更タチがわるい。
「もちろん、きみみたいに日頃のお礼を込めたワケじゃないけどね?」
そっくりそのまま立香が使った言葉を返されて、少女の夕焼けの毛先がびくりと揺れる。しかしこれでも、乗り越えるのは得意なのだ。濁すようにそっぽを向いて吐き出した。
「っ、オベロンはもう、思い出のなかの人だもん。あのとき私の恋は終わったの! いまさら蒸し返されても迷惑だよ」
それにもう、立香は彼を『藤丸立香』というただの少女に縛りつけたくなかった。たしかにあの日、最後に『きみの手をつかんで引き上げる』とかなんとかほざいた気はする。
けれど、三年。三年経ったのだ。時間があれば恋は冷めるし、人の考えとは変わるもので。関わらない、というのがオベロンに対して今の立香ができる、最善の選択な気がしたのだ。
「……へーえ、悲しいなあ。待っててくれたんじゃなかったの? あのとき、クソッタレな夢の続きを望んだのはきみだろう?」
そのわりに、想いを捨てきれずにいるんじゃない?
オベロンは目ざとく立香のバッグに手を伸ばす。蝶のレリーフをあしらったキーホルダーが、動揺を表すようにゆれた。
「恋はさわらず、懐かしむもの、なんて」
俺が目の前にいるのに良くいうよ。
三日月のごとく細められた曇天の瞳が立香を見下ろす。ゆったりと責めるように、オベロンは首をかしげてみせた。
「きみは案外、嘘つきだったわけだ。捨てたと言えばおぼえていて、いらないと言えば欲している」
するりと立香の背後にまわると、ベンチの後ろから腕をのばす。お腹の上に骨ばった手が置かれて、ずしりと首もとに重みがかかる。赤く染まった耳に注がれる言葉から、逃れることは出来なかった。
「それを踏まえて聞こうか。きみはあの時、消え行くぼくになんて言ったんだっけ?」
「……っ、」
『わたしも、オベロンのことなんか大嫌いだ』
抱きしめられた腕から、ふわりと森の匂いがした。熱くて柔らかいものが首筋に吸いついて、リップ音を立てる。吐息が耳朶をくすぐった。
こぼれそうなほど柔らかな声は、凍らせていた立香の想いを簡単に溶かしていく。
「今のぼくには、妖精眼なんて便利なものは無くてね。言ってくれなきゃ分かんないなあ」
「……覚えてるくせに」
この大嘘つき。私でも分かるよ、と膝の上で拳を握りしめる。上からオベロンの手がかぶさって、遊ぶように何気なく、一本いっぽん立香の握った指をほどいてゆく。
「えー? 聞こえないなあ」
あっさり強ばった右手の指をほどかれて、もう片方にも手がかかる。親指から人差し指、中指と来て、薬指に思ったよりも大きな手が触れる。
「っ、あの!」
立香の突然の大声に、ぴくりと手の動きが止まる。
「わたし、講義あるから! ばいばい!!」
そしてもう、二度と顔を見せないで欲しい。すべての指をほどかれてしまったら、何かが溢れてしまう気がして。顔を見てしまったら、涙がこぼれそうな気がして。絶対に振り返るつもりはなかった。
無理やりオベロンの腕をふりほどいて立ち上がる。駆け出した立香に、間延びした声がかけられた。
「忘れものだよ、りーつか」
それでもお人好しな少女は、呼ばれてしまったら、反応しないわけにはいかなくて。恐るおそる振り返る。
ベンチの背にひじをついて優雅に微笑むオベロンの手には、立香のバッグ。
そこにはもちろん、スマホに家のカギ、財布、スケジュール帳などなど、必需品が入っている。すなわち、忘れたら立香は死ぬ。非常に死ぬ。生活的な意味で。
「…………」
「おや、取りに来ないのかい?」
ぴしりと目を見開いて固まる立香に、非常に良い笑顔でオベロンはのたまう。黒いコートが余裕を示すようにひるがえった。
「そこに置いて、離れてもらったりとか……」
「うん、無理だね」
「大学の窓口に届けてもらったり……」
「持ち主が分かっているのにかい?」
しかも目の前にいるじゃないか。ほら、ぼくが渡してあげるからこっちにおいで?
もとより言い合いでこちらに分は無い。それを、立香は前世から良く分かっている。人の良い笑みでニコニコとオベロンは告げる。さらりと肩まである黒銀が揺れた。
「ちょっと、これを言うのは忍びないんだけど……。ねえ、ぼくの勝ちだよ? まだやるの?」
「……」
立香はギリギリと歯を噛み締める。この幸運EX。なぜそこで発揮するのだ。そして私のバカ。こんなの妖精王じゃない。腹黒王だ。黒いコートをバサバサさせやがって、魔王もいいところだ。あれは面白がっている以外の何者でもない。
「……はぁ、強情だなあ。本当は、もう一度ゆめをみたくて仕方がないクセに。寂しくて、忘れたくないクセに。思い出として大切に閉まって置くのも良いけど、あっというまに腐ってしまうよ?」
言葉を尽くしても、相手は首を縦に振らない。いくら罠をはっても、なかなか落ちてこない少女には困ったものだ。
「しょうがないなあ」
「…………」
いろんな意味で逃げ道を潰されて微動だにしなくなった少女に、艶然と微笑んだオベロンはただ腕を広げた。いくら言葉が皮肉げでも、面白がっていようとも、その視線は限りなくやわらかい。
「ほら、りつか?」
「…………ぅ、」
遠くの風の音が聞こえるほど、長くながく考えた。永遠の時間が経ったようにも思えて。
「……」
そんなことをされてしまえば、結局とれる行動なんてひとつだけで。オベロンの腕が、飛び込んで来た立香を力の限り抱きしめた。
「……バカオベロン。卑怯だ」
胸に顔を押しつけてぼやけば、大きな手が優しく髪をなでた。胸に広がるのは、森の匂いと言い表せないこみ上げる感情。
その幸運と周到な準備で、ブリテンすら絡めとって滅ぼしてみせた奈落の虫。オベロンにとって、私を相手に言葉と行動であまい罠を張るなんて、お手のものなんだろう。
「きみも腐るほど往生際が悪い」
曇天の瞳が細められ、耳元でささやく。
「でもごめん、残念だったねえ。せっかく他の連中がいないんだ。だからもう諦めて、」
「──大人しく俺に捕まれよ」
どれだけ前から待ったと思ってるんだ。
低く掠れて余裕のない声は、指二本分、立香の最後の壁を壊すには十分だった。ひょいと男性にしては細い腕が立香を抱き上げる。
「オベロンわたし講義!」
「あーあー聞こえなーい」
「下ろせバカ!」
「俺の家に着いたら下ろす」
「っ、その前に色々やることあるでしょ! そうだ、メロン食べよう!? オベロンの好きなやつだよ!?」
「いいとも。ちゃあんと『食って』やるよ」
「!?」
水溜まりに浮いた氷の欠片は黄昏の光を映して、きれいに溶けて無くなっていた。
「──気づかなかったね、最後まで」
口のなかでつぶやいた言葉は、誰にも届かない。
腕のなかの少女にひとつ口づけを落とすと、オベロンは歩く速度を早める。
「オベロン?」
「なあに、立香。あ、足りなかった?」
「! 足りてる! いらな、」
「隠すなよ」
オベロンは綺麗に微笑んだ。言いかけた少女の言葉を端から食らって、唇ごと貪る。二人の影が重なった。
──あなたの物語が、幸せな結末を迎えられますように! どれほどの悲劇でも、あなたの歩みが力強くありますように! 喜劇であれば、最後に誰もが、拍手喝采できる喜劇でありますように!
──これは、ゆめと希望の物語。
とあるプリテンダーが贈る、夏の夜の喜劇。
星を生み出し、ひねくれた愛で織り成す、叙情的で冒険的な後日譚。どこかの世界の果ての果てに、こんな歴史が紡がれたって良いだろう。
語られたるは、ひとつの未来。悲劇の再演に引っぱりだされた、二つの星の、その行く末。罪なき者は、覗くといい。ここはきらめく、希望の終点。
「さあ、行こうか」
新しく、一歩踏み出す。
夕焼けをさらった虫の姿は、黄昏の中に消えていった。
The pretended happy end credits.