クトリ達が15番島へ、超大型の獣の討伐へ出立して一週間、まだ何の知らせも入ってこない。
相応に長引く戦いであるとは分かっていた。焦ったところで、68番島から俺が出来る事は何もない。
今はただ、戦いを終えたあいつらが帰ってきた時に。
ここがいつも通りの妖精倉庫、安心できる家であれるよういつも通りの生活を回して、最高に美味いバターケーキで迎えられるよう練習を積み重ねておくだけだ。
だがしかし───
「あなた達は本当に懲りないわね。危ない事はしちゃダメだって、毎日毎日何度も何度も言ってるでしょう?」
今日も命知らずな子供達がやらかした。
キッチンの棚の天板。子供達の手が絶対届かない、高い場所に置かれたお菓子の入った箱。
何が何でもそれを手にしようとした飢えた三人のちび達は、まずテーブルを棚の傍まで引きずってきて、その上に乗っかった。
しかしその程度では、全然全く手が届かない。
ならばと一人を肩車した。ふふふこれならどうだ。
それでもまだ、全力で震えるほどに手を伸ばしても、強引につま先立ちしても、あとほんの僅かに届かない。
後はどうなったかなど言うまでもない。
ここまで来て諦められるかと、残った一人が三段肩車に果敢に挑戦。当然の如くバランスを崩して肩車は無惨に崩壊、三人揃ってうひゃあーと間抜けな奇声を上げて、何も掴み取れないまま床にビタンと叩きつけられたのだった──
女の子っぽさを殊更に強調したフリルいっぱいのメイド服に、同じくほんわかした笑顔と口調。
だが、その女。
妖精倉庫の先任管理者ナイグラートの周囲は。やつの周囲だけは。
外は雲がまばらに散るだけの、気持ちがいい晴天の筈だ。
窓からも陽光が射し込み、この管理者室を明るく照らしている。
それでもちび達相手にお説教モードのナイグラートの周囲だけは、巨人の鉄拳でも貫けないような分厚い暗雲が立ち込め、雷鳴が轟と鳴り響く。そういうイメージで世界が塗り替えられてしまっている。
「言う事を聞かない悪い子達は」
ヤツの唇が、小さな三日月のような笑みを象る。
それはじわりじわりと大きくなり、普段はこれまた女の子らしい清楚な仕草によって巧みに隠されたそれが徐々に顕になってくる。
ちび達三人が、恐怖のあまり涙目でガタガタと震えながら、互いに密着しぎゅっと強く抱きしめ合う。
すまん。説教が行き過ぎた事にならないように部屋の隅っこにて立ち会わせてもらったんだけど、俺もそいつに混ぜてもらっていいか?
やがて剥き出しとなる、肉を引き裂き食い千切り、かつての人間族ですら震え上がらせた、最強と名高いトロールの牙。その眼光が子供達を捉え、
「食べちゃうわよ?」
悲鳴と涙と逃走本能が決壊した。
うぎゃあああんごめんなさいごめんなさいもうしませーーーんと叫びながら、獅子に慈悲をかけられたネズミの如きスピードでちび達は管理者室から逃げ去っていった。
…あーあ、可哀そうに。
練習中の不完全なバターケーキでもよけりゃ、後でこっそり食べさせて慰めてやらなきゃな。
「やってやったZE☆」みたいな笑みで親指を立てるんじゃねえよ、お前流の威嚇は普通なら大の大人だって問答無用で失神しかねないんだからな、頼むからもう少し世間とトロール族との常識の乖離を自覚しろ。
───まあ、しかし確かに。
あのちび達相手には、あれぐらいやらなきゃ意味がないという理屈も、分かると言えば分かるのだ。
妖精は、死を理解する前に死んでしまった幼い子供の魂が現世に迷い出たモノ。
死を理解できない故に、どうしても死に直結するような恐怖や痛みに鈍感で。
もし普通の子供が、町中で飢えた野犬にでも遭遇すれば、『危ない』『怖い』『襲われる』『近寄ってはならない』という直感が心に警報を鳴り響かせ、決して近寄らずに距離を取るだろう。
妖精はそれが出来ない。
迂闊に近付いて、噛みつかれでもしたらどれ程痛いか想像できない。
いざ噛みつかれたとしても、痛みを痛みとして実感できない。血が流れ、身体を赤く染めても、それを本能的に命の危機と認識できない。傷を負い、機能が低下した体にろくに疑問も抱かずに、引きずりながらでも動き続けてしまう。
そういう子供達を、いけない事はいけないと躾ける為には。
理屈ではなく、身体で理解してもらう為には、撫でるように岩を粉砕し、銃や剣程度では掠り傷さえ負わせられない、トロール級理不尽生物のガチ威嚇が時に必要なのだ。
──けどそれは、彼女達の身を純粋に案じての事ではない。
いずれ浮遊大陸を獣の侵攻から守る戦士となる為に、無事に育ってもらわなければならないから。
ただでさえ希少な戦力を、戦い以外の事柄で失うわけにはいかないからだと。
吐き気を覚えながらも、それ以外に獣と戦う手段がない現実を認めてしまっている。
認めざるを得ない、自分自身に腹が立つ。
一人の男、一人の親として。
かつての準勇者、人類の守護者ヴィレム・クメシュとして。
ただ支えるだけじゃなく、その戦い全てを肩代わりしてやれれば、どんなにいいかと、見苦しく思ってしまう。
そして、あの子供達とクトリ達以外に、もう一つ気がかりな事がある。
ナイグラート・アスタルトス。
俺がここに来る以前まで、一人で妖精倉庫を支えていた先任管理者。
あいつがやっている事は、心を鬼にした──いや、実際体の方も紛う事なき本物の鬼なのだが──、子供達を守る為の嫌われ役だ。
俺がいる間はいい。
あいつらを、戦場に送り出すのが辛いなら。
ちび達を安心して過ごさせる為に笑顔を作り続けるのが、嫌われ役を担うのが苦しいのなら、愚痴くらいいくらだって聞いてやる。
それが大人としての、同じ管理者としての役目という物だ。
だが、この治る見込みもない、壊れかけの身体を引きずっている自分に、あとどれくらい時間が残されているのか。
あとどれくらい、こうして生きて働いていられるのかは分からない。
いつか、俺がいなくなったなら。
軍側とも商会側ともさして交流のない、左遷させられた者が島流しのように送られてくるこの場所で。
この場所を守り抜きたいと思っているだろうあいつが。クトリを帰る事の許されない死地に送り出さなければならない事に耐えきれず、泣き叫んでいたというあいつが。
強い女のフリをして、やせ我慢を重ねて、誰にも弱さを見せないまま、道半ばで独り心折れてしまわないだろうかと。
この世界に居場所のない俺がこんな事を思うなんて、きっと傲慢なのだろうけど。
俺は、俺がいなくなった後のそれが、とてつもなく心配なのだ。