咲みを戒む   作:水ようかん -Mzyukn-

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第1話

 

 私は、その生徒の写真を三葉、見たことがある。その感想として特記すべきことはなく(何より私が彼女の人となりを知らないということもあり)、強いて言うならば、「危うい少女だ」というのが専らの印象だった。危険だ、ではなく、危なっかしい、でもなく、危ういと評した自らの直感が正しいかどうかを知るのは、当時の展望として私が予測・予定していたことではなく、少なくとも、私自身から、或いは彼女自身から、能動的に接触を試みるのは、全く期していないことだった。無論私の方から彼女の方へ何かしら働きかけることは(やぶさ)かではなかったのだが、遠巻きに撮られた写真に映るその彼女は、ニヒルを湛えたその瞳で以て「無用だ」「今ではない」とフィルム越しに語りかけてきているようであった。

 

 

 

 早いもので、私がシャーレに赴任してもう一年が経とうとしていた。

 激務に忙殺される隙間を縫うようにして生徒達と触れ合い、理解を深め、やがて彼女らからの敬慕を感じるようになるのには、手前味噌かもしれないが、生来のお人好しとお節介が作用して、さほど時間はかからなかった。

 ここでの「先生」という存在はよほど特殊なものなのか、街を往けば好奇の視線に晒され、その好悪を問わず様々な目的で話しかけられ、なるほど客人(まろうど)とは稀人(まろうど)か、と独り合点していたものだ。まるで私が舶来の珍獣であるかのような扱いに慣れるには、並々ならぬ辛抱があったことは割愛しておくとして、そうは言っても、以前まで「先生」を必要とせず、その存在の余地を許さなかった、所謂(いわゆる)「閉じたコミュニティ」に突如現れた私は、凪の水面に投じられた一石のようですらあっただろう。勿論、連邦生徒会長とやらの失踪や、立て続けに諸処で起こる騒擾やトラブルといった問題に対処する為に招かれたというのは承知しているが、その得体の知れぬ連邦生徒会長とやらのお眼鏡に適っているのかどうかは、今以て尚判然としないのである。

 さて、その私がこの街では珍奇な存在であるというのは既に述べた通りだが、この街の「先生」が私一人であるというのは同時に、私の業務を代替できる者がおらず、仕事を翌日に持ち越すのは即ち自らの首を絞めることを意味しているのだった。つまり私が連日連夜這う這うの体で、(ほとん)どシャワーとベッドしか使わない自室に帰ることになるのは、半ば必定のことだった。しかしそこは必ずしも安息の地たりえず、仕事を持ち帰り、起きている時間がそのまま仕事をしている時間という等号で結ばれることになる。シャーレでしか進められない仕事ばかりであればこういうことにもならなかったのかもしれないが、そういうことに限って融通が利くのは皮肉と言う他ない。いっそのこと私の活動拠点を丸々シャーレに移してしまおうかとも考えたことがあったが、確たる自らのテリトリーを持つこと、これだけは譲れないと、残った猫の額ほどのプライドがこれを固持していたのだった。

 いつまで経っても新築の臭いの抜けない私の部屋は、一方で僅かでも気を抜けば埃が積もってしまう清濁の均衡を保っていた。趣味がないわけではなかったが、多忙を極める日々の中、必需品以外を手に入れるほどの時間的余裕はなく、人間として最低限の生活を営むに足るミニマリストのような内観に帰結していた。

 その日は雨だった。夜ごとそうしていたように、私は疲弊しきった身体に鞭打って無味乾燥な白室へと続く廊下を歩いていた。鞄の中の書類とタブレット端末が本来の何倍もの重さに感じられる。剰え、たった数百グラムの蝙蝠傘や、お世辞にも肉づきのいいとは言えない痩せ気味の身体(連日の激務に因らない生得的なものである)も、石地蔵を背負っているかのように私の足取りを重くさせている一因であった。ぼつぼつと外壁や地面を叩く雨音に(へき)(えき)しつつ、等間隔に並ぶ白色灯を(たの)んで角を曲がれば、すぐそこが私の(ねぐら)だ。

 

 ――おや?

 

 日付が変わるか変わらないかといったこの時間帯は、平時であれば人っ子一人見かけることのない閑散としたものであるのだが(現に私は、隣人と顔を合わせるどころかその存在も不確かである)、この集合住宅の住人なのかその客人なのか、私は扉の前に座り込んで俯く者の影を認めた。そして、近付くにつれ、どうやらその影の持ち主は、私を待っているかのように私の部屋の前に鎮座してしているらしいことが分かってきた。

 特に(やま)しいこともなければわざわざ足音を殺す理由もないので、私は普段通りに歩いていく。もしあれが私に敵意を持つ者であれば、この時点で何かしらのアクションを起こしていても何ら不思議はなく、どうやら私に仇なす目的でここにいるわけではないだろう、と楽観論に基づいた意識で近付いていく。そういった警戒心を欠いた態度を(ただ)されたこともあったが、身体に重くのしかかる疲労が既にそのことを忘却の彼方へと追いやっていた。

 その傍に立って初めて、私の部屋の前で微動だにしなかったその者(所属こそ不明だったが、女生徒であろう)は、片膝を立てたままの姿勢で僅かにこちらを一瞥したようだった。「ようだった」というのは、本来窺い見ることのできたであろうその(がん)(ぼう)に髪が覆い被さっていたせいで、こちらに一瞥をくれたのだと確信を持って断言できなかったことと、その所作があまりにも微かなものであったこと、これらによるものであった。

 

 ――君は? 私に何か用?

 

 私は跪いて尋ねた。この少女が夜更かししているのであれ、素行不良であれ、やることは変わらない。帰る場所があるのならそこに帰してやるつもりだったし、帰れない事情があるのなら話を聞いたり余っている部屋を貸してやったりするつもりでいた。勿論、そのどちらにも当て嵌まらず、平穏無事に事が済むのであればそれに越したことはない。どうあれ、まず彼女が何者で何の目的でここにいるのか訊かないことには、何も始まらない。

 

「…………」

 

 しかし彼女は黙しており、ふわりと黒髪が揺れているのみだった。相も変わらず廊下の外では雨音が響いており、それがいやにこの沈黙を際立たせていた。けれども彼女が意図して沈黙を貫いているというふうにも思えず、よく聞こえなかったのかもしれないと考えて私は再度同じように質問を投げかけてみた。

 

 ――えっと、どうしてここに?

 

「…………」

 

 (にべ)もないとはこのことだろうか。どうやら彼女に敵愾心がないことは先刻の直感に違わなかったようではあるが、そもそも関心すら向けられていない(おそれ)が現れ、私の胸には空虚な風が吹いていた。

 この時、少なくとも、私にとって幸いと言えたのは、片言隻語の発話で意思疎通が実現するとは考えていなかったという、根気だとか、我慢強さだとか、諦めの悪さだとか、そういった類の精神構造を備えていることであった。言い方を変えれば、それは「先生」としてここに赴任してくるにあたって、当然有しているべき気質であった。

 私はあれほど自身を苛んでいた疲労のことなどとうに忘れ、意識の大部分を眼前の少女に占められていた。()むことなく、今度は少し肩を揺すってみることにする。

 軽く掴んだだけの彼女の肩は、上から羽織っている白いコートのせいか、外見よりも細く思えた。

 ゆさゆさ、と彼女の身体を揺らしたり肩を叩いたり呼びかけたりを続けていたが、暫くそうしていると、不意に彼女の頭ががくりと沈み込んだ。頬杖をついて船を漕いでいた者が、急に支えを失ったかのようだった。その様子に、私は、

 

 ――眠ってる?

 

 と(いぶか)る。

 否、そうではなかった。

 近くで耳を(そばだ)てなければ分からなかったほどその呼吸は浅く、弱々しかった。更にコートの内側が赤く染まっており、その源が彼女の脇腹にあることを視認した(コートの下の黒いパーカーが気付くのを遅れさせていた)。そこで漸く、私はこの少女がただ座り込んでいるのではなく、衰弱しているのだということを知った。

 私は迷わず彼女を抱え上げた。

 どういう経緯でここに辿り着いたのかは分からないが、自分が「先生」であるとかそういう理屈を抜きにしても、怪我をしていて動けない者を放置できるほど冷血漢ではなかった。

 

 ――うわ、荷物、重……。

 

 彼女が背負っていたリュックの重さに腰を抜かしそうになる。彼女の荷物は一旦廊下に置いておいて(この時間帯に得体の知れぬ荷物を盗む輩などいないだろう)、私はとりあえず彼女だけでも部屋に運び込むことにした。じっとりと汗ばんだ少女の身体は、その大きなリュックよりも、ともすれば私の鞄よりも軽く感じられ、不気味な薄ら寒さを覚えさせていた。

 

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