私は、その生徒の写真を三葉、見たことがある。その感想として特記すべきことはなく(何より私が彼女の人となりを知らないということもあり)、強いて言うならば、「危うい少女だ」というのが専らの印象だった。危険だ、ではなく、危なっかしい、でもなく、危ういと評した自らの直感が正しいかどうかを知るのは、当時の展望として私が予測・予定していたことではなく、少なくとも、私自身から、或いは彼女自身から、能動的に接触を試みるのは、全く期していないことだった。無論私の方から彼女の方へ何かしら働きかけることは
早いもので、私がシャーレに赴任してもう一年が経とうとしていた。
激務に忙殺される隙間を縫うようにして生徒達と触れ合い、理解を深め、やがて彼女らからの敬慕を感じるようになるのには、手前味噌かもしれないが、生来のお人好しとお節介が作用して、さほど時間はかからなかった。
ここでの「先生」という存在はよほど特殊なものなのか、街を往けば好奇の視線に晒され、その好悪を問わず様々な目的で話しかけられ、なるほど
さて、その私がこの街では珍奇な存在であるというのは既に述べた通りだが、この街の「先生」が私一人であるというのは同時に、私の業務を代替できる者がおらず、仕事を翌日に持ち越すのは即ち自らの首を絞めることを意味しているのだった。つまり私が連日連夜這う這うの体で、
いつまで経っても新築の臭いの抜けない私の部屋は、一方で僅かでも気を抜けば埃が積もってしまう清濁の均衡を保っていた。趣味がないわけではなかったが、多忙を極める日々の中、必需品以外を手に入れるほどの時間的余裕はなく、人間として最低限の生活を営むに足るミニマリストのような内観に帰結していた。
その日は雨だった。夜ごとそうしていたように、私は疲弊しきった身体に鞭打って無味乾燥な白室へと続く廊下を歩いていた。鞄の中の書類とタブレット端末が本来の何倍もの重さに感じられる。剰え、たった数百グラムの蝙蝠傘や、お世辞にも肉づきのいいとは言えない痩せ気味の身体(連日の激務に因らない生得的なものである)も、石地蔵を背負っているかのように私の足取りを重くさせている一因であった。ぼつぼつと外壁や地面を叩く雨音に
――おや?
日付が変わるか変わらないかといったこの時間帯は、平時であれば人っ子一人見かけることのない閑散としたものであるのだが(現に私は、隣人と顔を合わせるどころかその存在も不確かである)、この集合住宅の住人なのかその客人なのか、私は扉の前に座り込んで俯く者の影を認めた。そして、近付くにつれ、どうやらその影の持ち主は、私を待っているかのように私の部屋の前に鎮座してしているらしいことが分かってきた。
特に
その傍に立って初めて、私の部屋の前で微動だにしなかったその者(所属こそ不明だったが、女生徒であろう)は、片膝を立てたままの姿勢で僅かにこちらを一瞥したようだった。「ようだった」というのは、本来窺い見ることのできたであろうその
――君は? 私に何か用?
私は跪いて尋ねた。この少女が夜更かししているのであれ、素行不良であれ、やることは変わらない。帰る場所があるのならそこに帰してやるつもりだったし、帰れない事情があるのなら話を聞いたり余っている部屋を貸してやったりするつもりでいた。勿論、そのどちらにも当て嵌まらず、平穏無事に事が済むのであればそれに越したことはない。どうあれ、まず彼女が何者で何の目的でここにいるのか訊かないことには、何も始まらない。
「…………」
しかし彼女は黙しており、ふわりと黒髪が揺れているのみだった。相も変わらず廊下の外では雨音が響いており、それがいやにこの沈黙を際立たせていた。けれども彼女が意図して沈黙を貫いているというふうにも思えず、よく聞こえなかったのかもしれないと考えて私は再度同じように質問を投げかけてみた。
――えっと、どうしてここに?
「…………」
この時、少なくとも、私にとって幸いと言えたのは、片言隻語の発話で意思疎通が実現するとは考えていなかったという、根気だとか、我慢強さだとか、諦めの悪さだとか、そういった類の精神構造を備えていることであった。言い方を変えれば、それは「先生」としてここに赴任してくるにあたって、当然有しているべき気質であった。
私はあれほど自身を苛んでいた疲労のことなどとうに忘れ、意識の大部分を眼前の少女に占められていた。
軽く掴んだだけの彼女の肩は、上から羽織っている白いコートのせいか、外見よりも細く思えた。
ゆさゆさ、と彼女の身体を揺らしたり肩を叩いたり呼びかけたりを続けていたが、暫くそうしていると、不意に彼女の頭ががくりと沈み込んだ。頬杖をついて船を漕いでいた者が、急に支えを失ったかのようだった。その様子に、私は、
――眠ってる?
と
否、そうではなかった。
近くで耳を
私は迷わず彼女を抱え上げた。
どういう経緯でここに辿り着いたのかは分からないが、自分が「先生」であるとかそういう理屈を抜きにしても、怪我をしていて動けない者を放置できるほど冷血漢ではなかった。
――うわ、荷物、重……。
彼女が背負っていたリュックの重さに腰を抜かしそうになる。彼女の荷物は一旦廊下に置いておいて(この時間帯に得体の知れぬ荷物を盗む輩などいないだろう)、私はとりあえず彼女だけでも部屋に運び込むことにした。じっとりと汗ばんだ少女の身体は、その大きなリュックよりも、ともすれば私の鞄よりも軽く感じられ、不気味な薄ら寒さを覚えさせていた。