咲みを戒む   作:水ようかん -Mzyukn-

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第3話

 

 厨房では油の跳ねる音と包丁が(まな)(いた)を叩く音、ついでに鼻歌が響いていた。熱せられた醤油と砂糖の甘辛い匂いが立ち込め、口の中で唾液が出てくる。包丁を置くと、計ったようなタイミングで炊飯器が電子音を鳴らし、今度は水に濡らしたしゃもじを手に取る。炊飯器の蓋を開けるとむわりと湯気が立ち上り、粒の立った白飯が顔を出した。固めに炊いた白飯を釜の底から(さら)うように掻き混ぜ、少し蒸らす為に再び蓋を閉める。今度はフライパンを覗き込んで、両面の焼き色が狐色になっているのを確認すると、IHコンロの火を止め、平皿に移し替える。そこに先程線切りを終えたキャベツを添えて、摺り下ろしておいた生姜を乗せる。茶碗に白米をよそい、ダイニングテーブルに持っていく。

 

 ――できたよ、豚の生姜焼き。

 

 私は、テーブルの座席、ではなく、ダイニングの隅の窓際で三角座りをしてこちらを眺めていた少女に声をかけた。

 

「……要らない」

 

 素っ気ない返事と共に、少女は視線を窓の外に遣る。

 

 ――美味しいのに。味は保証するよ。

 

 冷蔵庫から出してきた烏龍茶をグラスに注いで、私は席に着いた。

 

 ――戴きます。

 

 合掌して、いの一番に豚肉に箸を伸ばす。一摘みの生姜を包み込むようにして持ち上げ、滴る肉汁と手製のタレを白飯に吸わせて、一気に口に放り込む。生姜と甘辛いタレの風味が消えてしまわないうちに、次いで白飯を掻き込む。タレが白飯に染み込んで、固めの歯応えと新米の甘みとに混ざり合って、思わず舌鼓を打つ。

 至福の時だった。この時ばかりは、日頃の疲れも忘れて、束の間の幸福に浸ることができる。完食してしまえばそれも終わりだが、今それを考えるのは野暮というものだろう。

 

「どうせ栄養になるなら、何食べたって同じでしょ」

 

 食事を堪能する私が視界に入ったのか、嘆息混じりに少女が言い捨てた。

 

 ――何食べたって同じなら、どうせなら美味しいもの食べたいでしょ。

 

「む…………」

 

 言い返せなくなったのか、少女がむくれた様子で憮然とそっぽを向いた。

 その後は彼女が何かを言ってくることもなく、私も食事中に雑談をする性分でもなかったので、ダイニングは、二人が()(なが)らにして一人分の食器が箸と触れ合う音のみという、奇妙な空間に成り果てた。

 

 

 

 食後、烏龍茶を飲み干したグラスをテーブルに置き、一息ついた私は、依然として部屋の隅から微動だにしない少女の方に向き直った。

 

 ――まずは名前から教えてもらってもいいかな。

 

 暗闇と月明かりの狭間に座す少女は、こちらを一瞥した。

 その鋭い(まなじり)は、こちらへの敵意こそ見て取れなかったが、代わりに警戒心を隠しもせず放ち続けていた。

 私自身にも彼女に訊きたいことは色々あったし、一方的に相手のことを警戒するのは少し不公平じゃないか、と思わなくもないが、そこは教職の鉄面皮で本心を覆い隠しておくことにする。

 どうあれ、教師としての云々を抜きにしても、彼女も私のことを敵と認識しているわけではないようだったし、対話を試みるのは間違いではないだろう。

 そんな私の期待とは裏腹に、少女は横目にこちらをじっと見つめていて、一向に口を開く気配を見せなかった。つい先程まで既に一言二言交わしたのだから、今更何を遠慮することがあるのだろうか。或いは今までの会話は私の思い違いで、本当は口を利けないのではないか、とすら思えてきた。

 私が(すい)()してから、十秒ほど経った頃だろうか。本当はもっと短かったかもしれないし、長かったかもしれないが、ともあれ、沈黙に耐えかねた私が、もう一度同じ問いを投げかけようと口を開いた時に、機先を制するようなタイミングで彼女がぼそりと呟いた。

 

「……ミサキ」

 

 その消え入るようなか細い声に、私は彼女が本当に発声したのかどうか疑わしく思ったが、

 

「戒野ミサキ」

 

 と、畳み掛けるようにして再度発せられたそれが疑いを否定した。

 戒野ミサキと名乗った目の前の少女は、三角座りの両膝に口元を埋めるようにして俯き、それ以降再び黙り込んでしまった。暫く二の句を待ってみたが、向こうからそれ以上の追加の情報はなく、キャッチボールは自分の番なのだと理解するのに少し時間がかかってしまった。

 口数の少ない生徒は珍しいものではなく、そういった子らとの交流も今まで経験としてなかったわけではなかったが、ミサキには、その経験則の通じない異質な壁のようなものを感じていた。或いは霞のような、捉えどころのない不確かな虚像か。

 

 ――……うん、そうか、ミサキか。私は、●●●っていって、先生なんだけど――。

 

「知ってる」

 

 戸惑いからか、緊張からか、辿々しくなってしまった自己紹介は、尚も平坦な口調のミサキによって遮られた。

 

 ――そ、そうか。それなら話は早い。ミサキ、君はどうして私の部屋の前に?

 

「憶えてない。殆ど無意識だったから」

 

 ――酷い怪我だったからね。ここまで来られたのも不幸中の幸いと言っていいかもしれない。

 

「そうかもね」

 

 ――…………。

 

 ぽつぽつと雫が落ちるように短い言葉だけを返してくるミサキのお蔭で遅々として進まない会話に、業を煮やしそうになるが、抑える。

 そもそも生来のせっかちというわけでもなければ、むしろ、どちらかといえば辛抱強い方ではあると自認しているので、これくらいで取り付く島もないと音を上げるわけにもいかなかった。

 ただ、この街の生徒の多くは「先生」という稀少生物に対して新奇性を見出して近付いてくるので、最初からこちらを警戒している、もしくは見定めんとする状態の生徒には、いつもより少し慎重に言葉を選ばなければいけない。

 そして言葉を選びすぎたせいか、私が視線をあちらこちらに彷徨わせて話し倦ねていたが、気を遣われてしまったのか、先に声をかけたのは今度はミサキの方からだった。

 

「……このスウェット、先生の?」

 

 ――あぁ、うん、そうだけど。

 

 私が過去に購入してついぞ着ることのなかった新品の黒いスウェットは、その色も相まって、窓際に座してこちらを見遣るミサキの輪郭をぼやかしている。降り続いて久しい長雨が粒となって窓硝子に貼り付いて点在し、雨雲を突き抜けて拡散した月光と地表から伸びる街灯りとが、ミサキと雨粒のシルエットを室内へと仄明るく落としていた。

 ミサキは僅かに目を眇め、片脚を真っ直ぐ伸ばして、立てている方を抱える腕に口元を埋める。

 

「もしかして、見た?」

 

 無機質な瞳がこちらを正面に見据える。

 その平坦な声色には質問以上の意図は感じられず、ただ言葉の表層に乗せられたそのままの言葉が私の耳朶を打った。

 私は思わず背筋を伸ばした。

 

 ――見たって、何を?

 

 能天気に鸚鵡返ししてから、しまった、と思った。

 私が着せた服の話から、見たのかと訊かれれば、年頃の少女ならばほぼ自明だった。

 どうにも最近、常軌を逸した着こなしの生徒ばかり相手をしていて、真っ当な服飾と羞恥心の概念を失念してしまっていたようだった。勿論そういった生徒はあくまでもイレギュラーで、大多数の生徒が常識の範囲に収まった服装をしていることは念頭に置いておくとしても、私が何の気なしに(医療行為の一環とはいえ)気を失った少女の汚れた服を脱がせたことは紛れもない事実であり、その辺りの配慮を怠った私は痴漢の誹りを免れないだろう。もしも言い訳が許されるなら、彼女の安全の確保に頭がいっぱいで、そのような邪心にかまけている余裕はなかったと言いたかった。ただ、それが彼女に対して免罪符となりうるのかということについては疑念の余地が残り、迂闊な弁解は火に油を注ぐ結果ともなりえた。今は敵意こそないものの、先程首元にナイフを突きつけられた時のように、いつ再びこちらに牙を剥くか私には分からなかった。

 

「私の身体。見たんでしょ?」

 

 構える私に対して、ミサキは何を当然のことを、とばかりに嘆息した。

 正直なところ、私はもう観念するしかないと思った。下手に嘘をつけばすぐに露見するだろうし、誤魔化したり論点をずらしたりするのも同様に悪手だろう。

 

 ――ごめん! けど、怪我の手当でいっぱいいっぱいで、正直他の所なんて全然見てないよ! 怪我の所だけだから本当に!

 

「えっ?」

 

 ――……えっ?

 

 こちらを射竦めるように細められていたミサキの瞼が大きく見開かれる。

 私の謝罪の言葉の何かが彼女を驚かせるに足る要素を含んでいたようなのだが、それが何なのかは私には分からなかった。

 一方で、ミサキははっとしたようにスウェットの襟元を広げて中を確認したり、袖を捲り上げて腕に巻かれた包帯をまじまじと眺めたり、細い首に手を遣って感触を確かめたりを繰り返した後、やがてじっとりとした目つきでこちらに向き直った。

 

 ――……ミサキ?

 

「……見てるじゃん」

 

 ――いや、だから下着も裸も全然見てないんだって!

 

「そっちじゃなくてッ!」

 

 その華奢な身体からは想像もつかないほどの大音声で、ミサキが声を張り上げた。が、それが脇腹の傷に響いたらしく、彼女は腹部を押さえて呻いた。

 

()〜っ……そっちじゃなくて、手首のリスカ痕とかの方を、見たのかって、訊いてるの」

 

 ミサキがぜえぜえと喘ぎながら補足した。未だ痛むらしい銃創のことも気掛かりだったが、私は彼女の今の発言に耳を疑った。

 

 ――リスカって、リストカットのこと? それ自分でやったの?

 

 何故自傷したのかだとか、何か悩み事があるのかだとか、色々尋ねたいことが浮かんでくるが、少なくとも、今はそんな踏み込んだ話に頓着するような間柄ではないだろう。喉元まで出かかった諸々の言葉を寸前で呑み込んで、私はミサキの返答を待った。

 

「先生……知らずに私の手当を?」

 

 私は頷いた。

 

 ――まぁ、深いことは訊かないよ。まずは君が無事ならそれでいい。

 

 ミサキはそれに僅か瞠目して、やがて少しだけ微笑んだ、ように見えた。

 

「……変わってるね。先生って」

 

 ――じゃなきゃ、こんな所に来ないよ。

 

「……そうかもね」

 

 再び私と彼女の間に沈黙が訪れた。後に残ったのは、雨粒が窓を叩く音だけだった。硝子越しのそれが、どこか遥遠な世界の出来事であるかのように錯覚させ、私達をそこから隔絶していた。

 

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