結局、私はミサキの自傷について
けれど、先生として、彼女がここを訪れた理由と経緯を知らないわけにはいかなかった。先程彼女は「憶えていない」と言っていたが、何も全く憶えていないということはあるまい。或いは、本当に憶えていないのであれば、明日の朝一番で然るべき医療機関かそれに属する生徒の元へ彼女を連れて行かねばならない。
「…………っ」
しかし改めて訊き直してみても、彼女は苦い顔をするばかりで、しんしんと降り続く夜雨が窓硝子をしとどに濡らしているのを眺めるしかなかった。
あくまで私見ではあったが、私には、ミサキの纏う雰囲気から、彼女が塞ぎ込んでいるというわけではなく、何か言うべき事柄を秘めていてそれを
だが、このままでは、その秘められた事柄に関して有効な訊問を敢行することもできなければ、彼女の心中を推し量ることもできない。
所属がどこであれ、彼女もこの街における一生徒であることは間違いなく、であれば、私としても、彼女を元のいるべき場所に帰してやるのは
――……今すぐ答えろってわけではないよ。気が向いたら話してくれたらいいし、話してくれなくてもいい。それに、ミサキ、君に
けれど、元のいるべき場所へ帰る、それが彼女の本意ではないのなら、無理にそうさせることは悪手極まりないだろう。望んでいないにも拘わらず送り出すようなことがあれば、またどのような危難が彼女を襲うことになるか分かったものではない。そんな事態に陥るくらいなら、当面の間くらいは、私の目の届く範囲にいてくれた方がこちらとしても安心だ。
「『已むを得ない事情』……うん、まぁ、そんな感じかもね」
依然として彼女の答えは要領を得ないままだった。彼女にそう伝えた通り、私は結論を急いでいるわけでもなかったし、
――けど、私としては、君が元いた場所、帰るべき場所に戻れるのが、一番いいんだけどね。
「…………」
――さて、私はまだ片付けなきゃいけない仕事があるからもう少し起きてるけど、夜も更けてもう遅いから、君はもう寝た方がいい。
私は食器をシンクで浸け置きして、鞄の中からタブレット端末と書類の束をテーブルに広げた。改めて目の当たりにしたその山に
「……うん、そうする…………ねぇ、トイレってどこ?」
トイレなら廊下に出て左側の扉だよ、そう答えて私は仕事の続きに取り掛かる。
彼女はまだ傷が痛むのか(無理もない)、苦悶に眉を顰めて脇腹を押さえながらゆっくり立ち上がって、私の傍を通り抜けて扉の向こうの闇に消えていった。
雨足もだいぶ弱まった頃。
私は一区切りついた仕事を前に大きく伸びをして、ふと目に入った時計にぎょっとした。集中していたせいか、どうやら思いの外時間が経っていたらしい。
私は空になった缶をゴミ箱に放り投げ、冷蔵庫から新たな珈琲を取り出した。備蓄ももう残り少ない。大儀ではあったが、時間を見つけてまた調達に行かねばならないようだ。
そういえば、ミサキはもう眠っているだろうか。
プルタブを起こして中身を一口呷り、雨と共に忽然として訪れた少女を思う。
土手っ腹に風穴が空いているのだ、幾ら身体が比較的頑丈だとはいえ、平気で動き回れる方が異常だ。安静にしていなければ
彼女の言うことを鵜呑みにしているわけではないが、何故彼女が突如私の元へ現れたのか、私に何を求めていたのか、それらを聞き出すには、まだもう少し時間がかかるようだった。
――…………あ。
そこで漸く、私は部屋の前の共用廊下に置きっぱなしになっていた彼女のリュックサックを思い出した。上階が
私は手に取りかけていた煙草の箱とオイルライターから踵を返して、やや急ぎ足で回収に向かう。
ダイニングから廊下に出て、灯りを点けようと壁に手をやった時、私は暗闇を湛える廊下に視覚的な違和感を覚えた。
その根源はすぐに明らかになった。
廊下に仄明るく落とされた光、トイレからのものだった。何を訝しむこともない。寝る前に場所を訊いてきたし、どうやらミサキが消し忘れていた、その程度のことだ。別段僅かな電気の浪費くらいで文句を垂れるような
慣れた間取りということもあり、扉の隙間から漏れる光で歩くのは難しくなかった。
私は全く無思慮に、
――…………ミサキ?
私はスイッチに触れようとしていた指を翻して、扉をノックした。
返事はない。
代わりに、中からは咳と嗚咽が漏れ聞こえていた。
――開けるよ。
鍵は閉まっていなかったのでそのまま扉を開くと、ミサキは顔を殆ど便器に突っ込むようにして、嘔吐を繰り返しているようだった。
「……ゴホッ…………ぁ……せんせ…………」
跪いて、ミサキの背中をさすってやる。
逆流した胃酸で喉をやられたのか、ミサキの声はだいぶ掠れていた。
こちらを仰ごうとしたのか顔を向けようとするが、再び込み上げてきたらしい吐き気によってそれは一瞥に留まる。
「せんせい……わたし…………うっ、ゔぉぇえええっ…………ごほっ、ごほっ」
――無理に喋らないで。
私は彼女の背中が酷く細く弱っているように感じていた。努めて優しくさすっている背中が、そのまま徐々に磨り減っていってしまうかのような気さえした。
彼女の脇腹に視線を落とすと、その色のせいで気付きにくいが、新品のスウェットが鉄の
最早吐くものは全て吐き尽くしたのか、もう彼女の喉から汚物が溢れ出ることはない。けれど吐き気と喘鳴がやむことはなく、俯いた姿勢から上体を起こすことができないままでいた。
吐瀉物に塗れた便器に触れそうな彼女の横髪をそっと掻き揚げてやる。私は
私は彼女のことを「危うい」と感じていた。「危険だ」でもなく、「危なっかしい」でもなく、「危うい」と、半ば本能が告げるようにして感得したその直観を、しかし私は易く嚥下することはできず、口の中で転がされる飴玉のように、判断という咀嚼を先送りにしていた。
この渾沌の感覚は永く胸中に