咲みを戒む   作:水ようかん -Mzyukn-

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第5話

 

 暫くの間、そうやって彼女が空を吐くのに付き合っていたが、やがて、落ち着いたのか、ミサキは肩で息をしつつもトイレットペーパーで口元を拭って便器に放り込んだ。

 

「――お蔭で、少し楽になったよ」

 

 少し、と言うからには、あくまで小康状態でしかないということだろう。吐き気がある程度緩和されたのは喜ばしいことだったが、脇腹の傷が開いてしまっており、再び包帯を巻き直さねばならないのは痛恨だった。

 そして何よりも恨めしいのは、彼女の腹に風穴を空けた者が、今ものうのうとしているであろうことだった。彼女に対する安っぽい憐憫やありきたりな同情からくるものではなく、どこにいるかもどんな容姿をしているのかも分からないその当事者に対して、彼女を傷付けた報いを受けさせてやるべきだと考えていた。

 

「……なに、その顔」

 

 不意にミサキがこちらの顔を覗き込んできた。

 やはりまだ体調が優れないことの証左か、その顔色は青白く、額にはじっとりと汗が滲んでいる。

 

 ――え、顔?

 

 思わず手を自らの顔にやる。頬の筋肉が引き攣って、眉間に皺が寄っていたのが分かった。

 私は努めて「先生」としての顔を取り戻す。先生なら生徒に不安を与えるようなことがあってはならない。剰え、詳らかな事情を知りもしないのに、勝手な敵を作り上げて(しん)()を燃やすなど、以ての外だ。そんなものは、公明正大なる「先生」からは程遠く、俗人の誹りを免れない。

 

「険しい顔してたから、どうしたのかと思って」

 

 ――いや、なんでもないよ。

 

 私はやおら立ち上がって、ミサキに手を差し伸べる。

 つまらないと一蹴するつもりもないが、少なくとも今は、この義憤は不要なものだ。

 ミサキは差し伸べられた私の手を見て逡巡するような仕草を見せたが、存外に素直に手を取った。しかしその手を恃んで立ち上がろうとしたところで、脇腹の傷が痛んだらしく、小さく呻き声を漏らして尻餅をついた。

 銃創の位置が脇腹というのが良くない。我々は、普段から意識していてもいなくても、日常生活を送る上で腹筋及びその周辺の筋肉を使っているものだ。ベッドから起き上がる時や、足元の物を拾う時やだってそうだし、まさに今が好個の例だ。

 そんな彼女を手助けできるのはこの場に私しかいなかったし、元よりそうすることに躊躇いなどあろうはずもない。

 つまり、

 

「え、ちょ、先生?」

 

 ――嫌だろうけど、ちょっと我慢してね。

 

 私は、彼女の肩の辺りと(ひかがみ)の辺りにそれぞれ腕を通して身体を抱え上げ、寝室まで運んでやることにした。

 昏倒した彼女を運び込んできた時にも同じことを感じたが、やはり、華奢な体躯に違わず軽々と持ち上げることができた。あの時と違うのは、彼女の意識がはっきりしているという点のみであったが、意識がなくぐったりした状態と比べれば、運びやすさは段違いだった。当の彼女は俯いているせいでその表情を窺い知ることはできない。無論、既に持ち上げられた体勢で無茶な抵抗をすればどうなるか、分からないわけではないほどに判断力を欠如していないようではあった。

 寝室のベッドにミサキを降ろして一旦退室し、真新しい包帯と消毒液を手に戻ってくる。医療従事者たる生徒の見様見真似ではあり、覚束なく心許ない手つきではあるが、付け焼き刃なら最低限できていれば上等だろう。

 私が手にしている物を見てその意図を察したのだろう、ミサキは僅かに身を庇う気色を見せた。

 

「これくらい自分で――」

 

 ――いいから、じっとして。

 

「……っ」

 

 ミサキは、私の有無を言わせぬ姿勢にこれ以上の(はん)(ばく)が徒労に終わると悟ったのか、何事かを言おうとして口を噤んだ。()()、ミサキは大人しく従ってくれるようになった。

 ちょっとやそっとの拒否で処置を取り止めるわけにも先延ばしにするわけにもいかない。傷が開いた事実がなくなるならまだしも、再び出血してしまっている以上、このままでは衛生的にも望ましくない状態が続き、破傷風や蜂窩織炎など別の感染症を併発する(おそ)れがある。今夜のうちに本格的な治療は見込めないにしても、ある程度の応急処置を施さねば、取り返しのつかない事態に発展する可能性もある。杞憂だと笑われるくらいならその方がよほどいい。先憂後楽という金言が残っているくらいだし、事態は常に悲観的に捉えるべきだ。そうは言っても、私にできることは止血と消毒と歯噛み程度であった。

 一言断って、ミサキのスウェットの裾を臍の辺りまで捲り上げる。案の定、傷口から血が溢れ出て包帯を赤く染めていた。包帯に手を触れる。湿っていて、まだ温かい。触れた指を見てみると、付着したミサキの血が室内灯の光で反射しててらてらと光沢を含んで濡れていた。ここからミサキの命の雫が零れ出ていたのだ。

 このまま放っておいても、彼女の身体は自然に治癒するかもしれないし、或いは、恢復することなく衰弱していくかもしれない。真っ当に考えれば、後者の方がその可能性として尤もではあるが。私とて、彼女を追い込みたいわけではない。体温が徐々に下がっていって、肌が青白く変色して、瞳から光が失われていく様を見たいわけではない。だったら今の想像は何だ。私は見返りを求めているわけではなく、ただ彼女の体調を尋常なものへと戻す為奉仕し尽力するだけだ。

 できるだけ銃創を刺激しないよう慎重に包帯を取り払う。とはいえ、その傷口が完全に露わになった時、包帯という堰が失われたことにより一時性の再出血は避けられなかった。清潔なハンドタオルを当て、周りの血を拭い取る。ここで私は初めて彼女の銃創を注視することになり(先刻はその様に意識を割いていられる精神的余裕がなかった)、その凄惨な痛ましさに知らず唇を噛んでいた。射入痕は体内に向かって突き破られた皮膚を巻き込むようにして、小指の爪にも満たない円い(よく)(そう)とその周囲に複数の裂創を形成しており、内部では赤黒い肉が間隙を埋めるようにして蠢いている。その観察も刹那の如く瞬間であり、すぐさま奥から湧き出た血液を湛え横溢した。私は血を吸って真っ赤に染まったタオルを傍らの洗面器に放り投げ、新たにもう一枚を傷口に当てる。暫く押し当てていると、漸く出血量が穏やかに減少し、けれど完全には止血しなかった。

 不味い。前回はそこまで苦労した記憶もなかったが、今回は、なかなか血が止まらない。このままでは、(とて)もではないが、彼女の容態の悪化を助長してしまうだろう。汗がじわりと額に浮かんで顳顬(こめかみ)を流れ落ちるのが分かった。

 

「――私の荷物の中に、ポーチがあるから、取ってきて」

 

 言葉には出さずとも、彼女には私の焦りが伝わってしまっていたのだろうか、ミサキは傷口を押さえるタオルから私の手を追いやり、鉄のような双眸でこちらを見据えた。瞳孔が収縮と拡大を細かに繰り返している。

 私は頷いて、速やかに寝室を出た。

 彼女の荷物をどこに置いていたか思い出そうとして、ぎくりとする。そういえば、重なる火急の事態に追われて、共用廊下に放置された彼女の荷物の回収をすっかり忘れてしまっていた。

 今し方出てきた寝室の扉が閉まりきっているのを確認して、私はなるべく足音を殺すようにして、足早に外へ通じる扉を開いた。

 肩の力が抜ける。廊下には、数時間前と変わらずアウトドア用の大きな黒いリュックサックが依然として鎮座していた。幸いにも、気にする程度に濡れてはいないらしく、表面に触れた限りでは、空気中の湿気と廊下の欄干で撥ねたらしい飛沫以外に浸水の要因たるは見受けられなかった。

 ともかく、急いでそのリュックサックの回収を試みる。

 改めてその重量に愕然とする。形状により持ち上げやすさは変わるものだが、それにしても、彼女の身体と同じか、或いはそれ以上に重く感じられる。一体こんな大荷物になるほど、彼女は何を携行していたのか、怪訝に思う気持ちが浮かんでくるが、今は余計な穿(せん)(さく)にも()()にも(かま)けている暇はなかった。

 なるべく床に引き摺らないよう努めて、なんとか扉の内側にリュックサックを運び込む。床に下ろすと、中で様々な物が触れ合う音が聞こえた。

 上部のファスナーを開け、中を(あらた)める。彼女の言っていたポーチは一番上にありすぐに見つかった。無地の黒いものであり、特徴も変哲もないありふれたものだった。私はそれを引っ掴んで彼女の元へ戻る。

 彼女は存在自体を希薄されたような現実感に乏しい姿で部屋に戻った私を一瞥し、「そう、それ」と口を動かした。艶やかな鮮紅だった唇は今や血色を失いつつあった。

 私はベッドに駆け寄って跪く。

 

 ――持ってきたよ。何をすればいい?

 

「……タンポンで止血する」

 

 ――タンポンって?

 

「……………………」

 

 途端にミサキは苦虫を噛み潰したような表情で目を(すが)めた。私は聞き慣れぬ単語に首を傾げ、何も考えずに鸚鵡返しに尋ねてしまったことを悔いた。どうやら彼女が指すところの物品がこのポーチに入っているらしいが、それを知らぬ私には名前だけで類推できるほどに判然としなかった。分からないまま無遠慮にポーチの中をまさぐるよりは、素直に訊いた方が遥かに合理的であるはずなのだが、私はそうした判断の外側にある何かを取り零してしまっていたようだった。

 

 ――えっと……。

 

「いい。貸して」

 

 私は言われるがままポーチを手渡し、代わって傷口のタオルを押さえる。既に相当量漏れ出してしまっていたのか、赤の侵食が多くを占めていた。

 彼女は慣れた手つきでポーチの中から棒状の白いスポンジのようなものを取り出し、タオルの隙間から傷口に滑り込ませた。

 

「包帯」

 

 言われるがまま包帯を手渡す。

 

「私の身体起こして」

 

 タオルから手を離し(先程のスポンジ様の物品が血を吸っているのであろう、この時点で出血は大分収まりつつあった)、両手で彼女の背中を支えて上半身を起こしてやる。見れば、シーツにも赤い円が広がっていた。どうやら背部の射出口からも少ないながら再出血していたらしい。腹部の銃創の出血が幾度にも亘る嘔吐によるものであったのなら、背部のそれは射入口より大きい直径を持っていながら、さほど刺激となりえなかったのだろう、と独り合点する。ミサキはその間に、素早く腹部と背部を覆うように包帯を巻いていた。

 

「……もういいよ」

 

 彼女の身体を再び横たえる。その細い身体がベッドに沈み込んで、それと同時に、私は大きく息を吐いた。知らず緊張していたらしく、ちりちりと白んでいた視界が酸素の吸入に伴って元の色彩を取り戻していった。格好悪く尻餅をついて座り込み、床についた手が洗面器に当たってからんと音を立てる。慌てる私に反して、幸いにも中に放り込まれていた血濡れのタオルは散乱せず留まっていた。

 そんな私の様子を見てか、ミサキが僅かに口角を上げて呟く。

 

「そんなに気を張ってたの?」

 

 言外に私の緊張を揶揄(からか)われているように感じ、私は自嘲の笑みを浮かべた。

 

 ――いや、なんていうか、私が不慣れなばっかりに、不安にさせちゃってごめんね。

 ――ありがとう、助かったよ。

 

 ミサキが目を丸くする。

 

「それはこっちの台詞だよ、先生」

 

 深く考えずに発せられた自らの言葉を胸の内で反芻して、なるほどと思った。

 負傷しているのはミサキであり、私は力及ばずながらもその処置を手伝ったに過ぎない。彼女にしてみれば、その結果如何に拘わらず、手伝おうとする意思そのものに対して謝辞を述べるのは何ら不自然なことではないだろう。

 けれど、それこそ私にしてみれば、私が私の責務を全うする為に彼女の手を借りたということになるのだから、こちらこそ礼を伝えるのが道理に適っているように思えた。

 

 ――お互い様だよ、うん。そういうことにしておこう。

 

「ふうん。まぁいいけど」

 

 ――ところで、他に何かできることはある?

 

 シーツが汚れてしまった以上、それも取り替えなくてはならないが、肝心のバンデージで殆ど役に立たなかった汚名を(そそ)ぐ為にも、私は力の抜けていた足腰を叩いて立ち上がった。

 

「別に……あ、替えの下着とか、ある?」

 

 察するに、そちらも血が沁み渡って汚れてしまったのだろう。年頃の婦女子なら、というより、同じ立場で考えても、私だって気にする。そして、その彼女の要望に応えることは、全く以て吝かではなかったのだが。

 

 ――生憎(あいにく)、私の男性用しかないかな。今からでも買いに――。

 

「じゃあ先生のでいい」

 

 ――えっ!?

 

「仕方ないし。変な意味はないから」

 

 彼女の発言に対し驚愕こそしたものの、曲がりなりにも私とて教師、即ち聖職者の端くれだ。言葉に出すのも憚られるような邪推は「先生」の中においては(きょう)(ざつ)(ぶつ)だった。勿論、彼女のそういった態度や発言は、そのニヒルな様子から余計な他意を内含するものではないだろうが、万が一の仮定として、そういった邪心を見透かされたようにされるのは、痛くもない腹を探られるような、幾許かの居心地の悪さを覚えさせていた。尤も、忌むべきことに、少なからず邪心を孕み(ほしいまま)に振る舞う不逞の輩が存在することもまた、揺らぐことなき事実だった。

 

 ――ミサキがいいならいいけど。でも、流石にそればっかりは、新品の備えはないよ。

 

「仕方ないって言ってるでしょ。あれこれ言われると余計気になるから、これ以上は何も言わないで」

 

 しかし、再三「仕方ない」と言っており、彼女も割り切っているとはいえ、異性の生徒に自らの下着を貸与するというのは、先生倫理に照らし合わせてみてもやはり微妙なところだった。結局、暫しの懊悩の末に(私にとっては永く感じられたが、実際にはきっと数秒にも満たないだろう)、私は首を縦に振っていた。

 両者の間で合意があったとはいえ、他人に、それも今日顔を合わせたばかりの人間に自らの下着を渡すというのは、羞恥を感じざるを得ない体験だった。努めてそれを表に出さないようにはしていたが。

 無地のボクサーパンツと新たなスウェットを渡すと、ミサキが着替えている間私は席を外して(一応手伝いを申し出たが、当然断られた)、替えのシーツと追加のタオル、飲み物を用意していた。いくら怪我人とはいえ、五分ほど待てば頃合だろうか、とノックをして扉を開けると、どうやら丁度着替え終わった様子だった。

 

「それは?」

 

 私が手にしていた物を見てミサキが尋ねた。

 

 ――喉渇いたかと思って。とりあえず水と炭酸水があったけど……水の方がいいかな。

 

「じゃあ、水で」

 

 私はペットボトルの蓋を開けてミサキに渡してやる。

 こういう事態は全く予期していなかったが、先日ハイボールのボトルが手に入ったので、たまさか水と炭酸水を用意していたのが功を奏したらしい。愛飲している缶珈琲しか出せないとなれば、先生としての面目も危ういものとなっていたかもしれない。

 受け取った水を一口含んでボトルを眺めていたミサキだったが、ふと、

 

「……なんで私が水の方を選ぶと思ったの?」

 

 と零した。

 

 ――え、なんとなくだけど、強いて言うならしゅわしゅわしたの苦手かなって思って。

 

 私自身は可もなく不可もない程度だが、人によっては好悪が分かれるものだ。炭酸が苦手な者だっているだろうし、ミントやメンソールだって好まない者もいるだろう。そういった選好に対するちょっとした配慮のつもりだったのだが、それが裏目に出てしまったのだろうか。不安や憂慮と呼ぶほど大袈裟なものではないが、後々になってこういった小さなささくれが致命的な窮地を招く可能性もある。(わざわ)いの芽たりうるのであれば、それは早々に摘まれるべきだ。そもそもそういう危惧を抜きにしても、私が単に気になったからというだけのことでしかないのだが。

 

「確かにそうなんだけど、先にそれ言われるのって、なんか……」

 

 ――なんか?

 

「……いや、なんでもない」

 

 結局言葉を濁したまま、ミサキはそっぽを向いた。これ以上踏み込むのも悪手だという気がしたので、私も閉口する。

 余った方の炭酸水を開封して口の中に流し込むと、口内で泡の弾ける感覚と清涼感が鼻を抜けていく。彼女はこの感覚が苦手ということなのだろうが、まぁ、蓼食う虫も好き好きといったところか。

 

 ――さて。本当なら、もっと早い順番でやるべきだったとは思うけど。

 

 ミサキの飲みかけのペットボトルを一旦預かり、私は他方の持参物、真新しいフェイスタオルを彼女に手渡した。

 

 ――汗かいただろうし、それで身体を拭くといい。拭けないところは私に言ってくれれば――。

 

「それはいい」

 

 差し出されたタオルを半ば奪い取るようにして、ミサキがぴしゃりと遮った。その反応に関しては、彼女との短い間のやり取りで予想するのは容易いことだったが、その二の句には、驚嘆の息を少しばかり漏らさずにはいられなかった。

 

「……やっぱり…………背中だけでも、おねがい……」

 

 辛うじて聴き取れた「します」という語尾は、依然として降り止まぬ外の夜雨の音に消え入りそうなほど幽かなものだったが、私にしてみれば、今やそんなことは瑣末以外の何ものでもなかった。言葉遣いによる敬意の表現はその関係性の表層でしかなく、何ら涵養を妨げえないものだ。そもそも、不断に私を取り巻く生徒の大半は、砕けた口調で友人の延長であるかのように接してくれているのだから、今更とやかく言うほど懐の小さい性分でもなかった。

 ともかく、彼女の奥ゆかしい申し出に私は快く頷いていた。

 

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