大学に入る為に、結束バンドの練習を減らしてもらった。週の半分以上行っていた練習が3回、2回へと減っていった。先輩やひとりちゃんは自主練も行っていたんだけど…私は塾通いを言い訳にして、ギターに触る時間がどんどん減っていった。
バンドの練習が無くなって、塾のない日にはお出かけするようになった。受験勉強の息抜きと称して、さっつーたちとカフェに行ったり。このままじゃギターが弾けなくなるかもしれない、という恐怖と、受験のプレッシャー。抑圧されていたものが解き放たれたように、私は外出を繰り返すようになった。塾、カフェ、塾、バンド、バンド、バイト、カフェ、塾。その繰り返し。気がつけばバンドの練習の日以外は、ほとんどギターに触らなくなってしまっていた。受験生だから、と言い訳を続けて、大学に合格してからは、新生活に慣れないから、とまた言い訳をして…たまにの練習で、ひとりちゃんとの差が、もう手の届かないレベルのところまで来てしまったのだ、と自覚してから、ギターを弾くのが億劫になった。ギグバッグは、部屋の片隅でうっすらと埃を被っていた。
「私は…今からまた、昔スカウトしてくれた人たちに連絡してみます。」
どのツラ下げて、なんて言われそうですけどね。
机に置いてあった伊地知先輩のスマホから、ひとりちゃんの声が聞こえた。リョウ先輩は引き止めるでもなく、そっか。と簡単な返事をして、二言、三言と言葉を残して、ひとりちゃんを見送ってしまった。
「なんで、引き止めなかったんですか。」
気だるげなリョウ先輩が席に着くなり、そう声が漏れた。
置かれたお冷をちろりと舐めるように飲んで、先輩はひとつ息を吐いた。静寂が張り詰める。刹那か、数秒か。隣に座る伊地知先輩から発される無言の圧をひしひしと感じながら、リョウ先輩の言葉を待った。
「引き止められないよ。2人には悪いけど。」
目を伏せることなく、真っ直ぐにわたしたちを見据える。
「ぼっちには、音楽しかない。」
きっぱりと、そう告げた。
「ぼっちには、音楽以外で生きていく展望が無いんだよ。それは、わたしも似たようなもんだけど…」
そこまで言って、先輩の言葉は途切れた。小さく息を吐いた先輩は続ける。
「少なくとも、このまま、まともに活動ができないバンドにいてもぼっちにメリットがない。いる意味がない。」
吐き捨てるような言い方。それに反応したのは、伊地知先輩だった。
「なにさ、その言い方…」
怒気を孕んだ声。隣に居る、それだけなのに背筋に冷たい雫が走る。普段の優しげな表情は鳴りを潜めて、きっと吊り上がった目から発される冷ややかな視線は、そのままリョウ先輩を射殺してしまいそうだった。けれど、リョウ先輩は退かない。
「ちゃんと練習して、満足できる演奏ができるように努力すればよかっただけ。」
淡々とした話口調。抑揚も無く、ただ無感情な、氷のように冷たい声だった。
「そもそもさ、虹夏。」
泳いでいた視線が伊地知先輩の目を捉える。
「ぼっちと同等の努力もしないで、それで虹夏の夢と心中しろ、なんて馬鹿げた話だと思わないの?」
詰問しようとしていた伊地知先輩が言葉に詰まる。
「郁代も。練習の頻度が減った時、自主練の時、なんで一番最初に帰ってたの。暇な時、ギター弾いてたの?違うでしょ。友達とカフェに行ったり、買い物に行ったり…否定はしないけど、音楽と真剣に向き合ってたの?」
冷たい視線に思わず息を呑んだ。冷静で的確な指摘に、反応ができない。
「それ、は…」
事実の指摘に反論できず、私は顔を伏せた。
「わたしとぼっちは、時間が合えば練習してたよ。新曲も作った。バイトが毎日入ってたから、それこそ隙間の時間を縫ってね。たまの休みの日も、ずっと部屋に篭って練習してた。新曲作りに難航して、出来上がるまで何度も。わたしたちが外に出かける時なんて、基本は食事か弦を買いに行く時くらい。もちろんそれぞれ趣味の時間はあったけど、それでも音楽に…わたしたちが目指すべき場所はそこだと思ってたから、その為に時間を費やし続けてた。それは当然、虹夏と郁代もそうだと思ってた。」
かちゃ、とソーサーにカップを置く音が静かに響く。幾許かの暇ののち、リョウ先輩が再び口を開く。
「郁代さ、ギターだいぶ弾いてないでしょ。」
びくりと肩が震えた。先輩の視線が刺さる。顔を逸らしながら絞り出した言葉は、力無く萎んでいく。
「そんなこと、ないですよ」
「じゃあ、左手。見せて。」
淡々とこちらを追い詰めるリョウ先輩。おずおずと左手を差し出すと、胸に痛みが、恐怖が満ちた。
「…やっぱり。」
左手にひやりとしたリョウ先輩の体温が伝わった。指の腹を撫でるようにすりすりと先輩の指が這う。いつもだったら喜びで震えているところだ。けれど、今は違う。
「…ネイル、いつからつけてるの。」
指先を握る手に、僅かに力が込められるのを感じた。苛立ちと、僅かに残る可能性を探すような、何かに縋るような、そんな矛盾した手つきだった。真っ直ぐに私の目を見る先輩。何を言っても見透かされるような気がした。
「ひと月、前から…です…」
私の言葉に反応した先輩は、ぱっと私の手を離す。ぎり、とリョウ先輩の歯を食いしばる様な音が聞こえて、目の前のティーカップに落としていた視線を上げる。
瞳に映ったのは、落胆したリョウ先輩の顔。僅かに残った希望が消えた、信じていた何かに裏切られた、失望が浮かんでいた。
「…これつけて、ギターは上手くなった?新曲は弾けるようになった?ならないよね。ギターを弾く上で邪魔でしかない。上手くなるわけがない。」
淡々と機械的にこちらに言葉を投げかける先輩に、反応ができない。煌びやかな店内の喧騒が消えた様な、どんよりとした空気が周りに満ちた。私たちに反論の余地はなかった。リョウ先輩の目を見るのが怖くて、もう一度ティーカップに目を落とした。
「…わたし、帰るよ。先月の件もあって、それでもギターを触ってなかったんだね。ほとほと呆れた。…いや、失望した。」
所詮、2人にとって、バンドなんてそんなものだったんだね。
残りのカフェラテを飲み干して、リョウ先輩はお金を置いて去って行った。
結局、暗い雰囲気のままカフェを出て、伊地知先輩と最寄りの駅で別れた後、家路へと着いた。シャワーを浴びて、自室のベッドに腰を下ろす。ネイルをリムーバーで外して、埃を被ったギグバックを開いた。空色のギターが顔を覗かせる。試しに、一曲。
「…っ!」
下手だ。どうしようもないほどに、下手だ。
あんなに練習した曲なのに、あの頃の辿々しかった演奏が上手く聞こえてしまうほどに。
もう、ダメなのかな。
ギターを立て掛けて、私はもう一度ベッドに身を投げた。照明を遮る様に、視界を手で覆い隠す。
『私、ひとりちゃんを支えられるようになるわね!』
いつかの自分の言葉を思い出す。
なにが支えられるように、だ。逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。進む君が眩しくて、目を逸らして君を見ないようにして。止まった私と君の距離が埋められないことに、勝手に絶望して。言えば、君はきっと教えてくれたのに。
じりじりと目尻が熱を持つ。視界が潤む。頬に涙がこぼれ落ちた。
目線をギターに向けた。スカイブルーのレスポール。…これが、これだけが、私と彼女を繋ぐ、細くて脆い線。
「練習、しなくちゃ…」
ひとりちゃんはもう戻らないかもしれない。
リョウ先輩も、もう喋ってくれないかもしれない。
けど、それでも。
記憶の中で笑う私に胸を張って生きれるように。
「…もう、逃げないわ。」
決意を胸に、もう一度ギターを手に取った。