1:大海原──深度0m
上を見た。此がいけなかつた。私は裏切つて了つた。私は變えられると驕つて居た。この美しい絶叫の雲霞する
諸君──こう思ふと気分が良い──。諸君等に私は問う。君たちが其の憧れに、一枚の布切れを被せるその故を。この命をも天秤を傾かせ得ぬ同胞に、慈しむべき子らに埃を塗し。あまつさえ諸君等のそれはなんだ。その、濁った眼は。
だうせ来るなら来い。そして頼むから、帰つてくれるな。出来ることなら、還つてくれるな。
救命ボートは彼女たちの分で最後だった。荒波が押し寄せて、分を刻む前にごうごうと駆動する客船は傾斜角を増していた。既に何十とあったボートは紳士婦人に費やされ、二人の前に凡そ十七、八人が乗り込んで、マンハッタンカフェ、最後にアグネスタキオンが甲板を離れようとする。取り残された人々は口々に泣き叫びだす。権利がどうだとか、不平等がどうだとか、地位が名誉が義務がどうだとか。そしてその中の一人、なんでも無い中年の男がごちゃごちゃから這い出て、彼なりの結論をアグネスタキオンに差し出す。差し出された両手には不可視のナイフが握られている。
「たのむ、退いてくれないか」
「悪いね」
「死んでしまう」
「私だって死んでしまうよ」
彼女は男の手を払った。脱出スライドに手をかける。触発された数人が手を伸ばす。なんと蜘蛛の糸に縋る者は上にも居るのだ。美しい、とアグネスタキオンは思った。皆濡れに濡れている。きっと暴雨のせいだ。皆涙など流していない。きっと雨が目のあたりにかかっているのだ……団子状になった人々はついぞその意思を統一しだして、苦しみの顔を張り付けた流動体となる。彼女の視界で、客船は目に見えて沈みゆく。スライドが外れた。共鳴は最高潮に達した。船長と船員が揉まれながらも屹立している。確実な未来を受け入れて敬礼している。彼女は振り向いて、装備された食料を勘定しはじめた。
同乗人はもうどこに行ったか、彼女らには分からない。単調な青色の増減に厭らしく揺れるゴムボート、気を狂わせるにも狂うための気が失せている。こういった時、搭乗人はその気を狂わせないように──狂わせる気を落っことしてしまわないように──取り留めのない閑話、ぴちゃぴちゃと音を立てて首に手をかけるものにそんなものはいないと意地を張るためにそういったものへ齧り付く。……それはあくまで綺麗事、全員で生き残ろうと一致団結した場合に限る。一人、二人と飢え、時には自ら首を裂いた。死体の遺棄で揉めようとする当人もその次の日には議題に上る集団の仲間入りなものだから、結果的に脱出ボートはぽこぽこと新鮮な遺体を産み落とした。すし詰めもいいところの中、食料に一番近かったアグネスタキオンは、合理性を盾にして物資の全権を握った。嗚咽にまみれた計算と、打算的な非情。これが一番と頭では理解できていても、人は自分自身を捨てられない。保身の蔓延った理論のあれこれをアグネスタキオンは悉く握り砕いた。哀しいかな、筋力面で人はウマ娘に劣る。並大抵のウマ娘でさえ彼女には敵わない。泣きながら殴り掛かる者を、彼女は冷徹に退けねばならなかった。
彼女のすぐ前にマンハッタンカフェがいたことは、彼女にとってこれ以上ない幸運であった。公平性と運という言葉をかざして、同程度の年齢、体格の者には彼女から近い分を優先する。一つ、また一つと発煙筒、海面染色剤が減っていく。捜索に引っかかるように、できるだけ長い時間生き延びたい。だが今ある食糧を分配すると何時までもつかなどたかが知れている。それでも救えるだけ救わねばならない。結論として彼女は太陽の傾き具合で定期的に信号器具を使用し、その度に見限る人員を選別した。暴れるものは彼女が取り押さえた。そうして人が死んでいった。皮肉なことに、一人いなくなることによる食料持続率は笑えるほど明るくなった。これが正しいのか正しくないのか、そういった論議は夜と昼のセットが三回を超えたあたりで意味を成さなくなった。早く見つかってほしい。それだけが減りゆく皆の願いだった。
待てども待てども、無線機に応答はなかった。数日してその無線機も、ごとさらわれてしまった。
「さて、何日目だろうね」
「さぁ」
アグネスタキオンは座り込んで、簡易の釣り竿に釣り糸をつける。餌もつけているはずなのに、浮かび始めてからこの棒切れもどきが役に立ったのは二度だけ。空いたスペースで焼いて、生存者と一口ずつ食べていっただけ。太陽が照っている。染みついた海水が
「なぁ、カフェ」
「はい」
「私をひどい奴だと思ってくれるかい」
右肩に感じられる動き。マンハッタンカフェは背中合わせに浄水器で海水を濾している。穏やかな海、そこにややしたたかな波が至り、二人は揺れる。浄水器の中から水滴が弾け、マンハッタンカフェの手にかかった。彼女はそれを少し見て、舐めとる。「私は貴女の、肉の偶像じゃありません。贖罪は聖母像に」「そりゃあ良い。今すぐ君を彫刻したいよ」
アグネスタキオンが竿を引き上げた。食いつく魚すらここにはいなかった。餌の水気を少し絞って、また放り投げる。
いつぐらいか前、最後の染色剤が無限遠のキャンバスを虚しく彩ったとき。マンハッタンカフェは静かに目を瞑った。首を絞められるか、それとも海へそっと浮かべられるか、そういった待遇を思い浮かべて、胸の前で指たちを組んだ。胎児のように蹲った。
「何時まで私を置いておくんですか」救難信号の代わりになるものはもうない。ぼんやりとした目。マンハッタンカフェは崩れた浄水器の受け杯をもとの位置に戻す。
「何、二人でも一人でもあまり変わらないさ。私だけじゃ釣りの合間にそれの監視などできまい」
「……そういうことでは」
「じゃぁ殺せというのかい、私に、君を」
「命は平等であるべきです」
「なら私も死ぬさ」
「助けるひと、どこに残るんですか」
「魂でも残しておけばいい。お手の物だろう」
「
彼女たちは笑わない。故人の服を天日干しで使いまわし、偶に器具を交換し、持ち場を変わる。それぞれの思惑はどうであれ、二人で居るということは、それぞれが正気を保ついい手段だった。ふたりでなら、どこまでも。そういったきれいごとではない。ふたりで、どこまでも行くしかないのだ。存外に浮いている、とマンハッタンカフェは思った。無駄なものがどんどんそがれていく。理想ではないけれど、しかし。
日照りと曇り、そして雷雨。結局どの状態も肉体的な、そうでなければ精神的な疲労を余儀なくされた。彼女らはごく自然に存在を摩耗する。じりじりとその体勢は丸みを帯び、竿の撓みにも力を入れられなくなる。錆びだらけの生体機械がふたつ、器に溜まった水でやっとのことうごいている。
ひどいやつ。ぱらぱらと降り始める雨に打たれ、二人はついぞ寝たまま動かない。ひどいやつ、ひどいやつ……マンハッタンカフェは自問する。その胸中を水彩絵具の如く染めていくのは、やはり薄く黒い、藍色のきもち。端から溶けていくイーゼル。
「たキオン、さん……」
「なんだい」
「ひどい、です。あなたは」
ボートは揺れている。それも大きく。二人が見上げなければいけない空は
「悪いねぇ……君はいいひとだなぁ」
乾パンもレーションも底をついている。彼女たちの未来はずいぶんと狭まってきている。不規則に揺れる波は長針短針になって、ゆっくりと時間を流す。
うつくしい。アグネスタキオンは疑問に思った。なぜあの男をうつくしいなどと思わねばならないのか。わたしが醜いから? それはそうだろうな。カフェはいまもうつくしい。同じうつくしさ?
知らない。知りえない。
知りたい。知りつくしたい。
アグネスタキオンは眼を閉じた。不思議な輪っかに出会った。すぅっと体液がこぼれていくような、上からの冷感に怯えて、マンハッタンカフェのほうに手を伸ばした。いくら動いたと思っても、ぴくりと近づいただけ。次第にアグネスタキオンもそぎ落とされていく。狭窄する心臓、そしてこころ。──わたしは。
ひときわ打ち付けられた。マンハッタンカフェの方から停止は始まった。折り重なった波たちがよりかぶさってきて、反作用と共に彼女は強く跳ね上げられた。意図せずして彼女は動く。節々が燃え上がって悲鳴をあげている。空以外を見た彼女は、急速な安定を得た彼女たちは、それはそれは大きな不安定に襲われた。相対して視界が揺らいでいる。
「ぁ」
出るものもないはずなのにせりあがってくる何かを押さえていると、頭の後ろに何かが触れるのを感じ取った。ゴム製の感触ではなく、もっとかたい。そして柔らかい。これは木製のなにかだ。
彼女の体にじんわりと熱がこもりはじめた。右手を心臓に持ってくると、そこにはたしかな脈拍がある。たきおんさん。妙に生乾きの口で、声がこぼれ出る。なんだい。おきてください。アグネスタキオンは動かない。マンハッタンカフェも動かない。波一つ分の間が開く。アグネスタキオンは息をためて、吐いた。マンハッタンカフェが動く。木の柱、その上には板。手をかける。水滴ももはや快楽の一種に過ぎない。
「……むぅ、あんまり……っこういう、のは、性分じゃない、んだけどねぇ……っ…ふぅ」
泥と幾らかの海藻と、やはり海水。彼女らよりも着る服が吸う水のほうが重そうに見えてしまう。事実彼女らの背は曲がって、湿った枯れ木のように立ち、這うのみである。「何事も経験が大事、な…ん……で、しょう」「言ったかね……そんなこと」「さぁ、でも、言いそうじゃない、ですか」
アグネスタキオンは振り返って、何とも言えない表情をした。口がへの字に曲がっていることは確かだった。マンハッタンカフェはそれを見て、薄く笑った。それも至極当たり前かもしれない、こんななにもかも塗れの居姿で口をへの字に曲げるアグネスタキオンを、ほかに誰が見られるというのだろう?
時間を割り出す頭など残っておらず、彼女たちは唯陸が有る、それだけの理由で突き動かされる。砂漠を彷徨い干からびる者に水を与えるように、せり出した木組みは彼女たちを出迎えた。触れる、濡れていない何か。彼女たちにはもはや懐かしい感覚。まるでどこまでも沈み込むクッションのように思われて、彼女たちは意識を手放すか手放さないか、その選択を意識のラインに押し上げた。その認識を、彼女たちは安直に、死と結びつけた。彼女たちは確かに、確かなあたたかい炎に包まれていた。
──ぃ。lkjれかぃrぞ
──な d、うm む……か?
──tにか..…くし、にか─。。da、医rlnみせ
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続きます。