支給されたバッグとツルハシ、石灯式ヘルメット等々、それらはまるでよくできたものではなくて、廃棄寸前の、激しく扱われ修復の余地を失いかけたものばかりであった。よく言えば使い込まれた百戦錬磨の装備たちであったが、それらを錬磨というにはあまりに見窄らしく、三日放置した台所特有の、慣れることは可能だが慣れることに抵抗を覚える臭いが発せられてすらいた。アビスの中心へ少し突出しているゴンドラ(瀑布式ゴンドラと呼ぶそうだ)を利用して降りていくのかと二人は疑わなかったが、どうもそれが可能なのは深度六百を越えるか超えないかまでの探窟を許可された者のみらしく、つまり赤笛にもそういった細かい制限が存在しているようだった。行けるところまで行ってしまおうと、アグネスタキオンは心なしか目をぎらつかせながらマンハッタンカフェを促して下っていったが、そういう厄介者が過去に居たのかそれとも曖昧な規則を順当に無視させない為か、道々に月笛、黒笛が交代で見張りをしているらしく、当然通行は許されなかった。無理矢理に通行すること自体は彼女にとって可能であったけれど、いざそうしようと意気込んだ時、マンハッタンカフェがそっと彼女の肩を掴んだ。そこで彼女の焦燥は
「……意外に、よわいんですね、タキオンさん」
「できれば、乙女の吐瀉を二度も、語らないで欲しいな」
頭を抱えながら地面に寝そべる彼女がついた悪態に、マンハッタンカフェは錆びたブリキ水筒から口へ水を注いだ。一度は登坂で、二度目は場所の移動で、である。単に坂を登るだけで、こんなことになった経験はない。つまり、理由は不明だけれど、登れば、まずいことになる……こういった認識は、誰に教えられたわけでもないけれど、彼女たちの共通認識として形成されつつあった。断続的な息はだんだんと収まっていって、振り返ってみれば吐き気も大したことはなかったのだけれど、事実は変わらない。吃驚したのだろう、ということで、二人は結論づけた。
喉の奥の方に痛みが残って、酸いが鼻の奥をつくので、彼女は半日で自らの水を消費してしまった。ツルハシに至っても、先端が欠けたかと思えばなし崩し的に金属疲労が折り重なって、結局ハンマーのような形になってしまったので、結局回収することのできた遺物はバッグを半分に埋めるか埋めないか程度で、壁に面した場所に二人は座り込んだ。深界一層、俗にアビスの淵と呼ばれているけれど、その場所は見る限り殆ど通常人々の思い浮かべる平原と変わりなく、しかし彼女らの見る先には、それが水平的な視線にも拘らず感じられる巨きな穴がしんと開いており、奇妙にも、ノスタルジックなものすら漂っているように思われた。
「ピクニックにでも、と思えば幾分かはマシな気持になるかな」
「サンドイッチでもあれば、そうも思えると思いますけれど」
「いやぁ、携行はもっぱらコメ派でね。
足を伸ばして、アグネスタキオンは軽く笑った。ははは。それは飛んでいって、消えていった。ここにはジャポニカ米はあるのかな。さぁ。建築様式的には、期待できそうにないね。そうですね。
彼女はマンハッタンカフェの方を見た。マンハッタンカフェは折れたツルハシの、分割された二つを持って、くっつけたり離したりして、それをカバンの中に詰め込んだりした。生物学的に栄養が足りない、というのもそれは明らかな一因であったが、それ以上に、あの閉塞的な医院で目覚めた時に覚えた、後悔と背徳の気持ち。それらが、他の細々とした
「……君には……いや、まぁ、いいか」
もっと、と続けたかったけれど、それを言うのが憚られてしまった。たとえ人を殺したとしても打ち明けるといつか指を切ったはずなのに、針を飲むだけでは飽き足らぬと迫る自己が、彼女たちを駆り立てる。
飛び込んで仕舞えばいい話だ。しかしながら、彼女たちにはそれができなかった。
「わたしは、アナタについていきますから」
「……真の自由意志とは、一体何なのだろうね」
「さぁ?」ちくりとしたマンハッタンカフェは、少し皮肉げに微笑してみた。「タキオンさん、じゃぁ、わたしを、私を殺してください」
「やぶさかじゃないけれど」気付かず身を乗り出していたマンハッタンカフェの首に指を這わせて、それからガッと手首を掴んで、自分の首にあてがった。「君が私を殺してくれるなら」
マンハッタンカフェは自らの手首が血流を止めるほどに白く、握られているのに、そこに悲壮な笑顔を見た。ゆっくりと力を入れていくけれど、その実ここまでなら死なないだろう、という安心、怯えに動かされて、ゆっくり力を入れている、という無意識に気づいた。つまりそれは有意識に上がってきたので、白んだ手は震えて、そのまま力を抜いてしまった。力を入れていたというマンハッタンカフェの認識すら正しかったのか怪しく、それが、くやしかった。
「ほら」アグネスタキオンは疲れ切ったように、けれどかすかな悪戯らしさ……? を見せて、手を解いた。「わたしたちは似た者同士さ」
そうですね。結局、マンハッタンカフェはそう返して、それを機に倒れこんだアグネスタキオンに続いて背をつけた。天候は曇りであったために、彼女たちの心模様は晴れる余地を生まなかったけれど、仰向けに臥せていると、からだの脳組織からはじまって、眼球の、心臓、たましいの位置がゆっくりと沈殿していくようで、次第に目を閉じる。その感覚は、きっと陶酔と似ている。少し湿った草のにおい、それを感じるあたまがおもい。悲しみともいえないような、薄いかさなりがぺらぺらとしみわたって、つぎ目が曖昧になって、ぎりぎり全身にいきわたっていない。
「いまのって」ちょっとだけ、やっぱりちくりとしたから、マンハッタンカフェは自分からつぶやいてみた。
「けんか、になるんでしょうか」
「どちらかというと通貨の両替に近いだろうね」
「はあ」
「五百円玉一枚と、百円玉五枚。価値は同じでも、見た目が違う。見た目がちがうと、価値もかわってくるだろ?」
マンハッタンカフェは何かを答えようとしたけれど、息にならない息が出ていくばかりで、少しして彼女はあきらめて、もう少しだけと、そうしていた。死にたい、という訳ではないけれど、と、そう考えると、どこか腑に落ちたような気がしたものの、やっぱり分からなくて、彼女は少し退廃的に笑ってしまった。
──ちがうみたいです、あなたと、わたし。
時間がゆるりと経っていくのが分かる。風がすすりと鳴いていて、彼女らをかたどって、それで去っていく。中立が感ぜられる。肌にあたるくらいの湿気がふたりを取り囲んでいて、それが彼女たちを繋いでいる。そこに刻まれる、規則的なおと。やけに人工的で、とんとんと大きくなっていく。複数であるらしい。
「……物見なら帰ってくんねぇかな」
その声はやや尖っていて、無骨無遠慮であった。マンハッタンカフェは目を開けて、上体を起こした。少し疲れたと言いたげに、アグネスタキオンは目を閉じたままであった。たとえばすみません、であるとか、そういうことを言って穏便に、柔軟に対応することは、大人になる過程で不文律的に圧せられる。ただしそれはあくまでも素晴らしいひとの場合にのみ達成されうるから、つまり彼女たちはとうの昔に、そういうひとであることに満足できていなかった。
「笛はきちんと取得していますよ」彼女は首からさげた笛を持って、ちらりと揺らした。
「赤笛が偉そうな口を利くもんじゃねぇよ」標準よりやや浮き出た格好の男(表層の皮膚を見ると二十を少し越した程度のはずだが、全体的に三十路を手前にしているように錯覚してしまう)が、五六人の中からずいっと抜け出してきて、
「お前らどっちもこいつなんぞ付けられんさ、そういう
人が悪くなったような笑みを浮かべる男は持ったツルハシを肩とで支えて、何もしないわけにはいかず、無造作にかけたツルハシに手を伸ばして、その手はマンハッタンカフェによって止められた。
「……痛ぇな、触るんじゃねぇよ」
「一応、私のですから」
彼女は握る力をgradualに強めた。締めていくだけでいいのだから、これは楽だな、とどこか一歩引いて、思った。特段この人が嫌いでも、ましてや好きというわけでもなかった、つまり、今彼女はそこまで一過性の、強い感情に駆られているわけではないと思っているのだけれど、薄々、今まで感ぜられた探窟家の表情が、マイノリティに属していないことを理解しつつあった。だから、そこには確かに、薄く積み重なった、じんわりと汗ばんでいくようなものがあった。押してくる力が弱くなって、そして引く力になって、マンハッタンカフェは手を離した。男は右手を二、三度振って、チクショウ、痛ぇ、などと言った。
野蛮な種族が。誰かは分からないが、誰かがそう呟いた。静かだから、その声はよく響いた。そして断りなく、彼女たちが先ほどまで遺物を探していた場所まで歩いていくと、何事も無かったかと合意したかのように掘り起こしはじめた。墓でも荒らされたような気分になって、マンハッタンカフェはその光景を、ぼうっと見ていたけれど、それはひどく個人的に許されざることだと気づいて、立ちあがろうとした。
「──まぁ、ハッキリ言って」そこに、アグネスタキオンの声がした。その声に、ひとときだけ探窟家群は動きを止めたけれど、すぐに元通りになった。
「二百年遅れているよ、諸君らはね」
今度は明らかに、止まった。濁った嘲笑のような雰囲気を纏っていたものはその皮を割って、そこからその明度を保ったまま、色相環をぐるりと這い回って、これだ、と、赤色を選んでいた。
「好い加減にしておけよ、ウマ娘が」
「おや、君たちが私達を低級に扱うのはてっきり、そのご自慢の笛を根拠にしていると思っていたのだが」
アグネスタキオンは何故か、やっつけ的な高揚感を覚えていた。いけないな、このままだとなんだろう、おかしくなってしまいそうだ、そんな感じに、思っていた。
「君たちは探窟家なんだろう。下に行って帰ってくるんだろ。そこに我々ウマ娘と恨みつらみもあったものじゃない」
「知ったような口利きやがって」男はアグネスタキオンに踏みしめながら近寄って、襟を掴もうとした。彼女はようやっと目を開けて、やはりその手を掴んだ。「知らないよ。知ってることだけ知ってるのさ」
その目。男がどのような色を読み取ったのかは分からないけれど、もしかすると、その分からない、というのが、男に本能的な恐怖を呼び起こしたのかもしれない。
「人を殺したことは?」「は」「自分の考える限り合理的な選択の結果として、人を殺したことはあるのかと聞いているんだ」骨が軋んだような音を男は聞いて、先と同じように引けば解放してくれるだろうというやや楽観な無意識のもと、実際に引いたけれど、この茶髪のウマ娘は全くもってそんなことはなく、むしろその悲鳴を強めた。
「質問には答えるべきだと思うが」
「……っねぇよ、なんだ、テメェはやったってのか」
「そうともさ!」アグネスタキオンは嘲った。「私は人を殺したんだ、私と、私の大切な人の保身のために! なぁ、きみは私がきらいなんだろ、理由は知らないがそうなんだろ、じゃ君は私を殺せるはずだろ、なんの躊躇もなく、なんの後悔も、なんの後腐れもなく! それとも何だ、君が探窟に抱く精神はそれほどまでにくだらない、私
探窟家の男は何も言い返せなかった。気圧されていたのはそうだけれど、男はまさに、自らの快楽のために探窟を行なっていたからだった。それなりの金の為だからだった。崇高な理念であるとか、信仰であるとかは、男にはまるで価値のないものに映っていたし、だから男(実は彼が今回のリーダー的立ち位置である)の他のメンバーたちも、酒場で
しかし手は離された。痛みの種類は違っているような気がした。振り向いて男はメンバーにいくつか話すと、場所を移動させた。
「カフェ」
「なんですか」
「また迷惑かけることになるけれど、すまない」
夕方になると曇りが晴れ間を見せて、上体を起こして遠くを見ると、天粒ほどの人々がぞろぞろと上方向に、たまに立ち止まって──おそらく吐いている──登っているのが見えた。大なり小なり膨らんだバッグを持って、今日の夜、もしくは明日の朝あたりに買取に向かっていくのだろう、しかし見える色はどこか鬱蒼としていて、それはせり上がってくる吐き気によるものであろうか、と思ったけれど、必ず違うと彼女はバッグに手をかけた。バッグは、底面こそまともに縫い付けられているけれど、側面の水筒袋は片側が剥がれて宙ぶらりんであるし、背面の中ごろが破けているという始末である。あまりいい気分ではなかった。協会は説明の一切をしようとせず、故に彼女らは全くの手探りでアビスへ降りて行ったわけで、即ち遺物の何であるかを殆ど知らない。マンハッタンカフェは、コレオと言った青年の、たいようだま、とか、姫何とかであるかを思い出したけれど、それだけであった。
帰りますか。そうだね。結局、彼女たちはあれからほとんどの言葉を出さずに、座ったり仰向けになったりしていた。それはもし外から見るのならば、死んでいるとも言えた。アグネスタキオンはそれを、ややぼやけ気味な脳内で曖昧に理解していたけれど、それは何だか違うな、と、苦笑した。
「わたしは、結局どうしたいんだろうね」上りの道すがら、ふらふら歩きながらアグネスタキオンは言った。
「自由意志、なんでしょう」
「……ううん、これはひとつとられたねぇ」力無いから笑いがこぼれて、すぐに消えていった。
夕方になったアビスはようやっと、自然の、肌に優しくふれてくれる息遣い、大きなゆったりと、それでいて確たる意思を見せているようで、それはきっと入り込んできた太陽の、紅色の光のせいがほとんどであろう。けれども、上がっていくと、下がっていた頃よりもよりぽっかりと空いている穴が大きく思われて、少しだけ、マンハッタンカフェは、振り返って立ち止まって、はっとしてアグネスタキオンの先を歩いた。「きれいだね」それを見過ごすほど、彼女はどうにかなっていたわけではなかったけれど、実のところ彼女はアビスを見ることはできなくて、そういった言葉の軽さをマンハッタンカフェは理由なく感じ取った。「ええ、とても」と、せめてこちらは、と、乗せられるだけのものをのせた。
「どうやら、そうだな」と、言った。「下が、どこまであるか分からないらしいが」
「へぇ」マンハッタンカフェは、若干息を切らしてそう返した。平静を保っていたけれど、彼女も積み重なる吐き気の誘惑に体を奪われかけていて、彼女は額にまとわりつく油水分を拭き取った。
期待はずれ、ではあるのかもしれない、と彼女は思った。皆が皆などとは思っていなかったけれど、全体的な、根源的に共通している理念くらいは、せめて崇高でも何も言われることはないだろう、と、ホウプしていた。けれど、そこには現実的な、中学生くらいの、偏に現実を悟った痛ましさで溢れていた。
「……わたしたち、これからどうしましょうか」
「そりゃまぁ、生き抜かないとさ」アグネスタキオンはそう言って、いや、と考え直した。「……あの子は私たちと関係ない、から、かな」
「エリカさんはわたしたちが居なくても、多分、生きていけますよ」
「否めないね」アグネスタキオンはやはり、力無く笑った。答えは出なかった。
組合にそういった拾得物群を持っていくと、それは後ろの方の、そういった専用の受け取り窓口が在るから勝手に行ってこい、などということをまた不機嫌に言われて、さらに買値もどうやらそこそこに渋られたようで、しかしながら彼女らはこの街の硬貨の取り決めを知らなかったために、それがいくらに該当するか分からなかった。
「日本と同じ、十枚で銅色から銀色、金色になるとすると……どうだろう、三人分を、私たちは昼飯を抜くとして七食分か」
「エリカさんが持っていた分が確か、銀が七枚と銅が少し」
「で、私たちは今、金が一枚に銀が九枚」
「ううん、ものの見事に足りないねぇ。夫婦共働きなんだから、ひとの一人くらい養いたいものだ」アグネスタキオンはやや笑い飛ばして、受付に居た人たちがあからさまに嫌そうな顔をした。こういう場合、それとなくマンハッタンカフェは会釈をしたりするのだけれど、声には出さないだけで似たような思いを持っていたものだから、そっとしておいた。いや、ずっと、一度、そうしてみたいと願っていた。彼女は自分の手を見たけれど、何も変わっているようには思えなかった。
お帰りなさい、と、二人をみたエリカは駆け寄ってきて、怪我はなかったかとか、体調は問題ないかとか、医者(見習い)根性眩しくあわあわとしていた。帰ってきた八畳間は、扉を開けた瞬間に外気に触れたような、一種のシュレディンガーらしさを内包していて、マンハッタンカフェは特に、そういった経験に富んでいたから、きちんと食事を取ったか不安になったけれど、そうしていないもの特有の気配、つまり、いっぽ淵へ近づいたものが感じ取られなかったから、少し大きめの息をついた。視野が狭窄して、そういったことを見られなかったエリカは、アグネスタキオンから受け取った硬貨の数を見て、怒りを抱いた。権利であるとか、彼女の持ちうる理由はふらふらとしていて、それをエリカは分かっていたけれど、一気に胸が詰まって、気味悪く焼けていっていった。尋ねられて、なるたけ平静に返した硬貨の仕組みはアグネスタキオンの仮定した通りであって、つまり七食には、全くもって不足している。アビスの中で食材を調達するという考えが自然的に現れたが、それは厳しい、とエリカは答えた。オースの周りの海域は海産に乏しく、藻類しかまともに取れないために、アビス内の水域で取ることのできるものが貴重な資源であるのだ。畜産、農業についても、特に畜産については真面なことができず、穀物に至ってはそのほぼ全てを海外からの輸入に頼っている始末である。かろうじて根菜、葉野菜の類は供給が成り立っているけれど、故にアビス内での食糧調達行為はいま、特別に許可を得なければならない。川には月笛の見張が居るし、賄賂を渡すくらいならば単純に購入して食した方が金銭的にも外面的にも安上がりである。
「ただ、その、例外がありまして」ともかくも、三人は床に座った。エリカはちょっと目眩を覚えながら、わずかに憧憬を持って言った。
「その、それが白笛の、
「ラストダイブ」
「はい、その、アビスの上昇負荷は下に行くほど厳しくなっていって、ですからその、行き過ぎると生きて帰って来れないんです。だから言った通りの、最後の旅……で、ラストダイブをする、というのは噂になりますから、ほぼほぼ顔見で問題ないらしい、です。……三層から先はすごい危ないですから、抑あんまり食べものをとることはないんですけれど」エリカはそこまて一息にいって、息を吸った。これか、と、ふたりは納得した。上昇負荷、というのはそれらしいな、とも思った。きっと、体の隅々までもが謂れのない吐き気に覆われて、少なくとも最悪の死に様、ともすれば死ぬよりも死んでいるような様になるのだろう、と確信した。ただ、それに触れると、エリカはきっと自分を責めてしまうだろう、とどこか苦笑してしまったので、そっと閉じ込めておくことにした。
「層、があるのかい」代わりに、そうアグネスタキオンは聞いた。
「あ、はい。層ごとに、その、環境が違うので。今は七層まであるらしくて、上からアビスの淵、誘いの森、大断層、巨人の盃、なきがらの海、還らずの都、最果ての渦、で、もっともっと下は層じゃなくて、深海極点、奈落の底……って呼ばれてます」
「下がわからないというのは……」マンハッタンカフェがゆっくりと口を開いた。「つまり、それをはっきり伝えるひとがいないから、なんですね」「そうなんです」エリカはばっと答えた。
「見るものも、知るものも全部、
「……エリカさん」こういうとき、口を開くのはたいていアグネスタキオンであって、事実アグネスタキオンはそうしようとしていたけれど、マンハッタンカフェは珍しくそれを抑えた。
「私たちは、人を殺したんです」
アグネスタキオンは少し目を見開いたけれど、横目でそれをとらえたマンハッタンカフェは、その理由がこの話題そのものではなく、私たち、ということにあるのだと理解していた。部屋の丁度に硝子といった貴重なものは窓だけであったけれど、もし瓶なんかが有ったとしたら、そのうちの一つがくるくると回って、床に落ちて割れていたであろう。「ひ、ひと、を、ですか」
続きます。