何卒よろしくお願いします。
どこからともなく有限無数の弾頭が飛んできて、客船はあっけなく沈没を余儀なくされた。海路の途中、話すことが少しばかり底をついて、夢見がちに客席から窓をぶらりと見ていた。あるはずのない場所から、そっと顔を覗かせる何か、形状を持ったもの。幻聴であろうな、と認識して、それからことは起こった。
「……悪手、だったんでしょうか。エリカさんにあのことを」
「はは、まぁいつかは話していただろうさ。ならいつ話しても変わるまい」
「そういうもの、ですか」
「まぁね」
探窟以外にも働き手を見つけようとしたけれど、特にアグネスタキオンは、全くもって労働力には換算されなさそうであった。探窟の関わりから遠のくほど、人は少なくなり、歓迎の度合いは増していったけれど、それに伴って賃金の量はやはり下がっていくのである。彼女たちにとって、それは何の障害にもならなかったけれど、エリカを死なすまいという点で彼女たちはとても一致していた。だからこの一ヶ月と少し、彼女たちは探窟に甘んじていたと言える。なけなしの金で新しい鶴嘴を買い、針と糸で装具を縫い合わせて、アビスから遺物をなるたけ持って帰る、その繰り返し。一番安い食事を苦心して見つけて(何と彼女らの住んでいる場所には調理場がない)、二人はそれを口に運び続ける。いつしかそれに慣れてしまって、そういった自分に二人は少しだけ、安心していた。これも新しい、形なのだろうと思っていた。
エリカに、船上、ボートでの一件を掻い摘んで話してからというもの、彼女の目は若干に危険な色を帯びているように思われる。つまり、それこそ危険な、あこがれを抱いている。酔いしれているだけだという自虐に、エリカは表面上の納得を見せたけれど、特にマンハッタンカフェは、エリカの埒外に、ある強い力があって、それが順繰りに彼女を取り込もうとしているのを見ていた。それは二人が作り出したものでもあったし、エリカが醸成したものでもあった。
「暗い話を続けようじゃないか、偶の休みくらい」
「……ええ」
明るく言って、彼女たちは歩いていた。東区から西区まで動いて、やがていつかに逃げ出してきた光景が見えてきた。気候は晴れていて、湿度もなく風も良好である。しかしながら、この街並みはどうにも貼ってつけたようなものが窺える。きっと、この、今見えている景色の裏側にまわったなら、まるで廃墟であるような確信があった。事実、ほとんどに人はいない。もっと言及するのならば、探窟家以外の者はほぼほぼに。だから、店を開いているのは探窟の合間を縫っている者であったり、老いや怪我で引き去った者であったり、である。記憶では確か鮮やかな目で見られていたはずだけれど、多分風土の違いか何かで、やはり彼女たちを見る目は変わっていなかった。つまり、じめじめとしたものであった。
「……そう、たとえば、だ」アグネスタキオンは道の真ん中を歩きながら、語りかけた。「私からこの耳と尻尾を取り除いたとする。彼らの視線はきっと、何も変わらないのだろうね?」
「外的には、変わると思います」マンハッタンカフェは指を組んで答えた。地面を見ていた。
「その程度のものじゃないですか、きっと」
「案外に言えてるね」
彼女は気が抜けたように笑って、スッと歩いていく。ジャガイモ、人参、キャベツレタスに瓶詰め、肉は干したものしか売られていない。寧ろ物品──少々値の張る探窟用具であるとか、そのあたり──が多数を占めていて、彼女らの持つ金銭では全くに何も買えそうにない。というのも、彼女たちは服を買った……厳密には、買ってしまったのである。患者服のままではあまりに、と、エリカが強く主張したためであった。やや薄手のコートのようなもので、まるでいつかに着たものみたいだと、妙に感心した(無論袖は通常の長さである)。二人としては、エリカの方に一つ買いたい気分であったのだが、その旨を話すと青い顔をして彼女は首を横に振った。その表情があわや気絶をしそうな血の引きようだったもので、不謹慎だな、と思うけれど、二人は苦笑してしまった。
わたしは、と、アグネスタキオンが言った。「君にそうあってほしいよ」
「終わった筈ですよ、その議論は……一ヶ月と少し前に」
彼女は否定も肯定もしなかった。ただ、それが自ら取ったものであることは一考の外に置くとして、宿に置いてきた笛は心なしか彼女たちに清涼感をもたらした。胸元に下げられた笛はきっと体を後ろへと押していたのだろう。この一ヶ月と少しという時間は、彼女たちに疑問、つまり、探窟家とは一体何者なのだろう、という問いを立てるに十分であった。
「そうしないことが、わたしの……自由意志、でしたか。自由意志なんです」
「全くもって
若干の雲がかりな晴空と、彼女は反対であった。外に出てきたわけも、ともすれば忘れてしまいそうだったけれど、元々が言い訳じみた詭弁だったと思い出して、結局歩くことにした。西区の方からスラムに向かっていく通りは、百メートル歩いていくごとに店を支える木組みであったり、抑の売られている商品であったり、諸々に歪さを増させていって、ついにはきな臭さすら漂いはじめる。ポツポツと、エリカの着ていた服はもしやするととんでもなく高値なのでは、と思ってしまいそうであった。
「……結局、目的が同じ、というのが面倒臭い」
「私はこれでいいんです」
「私はそれで良くないんだ」
こう、何というか。そう、あぁ、。言語化が追いつかない。整理しようとして、片した端からまた散らばっていく。髪を掻いて行き場のない燻りをどうにかしようとするけれど、それは周囲の目線をより険悪にするだけである。
つまり、探窟家という言葉について、彼女は期待を抱いていた。笛を受け取りに行く時に、若干の申し訳なさすら感じていた。だのに、彼女のように当面の資金ばかりを追いかけて、何とも形容し難い、濁ったような視線ばかりを共にする日々である。日毎に首からかける笛は重くなっていくように感ぜられて、半月ほど経ってから、通過の際に見せたきりポケットにしまうようになってしまった。
私は、私も、あの連中と同じように濁ってしまったのだろうか。なるほどそうも思われた。しかしそう、行き着く結果に変わりはないだろうけれど、その様では、自分が殺した人に何もできまい、と、決心した。ただ、いつしか話した、私たち、というマンハッタンカフェの言葉が、彼女の疑念を確信づけた。
「君は此処に居るか、帰るべきだと思うんだが」
「……それは、後悔ですか」
「──はぁ、痛いねぇ」ただ一つの弱点をもたらされて、アグネスタキオンは息を吐いた。
「……だからこそさ。だからせめて君には生きていて欲しい」
「私は」マンハッタンカフェは俯いたままであった。「私は、タキオンさんについていきますから」
「……やさしいね、君は。残酷だ」
「──何だ何だ、真っ昼間から生き死にの話たァ物騒だな」
不快、奇怪しか取り囲んでいなかった露店から、その声は聞こえていた。それにしてはやけにフレンドリィな、久しく聞く、明るげな声であった。やや小太りな男は髭を生やしていて、おそらくは四十ほど。身につけている半袖とジャケットはスラムに近づいているとは思えないような、つまり真面な身なりであった。
「明るい話でもしようじゃんか、まぁ……足止めてくれるようなモンがあるといいけど」
男は手を広げて、はにかんでいた。二人にはなにくそと通り過ぎる選択肢が与えられていたけれど、実際そうしようとした時に男の方が何とも情けない引き止め方をしてくるもので、そういった雰囲気ではもはやない、と、二人は露店の方へ寄って行った。自分たちを無条件に嫌っている、という風ではないだろう、という思いが共有されていた。
男の露店には、まるで商才といったものが見出されなかった。端に鶴橋を売っているかと思えばその隣に何に使うか分からない小さい飾りがいくつも置かれていたし、一方には何故か根菜類がちまちまと置かれて、真ん中には大小様々の本(無論彼女らには読めない)が積まれていた。怪訝そうな顔で二人は店主を見る。雑貨屋だ、と彼は豪快に笑った。確かに、雑に貨物を並べているな、と思った。
「要らないやつとか拾ったやつとか、そんなもんを適当に売ってる。俺ぁこれでも探窟家だからな、こりゃ趣味さ」
「探窟家」マンハッタンカフェは顔を顰めた。だからそんなくらい顔すんなって、と、男は手をポケットに入れた。
「どうせいつものアレなんだろ? 他の奴らは知らんがさ、俺ァ別に何とも思っちゃいねぇよ。ちぃっと走れるぐらいじゃ何も変わりゃしないさ」男はポケットから右手を出して、親指と人差し指の隙間をあからさまに少し開いてみせた。「つまりさ、もっと大事なのは、
「何か、宗教でも」胸をたたいた男に対して、ようやっと切り替えを済ませられそうなアグネスタキオンが、しかし先のことに頭を引きずられながら質問した。男は待ってましたとばかりに当てた手を取り除いて、しかし首を傾げた。
「何だ、知らねェのか。探窟家じゃぁなくても、知ってそうなモンだがな」
「私たち、余所者ですから」
「……ほぉ、そうかそうか」何か納得らしげに腕を組んで二、三度頷く姿は、その体躯すらも偉丈夫に見せるだけの下地、積み上げた
「まァ、余所者は好かん、ってのも居るには居る……や、かなり居るな。ここ二百年は殆ど人が来ないからよ、大体は難破船だったり溺れかけの奴らだったりとは……ウン、聞く。つまるところアビスは俺らのモンだー、って言いたいんだろうな」
「選民思想か。まるでカトリック……いや、ユダヤだ」
口を開いたアグネスタキオンに、男は再び首を傾げた。「ゆだや、かとりっく……ねぇ、スマンな、俺だって此処の人間だからよ、外のぉ……多分、宗教か? は知らねぇんだ。……あぁ、いやでも、二、三年前に何だか、ぶっきょう? とやらは聞いたがね」
仏教。その言葉の列に、二人はもしや日本の人間(もしくはウマ娘)が居るのかと勘繰った。しかし、すぐにそれは全く問題の範疇を超えていると気付いた。
「で、その、拠り所は」
「あぁ、そう、その
「俺らの神さんはな、このアビスそのものなんだ」
魂が巡るだとか、そう言ってご高説──に聞こえないように、男は細心の注意を払っている──を続けながら、男はどこかで、得体の知れない不定形の黒さ、それが二転三転して白黒を描きながら漂っているのを、ぼんやりと感じ取った。ウマ娘だから、という、古臭い理由では断じてなく、きっとこの娘らは、身に余る、そう言った経験をしてきたのだろうと、幾度となく別れを経験した男は、そこについて確信する。生きることが煩悶となって、そうでないことが懺悔と解放になりうる人生。四十路を前にした、例えば自分のような身にだけそれは与えられれば良いのに。──この娘らの信じる神は、随分と残酷な試練を与えるんだな。そう、思った。あるいは信じる神など、もしやすると居ないのかもしれないのかも……。
「……とまぁ、結局は先人様が始めた都合の良い解釈なんだが、あれよあれよって感じでさ。うぅん、だが、悪くはないね。実際誰も何も分からんのだからさ」
「……へぇ」アグネスタキオンはそれらを否定するわけでも、肯定するわけでもない。彼女はむしろ無神論者であるために、ひとつ引いて、その奈落信仰を観察していた。
「つまり、探窟家は神を暴きに行く、ということかな……それは、信仰的に許されるものでは──」
「ないね。でも、探窟には行きたい。アビスのこと、遺物の秘密、絶界の絶景、何でももっと知りたい……とんでもなく厄介な狂信者なんだな、本来俺たちは。だから探窟だって、神への懺悔、祈りに置換されてったんだ」
祈り、というイントネーションの強弱。そこから察するに、男はその言葉に強い信頼を抱いているようであった。とすれば彼らは、特段の罪に問われたはずでもないのに許しを乞うていることになる、そうでなければ自ら構築した理論で自らが罪を背負っている──
そこまで考えて、結局キリストも似たようなものじゃないか、とアグネスタキオンはなんだか可笑しくなってしまって、その結果男は若干に不審げな目つきをした。
「ン、なんだ。気に食わんとこでもあったか」
「いや。唯、私たちは何処に居ようと変わらないのだな、とね」
「……ま、構わんさ。俺ァ外の世界なんぞ暫く知らんからな」
ただ、と男は続けた。
「俺達の信じる神さんを莫迦にせんといてくれ。それでいい」
それは穏やかな口調であったけれど、彼女は素早く、そこに男の見せたものらしくない、脆弱さがある……それを見つけた。いつの間にかすっかり喉が渇いていて、飲み込もうとした唾は小さくちくりと口腔を刺激し、胃へと流れ落ちた。その流れ落ちる経路、今どこそこを通っているなどかがはっきりと認識できた。
はりぼての街。広さだけを保って、その維持に皆が必死になっている。それが、きっとはりぼてでなかった頃の繁栄、ありふれた眩い光と快楽的な闇を忘れられずに、それを紡ごうとしている……。本当はそれが薄味のポテトチップスであると認められずに? つまり、中に入っている窒素ガスが彼らをじわじわと追い詰めている? それとも、餌ばかりが大きくなってしまって、そうか、得られる影のなんと小さいことか、まとまって一つのジャガイモになって、生まれ出た芽のなんと毒々しいことか……。
──無論さ。私らの国には思想と良心の自由がある。へぇ、いい国だこと。
「……辛気臭くなってきたな。まぁ、この話は止めだ、やめ」
難しい話は後だ、と言わんばかりに男は首をふるふるとして、手を一度叩いた。それで例えば、男に通常寄ってくるスラムの孤児たち、拾われる価値すら見出されなかったかがやき、そういった子達は一様に目を輝かせるのだが、つまり男にとってこの事象は興味の対象となった。これは男の悪い癖であったのだが、今はそういったことを気にしていない。そういう仕草を自然に溶け込ませるように、訓練はしたけれど。
「雑貨っつぅより、博物館とでも思ってくれ。大きさはまぁ、あれだけどよ。探窟家のあれこれとか、ちっこい遺物だったりな。ここらの子は一応、こういったものにすっ飛んできてくれるんだが……」
子供扱いするものじゃない、とアグネスタキオンに微かな反骨心が芽生えた。それは年頃であった彼女にとって、とても真っ当な、それこそ大人に微笑ましく思われるようなもの。確かに相違はないけれど、当の彼女にとってその矛盾は、何の理由もないけれどただただもどかしかった。
「──ここには銃だとか、そういった物はないのかい」
それは確かにそういった意味が込められていたけれど、そういった意味も込められていた。マンハッタンカフェは彼女の腕をそっと、店主に気づかれないくらいに強く握ったけれど、アグネスタキオンはそれを放っておいた。それは確かに、安心のサインであった。
「じゅう、とは」
「あぁ……ンー、何か石か鉄かを手っ取り早く打ち出す道具さ。小型のが良い」
「はぁ、成程成程……パチンコのこと言ってるわけじゃねぇ、ってのはわかる。すまんな、俺ァ
「十六か……でなければ、十七世紀辺りか。こういったものは。時間でも遡行したのかね。……どちらにせよ」
「……私がしたことに変わりはないけれど」
彼女らにとって、明るい話というのは、その先に影をさす話題への期待であって、多少惹かれる後ろ髪は確かにあったけれど、すっと通り抜けるためのものでしかなかった。「私は」マンハッタンカフェはアグネスタキオンを見ずに、つぶやいた。
「私たち、と言ってほしい……です」
「なかなかに回り
「分かるでしょう」
「あぁ分かるとも。ただそれが私だけということを忘れないで欲しいな」
子供の頃から、全てを思い通りにするだとか、そういったものは達成し得ないのだと彼女は理解している。個体の多様性であったりは、であるからこそうつくしさを生み出すのであるとも。しかしアグネスタキオンは今、しっかりと研磨されて投げ返される言葉の球──不定形では、ある──に、丁寧に画鋲を一つ埋め込んで、がむしゃらに放り投げていた。おそらくは、涙を流したりなんかしちゃって。
「やさしいんですね、タキオンさんは」
「君は些か、いいひと過ぎるんだよ」
本当だ、本当にその通りだ。彼女は歯噛みした。受け止めた掌は少ないながら血を出しているであろうに、突き出した針を丁寧にとって拭き取って、そっと手渡してくる。それは受け取らざるを得ないから、それでもマンハッタンカフェの血のついたボールはどうしても、特別であるのだ。
我ながら、少しばかりパーヴァートであろうか。間が開いて、アグネスタキオンは少しばかり鼻を擦った。間を開けてくれるところ、
「おいおい、だからあんまり暗い話をすんなって──ん、あぁ、これだ。良かった良かった、明るい話ができる」
半分ほど備品をひっくり返して、店主は辞典ほどの本を持ってきた。「遺物目録ってんだ」落ち着いた葡萄の色で装丁され、端々にはどことなく聖の香るそれっぽい装飾が施されている。無視をすることも考えたけれど、それは倫理的に(そう、倫理的に)望ましくないであろうと思われたので、二人はその本に寄る。温かい日差しの中に暗さがどうして無いだろうか、などと思ったりして。注目する前にふと店主に目線を向けると、なんと素晴らしい少年のように本を見つめているではないか。神妙にページが捲られる。後ろから、らしく、
「うぅむ、やっぱり、あんさんらの言う銃ってのは無さそうだ。まァ打ち出すってんならコレ……が有るには有るんだが──」
「……何か問題でも」
店主が口苦そうに紙を捲る。行ったり戻ったり、しかし最終的には索引から程遠くない所で止まる。厭な予感。マンハッタンカフェは少しだけ身構えた。冷えた気配が肌を突き刺したのだ。どれほど明るい話をしようとしても、由緒という論理に守られた思考でも隠せない、根源。例えば。
「──特殊なのさ」
等級、
「……随分と、勿体振った書き口ですね」マンハッタンカフェが背を曲げて、遺物の絵を指でなぞった。「組合の方が口を割らねぇんだと」店主は腕を組んだ。
人形である、という点が既に、マンハッタンカフェの抱いていた感覚を削り出して、完全な球体へと近づけていた。あまり高いとは言えない背格好に、破損した部位の数々。奇怪な格好のヘルメットに、片腕。ここの文明レベルも知れたものだ、こんな
「どうもこの腕が伸びるんだと。んで当然、そんなだけで至宝扱いなんぞされる訳ねぇから、目から光線やら超変身やらするんじゃねぇかって一通り噂されて……今の若い奴らは在り来りな伝説ぐらいに思ってることだろうな」
「伝説、ねぇ」アグネスタキオンも腕を組む。それは怪訝さ、確かにそれはあったけれど、何よりも得体の知れない苛立ちがあった。「その話しぶりだと他にも有るようだが。伝説とやらが」
「あるさ。そりゃいくらでもな」店主は胸を張って、さらに腕組の高さをあげた。「あんたらがどうやって来たかは知んねぇが。なんてったってオースは夢と希望の街だからな」
「この本も大概だが、君も随分な自信じゃないか。興味深いねぇ」
「好奇心の為なら俺達ぁ死ねるのさ。多分、あんたも分かるだろ」
「まぁ猫が死ぬくらいだから、人間が死なない道理は無いだろうね」
アグネスタキオンは組んだ手を解き、こんな時でも現金な腹具合を見つめた。埒外な行いをして、彼女はこの場所が温かいということを実感する。
「……失礼、何か食べるものは売ってあるかい」
「ンー、悪ぃな、一応雑貨なんつぅ看板立てちゃいるが正直……飯なら、滑落亭に行きゃぁ大抵のモンは食える。質も良い」
「此処で買うさ」
「有り難ぇが……本当に、不良在庫のパンに薄いベーコン挟んだだけなんだ。まぁ値段は値段だけどよ」
「情報代くらいにはなるんじゃないかね」
「ちと安いかな」店主は苦笑した。「まぁ、恩ってことで。あんたら美人だしな、売っとくと得になるだろ」
負けといてやるよ、少しはな。男はそう言って、数ある箱の中からまだまし、少なくとも埃のない、比較的上段に位置しているものを取り出して、本当に形崩れのパンにベーコンを挟んだだけのものを二つ用意した。
「安心しな、薬物なんぞ入ってねぇよ。何なら入ってるのを一つ食ってもいい。どうせ売れんから俺の昼食になってる」
「あまり考えたくない可能性だね」
「売るか売らんか、そりゃ個人の自由。買うか買わんか、それも個人の自由。俺ァそう信じてる」
行くか行かんかも、な。いつの間にか取り出した三つ目のパンもどきを、男は大口に、半分消し飛ばした。彼女たちも口に含んで、そこで不気味な、飲み込んだひときれが脈動しているような、
「……ふむ。嬢ちゃんらは探窟家、ってことで?」
「否定はできないね」
差し出された水を手に取って半分を一息に飲み込んだのを見て、男は方向の違う笑みを見せた。
「いいねぇ。近頃は日銭目当てのスカポンタンが多いからな、勝手に期待させてもらうよ」
「その日銭目当てさ。残念だがね」
「今はそうかもしれん。だがまぁ、これァカンさ」
アグネスタキオン、マンハッタンカフェは中立よりやはりやや負方向の呆気にとらわれていたけれど、男の気配、つまり今までの温和なものが一変して、ある闇、只の探窟家ではない表情をしたので、それは警戒となって彼女らに降ってきた。そういったこともあるだろう、培った理性は言ってくるけれど、彼女たちはそれを今、あまり好いていないのが理性にとって泣き出したくなるものである。
「……その目録、売るのならば幾らになるか教えてもらっても」
男はむ、と顔を曇らせた。本当に、これは素晴らしいのではないか。期待をしている、という言葉は嘘ではないと自覚していたけれど、彼女たちの目の色の変わりよう──きっと、彼女ら自身は気づいていないんだろうな、と男は思う──は、男にとってとても分かりやすいものであった。何より、完成されていないのがさらに素晴らしさを後押している。二人をこの場所まで運んできた何者か……それがたとえ何かしらの、義務的な悪意を湛えていたとしても、男は感謝を持つ自信があった。
「ふむ。そりゃ嬢ちゃん、せめて向こう一年分のパン買ってくれなきゃムリだな。買っても売らんが」
「金の問題ではない……ふむ」
「そうさ。こいつぁ俺の、まぁ……なんだ、宝物でさ。あれこれ言われでもせん限りは無理さね」
「あれこれ言われたのなら売るのかい」
「そりゃあれさ、言葉の綾ってやつさな。……それにな、こりゃァ俺がこの目録を売らねぇ最たる理由なんだが……」
そこで男はあからさまに声を低くした。ここではそういったあからさまさがとても有効であると、学んでいた。そっと、自然な動作で腕に巻き付けたもののボタンを押す。雑音であったりを、彼は咳で誤魔化すのだが、巧いもので、それはメッセージなのである。
「コイツは直ぐに買い取られたのさ、黒笛にな……っつっても、相当の爺さんと聞くから、もう居ねぇだろ。で、んでアッという間に
続きます。