どうかよろしくお願いします。
結局、店主は遺物目録をすんなりと彼女らに与えた。金はいらない、と彼は豪快に笑った。少し離れた隣の店の、明らかに細い身なり、栄養の足りない顔の主人が、露骨に嫌な顔をして男を見ていた。
「そりゃぁ店主、無理がある。どこからどう観察しても、今のは売ってくれない話の流れだったろう」
「良いさ良いさ、年長者はな、自分の意思の都合の良いところだけ継いでもらう。相場がそう決まってんだな、これが。悪い話じゃないだろ? ま、文字は誰かお仲間さんでも作って、読んでもらうことさね」
「……なかなか、信じられませんが」
「信じる信じないってのは関係ねぇさ。俺ぁもうそいつを嬢さん方にやった。それだけが事実ってもんだ」
「ふむ……」
アグネスタキオンは思案をした。しかしその実、彼女は何を思案しているのか分からなくなった。三人を三角形に結んだ垂心を回転軸にして、思案という球体が慣性モーメントI=2/5Ma^2で回転していた。ゆっくり、くるくる。そうしていると、だんだんと俄かにかいていた汗が意識されだして、鎖骨の少し下を彼女は指で掻いた。
「──申し訳ないが、何か汚れ仕事は受けられない。一応これでも、探窟家なのでね。それでも?」
「俺ぁ
「……すまないね」
得られた遺物目録は、店主が時間をかけて掘り出したにしては、よほどの埃のなさを見せていた。改めて、それに気づいた、と言ってもいい。これを受け取る、受け取らないというのは、アグネスタキオン、マンハッタンカフェの想像より大きな意味を持つ。彼の持つ遺物目録というのは、つまりそれ自体が人間的な聖遺物であるのだ。だからこれは壮大な、試金石であった。男が放り投げた。
「ほれ、気が変わらんうちに行った行った。その、なんだ。嬢さんらもこんな髭野郎、見たくないだろ」
マンハッタンカフェは、その、笑顔のような声に、眼を遺物目録から離した。自分は今、手を伸ばして踊れる範囲よりずっと広いところから、殻で包まれていて、つまりそれはずっとずっと、縮まっていく。そして自らの首に巻きついて……。考えすぎだろうか? そうも思った。しかし、この現実、こうまで良い人がいるはずもない、と思える程に、彼女は絶望していた。
「戴いておいてすみません。……一つ、お伺いしても良いですか」
「ん」
故にマンハッタンカフェは問うた。
「貴方は、貴方が信じる神を、信じますか」
「……」
「……いや」
興がのったな、と男は思う。その笑みは、歯の形までもが描写されそうな、本性? を兼ね備えていた。
「
「……」
ありがとうございます、という科白は、出てこなかった。マンハッタンカフェは確かに、言おうとしたはずなのだけれど、そこは舌根から口に出るあたりで引っかかってしまって、そこで粘性の流体のように、どろどろと口腔に残り続けた。しかし二人はどちらともなく歩きはじめる。こつこつと音を立てて、その手にはしかし、本が握られている。隣の店主はそれを、ともすれば
『……あれはお前が事有る毎に見せびらかしてきたものではないか』
「構わんさ。どの道あの子らは俺より長く生きる。つまり俺より先に死ぬってこったね。心配せんでも、チャンと頭ン中入ってるよ」
少しハスキーのかかった、気だるげな女性の声。しかしイントネーションの付け方、それ自体に問題はないけれどその有り様が特徴的なので──真似た、と本人は言う──男は耳元の受信機をこつと叩いて、痒みを取り払った。全く情報通り、大まかな筋書き通りに話が進まない、というのは、悪くない話であった。
「少しどころか、かなり違っていたようだが。もっと髪の白い、ちっこい娘なんだろ? 抑も俺ぁついでくらいにここに居たわけで、その、なんだ。子供達とキャッキャとか、つまりだな、今日は休みだとテッキリ……」
『予測外の事態は起こり得る。元々あの娘はどこに居るか見当がつかないのだ。組合も知らぬ存ぜぬで辟易する』
「まぁ、そうだがねぇ」
男は少し頬を掻いた。
「そっちだって、一度見つけたんだろ? みすみす見逃したワケくらい聞かせてもらいたいね」
『個人的な意見だが、彼女はダメだ』
「へぇ」
『信用はしてくれたが、それでも、ということらしい』
「そりゃ良いことだ。信用ってのは厚いもんでな、手放すんもんじゃねぇ」
『……であれば、
「信用で酒を呑ませるそっちが純粋すぎるのさ」
男は笑って、きっと今、通信機の相手はひどく微妙な、そんな表情をしているのだろうと思うと、やはりそれは、彼女が真似ようとしても残ってしまう、根底なのだろうな、と、苦笑する。
「……それで、どう思う」
その笑みを閉じて、彼は聞いてみることにした。
『お前はあれをやったのだろう。それが事実とも』
「……あー。格好つけるってのァ、やっぱ良くないねぇ……まぁ、期待してるのはそう、事実さ」
水筒の水をマグに移して、彼は簡易イスに腰を下ろす。
彼女らにとって、明るい話ができただろうか。無論、自分は探窟家であって、彼女たちの保護者、先導者などというものではない。これは全くの反逆思想である、とみなされそうで、男は失笑してしまうのだが、自分たちでは奈落のありかを見つけられないのだ、とすら思っている。電話口の相手は、きっと今、思い描かれている大きなストーリーの一部に、彼女らを取り込もうとしているのだろうけれど、あの二人には、きっとそれは似合わないのだろう、と思われた。だからこそあの遺物目録を渡したのだ、と自分で言い訳をつけて、水を一口飲む。半分消し飛んだパンは冷えてもそれほど味を損なっていないので、良い。
彼女らの、あの素晴らしい死んだような目、そこから何か、そのあれこれを取り払ってやれただろうか。
無理だろうなぁ。男は笑った。何が無理なのだ、と通話口の女性はぶっきらぼうに返答した。
「こっちの話さ」男は通話機のスイッチを切った。
来た道を寸分違わず辿って帰るというのも、それはそれで機械化された、つまり生命を感じさせない響きというものがあった。それを彼女たちは間違いなく分かっていただろうけれど、彼女たちは行ったことのない、街の裏、裏街、路地へと進んでいった。外の日の照りつけようはちょうど認識に左右されるくらいのあれこれで、清々しいと思えばそうであるし、鬱陶しいと思えばそうである、といった塩梅である。しかしながら、様々の家が相互に助け合って、路地には影の連続体が生み出されているので、そこには肌に張り付いて、そっと触れてくるような涼しさがあった。あまりよろしくない、蠱惑さを感じる雰囲気。続いて行って、やがて曲がって切れている視界のその先にはきっと何もないだろうけれど、その予想は単に彼女らの感じる彼女らの体温を下げていくのみである。中央の通りからの声が、かすかな雑音となって流れてくるのが、しんとした中になる小さい虫の鳴き声と相乗して、この空間の致命的な静謐さを思い起こさせる。
疲れるな、というのが、ぼんやりと浮かべる二人の認識であった。そこが二人の、揺蕩う柔らかい球、そこから伸ばされた一部分同士が手をとっていて、どんどんと更新されていく目の前の景色、それに神経の奥の方がうっすら、次第に無視できないほどに振動していくけれど、もう彼女たちの右足、左足とする動きはもはや彼女たちから外れているようであって、それで精巧なセル画のように捲られていくものを、ただ見ているだけのように思われる。
「良い街ですね」
「全くだ。私たちみたいだね」
「ええ」
──例えば、この道が一つの、輪を形成していたとする。アグネスタキオンはそう考えた。私たちはこの道を永遠に回り続けて、そしてその最中で──
「……あまり、隠し事はよくないのかな」
良いですよ、とマンハッタンカフェは言おうとしたけれど、君は良いよなんて言いそうだ、と、アグネスタキオンは止めた。
「正直、この街に空いている穴、そこへ行くことはつまり……、その」
彼女は言い淀んだ。それは彼女にとって、あまりよくみる光景では無かったと言える。彼女は今、この続きを、ネガティブな言葉にしようと思っていたけれど、果たして現実に即しているかどうか、彼女に自信はなかった。
──なんだ、私は。自分に、肉体と精神以外の何か、魂? があるように思われる。彼女の中で、それが存在すると仮定するのならば、その方向は全く逆を向いている。現実のベクトルに関しては、全くもって完全に同じ向きを示しているというのが、全くよろしくない。
「……暗い話か。私個人としては、好ましいと思うな」
そういった問題、そして何より、
「この道は良い。人が居ない。よく私はこの道を通って帰るのだが……君らは、まさか帰る
「物言いにしては、顔がイキイキとしていないね」
「……済まない、癖だ」
「また随分な癖だ」
「行動は故に魂をも置換し得る、という言葉を覚えておくと良い。……よく云っていた」
「誰が。貴方が?」
「知人だ」
その初老の男性は、強い口調で言い切った。外出先にまで着用されていた白衣は、そこにアグネスタキオンとの奇妙なシンパシーを励起させたものの、ともあれ彼は問うた。
「エリカは、どこにいるのかね」
「貴方が気にするようなことですか」マンハッタンカフェは繋いだ手を強く握って反駁した。
「癖だ、と言ったのは物言いに対してだ。今では悪いとすら思えない」
勝手なことを、と思って、それを口から出そうとしたアグネスタキオンは、彼の立ち姿が、どこか足の方の揺らぎを起こしつつあるのを精神で感じ取った。それはなぜだろう。彼が私のように見えてしまうのはなぜだろう。
そこで彼女たちは、院長がすれ違うということ以上の、ここでの意味など、見出している筈もないと信じて、通り過ぎることを試みた。自分の目の前を通過していくのを見て、彼はきっと、彼女らはそう考えているのだ、と、何より自分がそう思う筈であることを理解しているので、心臓が早鐘を打った。虚偽は一度もしていない。しかしそこには、虚偽が必要であった。
「昼がまだなのではないかね」
「生憎、幾ら来なくても構わないのでね。心配しなくても金はない」
「……アビスへの行き方を教えよう」
アグネスタキオンは足を止めた。それを感じて、マンハッタンカフェも足を止めた。彼女はアグネスタキオンの横顔を見つめて、そこに隠しきれない、願い、そして、そして? その先は彼女にもわからない。ただその問いは、路地裏の嫌に冷えた大気、それに輪をかけてひんやりと、周りの苔むしたような、独特の匂いも冷却して鼻腔を刺激するように思えた。太陽が雲に隠れたようで、さらに空間は暗闇を取り込んだ。男は今し方きた筈である道、二人が通ろうとした道を進んだ。男に何か、決めた意があることは確かであったが、それが何であるかは、男も含めて、ついぞ誰も知らなかった。この提案は、彼の口をついて出たものなのである。
自分が座ったカウンターの左で、運ばれてきた料理に幾らかたじろいだものの、一口の後には無心で食べ進める二人を見て、院長は木製のジョッキに入った氷入りの水を一口飲んだ。三人で入った滑落亭は、やはりエリカがいつか食べに行った時と同じような暖かな喧騒に包まれていたのだが、二人はやはり、エリカがぼんやりと感じたような、内々の全体意思、自分らを排斥せんとする胎動が自分の足に這ってきているのを知覚した。それでも店というものは、金と物体を等価交換と認めているために、金に対しては食事が出てくるものである。店員の不機嫌さは、折り紙つきではあるが。ただ、食事処というものはこう、独特な、当然だけれど、食べるための空気が存在するものである。
「……ごちそうさまでした」運ばれてきた丼もの──ハモロゲ丼、と院長は読んだ──を十分もしないうちに平らげて、二人は神妙に手を合わせた。米は期待していなかったけれど、タイ米のらしさを絶妙に生かしていて、一見すると適当に魚と目玉焼き、甲殻類の焼き身と香草香辛料を乗っけて、米国と日本国を折半したような情景を思い起こさせるタレでまばらに炊いた米を下に敷いただけの料理に思えるのだけれど、本当にその通りで、だからこそ美味に感じられる。
「君らの居た場所は知らないが、ここが出すのは良い。お陰で他のは長く続いていない」
「……あそこに居た輩と、本当に同一人物と思っていいのかな」
「その判断は君らに任せよう」
院長は意識して、笑むように心がけた。アグネスタキオンからちらと見て、それは全くもって修練の足りていない笑みであったから、貼り付けられた表情の奥に正反対の感情がたたずんでいて、自分はこう、ある計略の最中にぽつねんと佇んでいるのではないか、と
「そういう遺物も目録には存在すると記憶している……ともあれ、私の話位聞いてもらっても構わないね」
「……いただいてしまったからね」
男性はまるで水の入ったジョッキを、グラスにロックで注がれたジンをやけにするように飲み干した。その割に、コップを置く仕草は丁寧で、周りの温かい話声とも重なっていただろうけれど、とても静かだった。
「ウマ娘が、私は嫌いになってしまった」
何を話しているのだろう。そう思っていたのは何より院長の方であった。
どうやらこの世界には、本心というものが存在するらしい。例えば力が抜けた時にふと出る一言、首が締まっていくように感ぜられる、もう、もう、といったときの一言。いずれも本心である。ただ、その二つを同値で結ぶことは叶わないだろう。この言葉、それは今の院長の存在そのものであるけれど、それ以上ではない。しかし例えば、その思想が、ずっと癒着して、その為に生まれてきたと思えるほどこびりついてしまった、という仮定は、どうだろう。十二年くらい。
「あの医院は濁っている。濁らせたのは私なのだ」
「……」
二人は院長に顔を向けなかった。アビスへの行き方という言葉に二人は誘われたはずなのだけれど、この突拍子な告白を精神に、現実として受け入れる用意が出来ている……これは彼女らにとって、全くの不自然である。
「エリカを受け取るまでは、そう思っていなかったという過去だけが残っている……と、私は思っている。その後からずっと、私は十二年前の私への舵の切り方を忘れているらしい」
「それで助けてくれ、と言いに来たわけではないだろう」
「道が同じであったことを恣意的に解釈すれば、そうとも言えなくはない。つまり、否ということになる」
「読めないね」
「読める人間はそれまでの輩だ」
院長は水を飲もうとして、先ほど自分が空にしたことに気づいた。近くにいた皿運びを呼び止めて、もうひとつの木ジョッキを頼んだようであった。観察してみると、その応対のありようはその対象が自分たちであった時よりよほど人間としての機能を使用しているように見えて、しかし当の給仕はそれを知らない。そうしていよいよ謎を増していきそうな男性の話に、本当に男性は何らかの狂気に晒されたのではないか、と考えた。
「……小供というのは、実に有用な生体だ。活発であり、不確定要素の多さに目を瞑れば意識誘導を一番に行いやすい存在でもある。猿と赤子を同空間で養育した実験を知っているかね。猿は幾つかの単語を喋るに至り、赤子は文字通り猿真似を始めた……理解できるだろうが、多感であるということは多感のベクトルを操作されやすいということでもあるのだ。……身よりない小供を拾って探窟家にする役目を、あの医院が背負っていることは、エリカから聞いていると推察するが?」
「否定はしないね。であれば何が」
「あの小供らは贄だ。私が殺すようなものだ」
二人はあまり驚かなかった。ただ、納得があった。だからこそ、この男性は実際に年を取っているのだろうし、年を取っているように見えるのだろうとも悟った。次のことを喋ろうと院長はひとつ、深呼吸をしたけれど、そこに給仕が水をもってやってきた。その行動は、三人だけで囲まれた世界をぱっと広げて、雑多の中の一部分へと沈めていった。機を失うとこうも苦痛になるのか、と、彼は水を飲んで独りごちた。留置所に入れられた罪人の告白も、例えばこういったことで頓挫するのだろうか、とマンハッタンカフェは思った。これまで男の発言に何も返してこなかった彼女であったが、彼女は複雑かつシンプルな、水から酸素を抜いたような感情を持とうとしていた。
「……君と私は似るようだが、私は君になりたいとは思わない」
「当然だ。こんなものになるべきではない。余所者の君ならば不可能ではない」
「贄、と言いますと」マンハッタンカフェはしばらく空のハモロゲ丼を眺めていたが、ゆっくりと男の方を見た。
「そのままだ。白笛に受け取られている」
「──黎明卿に」
二人にとって、それは聞き馴染みのない単語であった。だがここで、後ろの方が動いたような気がした。群衆の中、そのぽつんとした点が一気に温度を下げてきて、自分の周りにとりついているようであった。そして、こういった比喩表現にはあまり例のないことであるが、それは事実そうであったのだ。
「黎明卿と言ったか、今」
少しハスキーがかっている、気だるげな女性の声。院長が後ろを向いたので、二人も後ろを向いてみる。
「否定はしない」
「ほう……小供らは元気かね。特にエリカとかいう娘は」
場が乱れたように錯覚した。院長は明らかに動揺していた。罪悪感はそれすらも懸命に押し隠して、平静を保たせていたけれど、ジョッキを持つ、そのの中の水は無視できない波を立てていた。さらに悪いのは、彼女はそれに気づいてなお、何もしようとしてこないことであった。そこには、ただ結果のみが浮いていて、ひとりでその消化のされどころを求めてさまよっていた。「引き渡しか」「あれはもう直ぐだ。じきまた連絡する」女性は素っ気なかった。
「この二人は」
「答えなければならないかね」
「是非そうして欲しい。出来れば借りたい」
「借りられるか否かは彼女らの判断だ。私は保護者ではない」
そうすると、その彼女は二人に双眸を向けた。どこかで見たような瞳である、と思った。けれど、記憶にちらつくものとは、まるで数十年前は彼女自身が記憶にちらついていたもの自身であったかのような、風化、癒着らしき成分を含んでいた。それよりも目を引いたのは、その大きさであった。遠く離れた(であろう)東京の地で、粗方の人間は見てきたであろうと自覚していたけれど、この人物は全くもって違う大きさを持っていた。つまり、背丈に加えて、精神が大きいのだ。これは彼女たちに、根源的な、逃避への本能を呼び起こした。前向きな後ろ向きの欲望であるとかは、こういう時、霞程も浮かんでこないものである。そして、実際に行動に移した。彼女に対して二手に、図った様に同じ時間点で別れた。双方ともに、初めの二三歩には命を懸けていたから、そこに信頼を置いていたし、やがて来る未来を疑いもしなかった。
事実は、一歩踏み込んだところで、片手で肩を捕らえられただけである。
「人の話位聞いても損はないだろう」彼女は無表情に、そう言った。
続きます。
p.s:院長が立ち眩みをしたそうです。