よろしくお願いします。
学びだ、と言いながら、彼女は五杯目のハモロゲ丼を空にした。対面に腰を下ろした得体の知れない人物の食べ方は食べる、と言うより、食べるという行為を行なっているといった、儀式じみた成分を構成に組み込んでいるらしく、まさに食行為であった。得体の知りようもない彼女により掴まれた、その掴んだ手はまるで二人の座標を固定するかのような圧力を有していて、半ば無理やり気味で女性の席に着いてしまった。座る時も彼女は、どっかりと座り込んだのだが、その動きさえも誰かの思想を受け入れて、深化しているような風格、重みが見られたので、覚えたことのないpressureのような、せめてもの強がりしか許されないような空間があった。
「摂らないのか。君らは大量の食事が必要と記憶しているが」
ごく自然に女性はハモロゲ丼を三つ頼み、当然のように二人の方へ器は並べられた。自分の分を見つめて、彼女らは不意に、実際に食べないだろうけれど、食べようとしない自分に、過ぎ去る時の風が吹いたような心持を覚えた。
「……貴女は、誰ですか」
「手近に素性を明かすべきではない。事実君らの周りには既に意志が渦巻いている。君は情報のやり取りに関して些かに不勉強らしい」
そう言って女性は、また眼下の器に集中しはじめた。中のものはきっと誰かに食べられるために生まれてきてきたはずはなくて、つまりはこのボウルの中には無数のエゴが詰まっているのだけれど、それでも食べなければ申し訳ないという感情がこびりついている。これはまた利己心である。
「すみません」利己心、と思った時、マンハッタンカフェはそう口にしていた。その羅列がどこに向かうわけでもなく、それを女性は読み取っていた。彼女は特段の反応を返さずに、上に乗っている目玉焼きをつぶした。料理をしている者が日毎に変わるので、日毎に、面白い時には頼んだ毎に目玉焼きの加減が微妙に変わっている。今回はきっとまだ見習いの輩が行ったようで、少し君の流体具合が高い。経験としてこういった卵を口に運ぶと相応に、腹のあたりに問題を抱える可能性があるのだろうと女性は察したけれど、気にせず口に運ぶことにした。何よりこれは美味なのだ。
「ともあれこの食事は良い。先人が食い納めていたことも頷ける」
「……他のものは食べないのですか」マンハッタンカフェは、こういったとき、食いつくのはいつもアグネスタキオンなのに、とまた思った。
「学びだ」女性は半熟気味の目玉焼きを崩し切って答えた。「先人からの学びだ。だが、
女は仏頂面であったけれど、そこに一つだけ周波数の違ううなりのような起伏を曝け出した。しかしそれは、絶対値をとって負符号をかけたものによく似通っているので、むしろ二人の場違いな共感を生み出した。女性が抑も探窟家の間で尋ね者になっているのか、それとも二人がそこはかとなく嫌われているのか、偶に贈られる視線は贈り物と言ってしまうにはあまりに無遠慮、好奇心的なものであったので、相変わらず騒がしい店内に三人だけの不気味なゆったるさがあった。
アグネスタキオンはスプーンで一口掬って、口に入れた。「……先も食べたが、やはり美味しい」
それきり口をつけられなかった彼女をまるで気にもかけないように、未知の女性は口を開き、閉じる。アグネスタキオンは控えめに湯気を立てるハモロゲ丼を見ながら、自らの肩を掴んだ
「
記録的かつ規則的なペースで丼を一つ片づけた彼女は、向き直った。その瞳は確かに思考していたアグネスタキオンを向いていたのだが、それを疑いたくなるほどに、その視線は暗かった。暗い話が好きなのだろう、と思った。特に、多分、生き死にの話であるとか。
「……話を聞いていた、というのなら、アビスへの行き方とやらを君は知っているように思える」アグネスタキオンは思考のベクトルを急速に舵切った。対面の女性は僅かに口角を上げた。
「ふむ。知っていないわけではない。無論あの院長も遠くない思案をしていることだろう」
「恥じたくないが私らはここの代をようやっと払えるくらいだからね。何も支払えない」
「金などは問題ではない。金とはあくまで等価交換の倍怪物であり、交換の本質を鈍らせている」
女性は空にした丼を、驚くことに淑やかな動作で置き、器と器が触れ合うことで鳴る優しい木の音を発生させた。これが彼女の本質なのだろうか、とマンハッタンカフェは感じた。何より、肩の痛みが引いていなかった。マンハッタンカフェは恐怖を抱いていた──これは、アグネスタキオンにも打ち明けていないことである。得たことによる、失うことへの怖さが彼女の中でひっそりと過ごし、棲みついていた。一度寝静まった部屋の中で、彼女は問うてみたことがある。その生物はどうやら、生き死には問題ではない、と答えたようであった。水の落ちる音がした。
「私たち自身……ですか」
マンハッタンカフェはそういった。何を観察しているかわからない瞳は、彼女の方を向いた。
「その不勉強さは貴重だ。時に正しく、時に間違っている。だが貴重だ」
彼女はそこで、手を組んだ。「事はそう難しくない。死人の笛を付ければ良い」
二人は露骨に表情を引き締めた。自分が探窟に赴く際身につけている、今は赤い笛。血の色をしている、と、突拍子にそう思った。無論、彼女はそう続けた。
「二層には白笛が常駐する監視基地が存在する。月笛は四層、黒笛は五層迄……実質的に、月笛の深度制限は彼らの臆病心と性善説に支えられている。蒼笛ならば一層でも死体が見つかるかもしれないが、しかし蒼笛はどこかの集まりに所属していることが多い。死体は彼らによって回収され、笛は加工されまた再利用される……だが月笛、黒笛には単独行をする者も少なくない。見つからない死体は当然放置される」
口を開こうとするアグネスタキオンを、彼女は水のひと飲みで制した。「行けない、そう言いたいのだろう」
「私は君から見て分かりやすいようだね」
「君の方が素晴らしいと思っている」女性は少し目を瞑って答えると、偶々後ろを通りがかった給仕の赤笛を呼び止めて、何かしらの肉らしきものと何かしらの野菜らしきものを混ぜ合わせた何かしらの料理らしきものを頼んだようであった。学びだ、と彼女は言った。そこには時間があった。
「……我々は月笛、黒笛のそれを幾つか所持している」
同時に器を下げてもらったらしい女性は少し手持ち無沙汰に指を弄ったが、彼女もう一つ息をした。──きっと、すごく残酷なことになる。アグネスタキオンはエリカの言葉を思い出して、それはひとりでに過去のものとなっていて、今現実であるように思われた。今アグネスタキオンを取り巻いているもの、それは日に日に異様になっていって、絶えず耳を澄ましているようであった。分からない、ということに対して彼女は恐怖でなく、いや、その恐怖を楽しんでいるような精神性をずっと抱えていたのに、その奥にあるものに触れられているようだった。擽られるように笑っていた。
また水を一口飲んで、彼女は二人を見る。円形のテーブルに、彼女らが座っている。対照的であるかと思えば、自然に似通っているし、しかしやはり何もかも違うように思われる。彼女はエリカのことを思い出した。すっかり変わってしまった彼女に、義務的に失望を押し付けたことをよく覚えている。
変わったのはどちらなのだろうか、そう女性は考えた。女性にとって、エリカとこの眼前の二人が同じくつるんでいることは予想だにできないことであるから、この考えの皮をはいだ先にある腐った蛇のような皮肉さを、彼女は捉えられていない。ただ、こういう時、往々にして自分の範疇で理解できるものは知れていることを、彼女は学びとして知っている。
「何かに協力をしろ、とでも」
マンハッタンカフェは彼女の瞳を見た。そこに一片の絶望を見て取った。絶望を糧にして生きているのだと思った。政治であるとか経済であるとか、謂わば人間の理性的な部分が滅び去ったとき、そこには
「そうだ」
「我々の探窟隊についてくること、それが条件だ」
彼女はそう言って、それきり口を閉ざした。給仕の、今度は蒼笛の者が頼んだ皿を持ってきたはいいが、ひゅっと喉を詰まらせたかと思うと、かろうじてそっと皿を置き、逃げるように去っていった。ゆっくりと切り分けて、彼女は食べていく。
「白笛は基本探窟隊を持つ」三割ほど空にしたところで、彼女は口を拭った。「物資、技術、遺物……我々はそうして大穴を生業にしている。
「解き明かす、ですか」
「そうだ。実験に加担してもらう代わりに、衣食住が保証される」
「……その、実験というのは」アグネスタキオンは言った。
「機密だ。他の隊も同じ事を言うだろう」
受け入れてくれるのなら、吝かではない。女性はそう答えて、一口料理をほおばった。
のるかそるか、そういった問題ではあるけれど、それだけの問題ではない。アグネスタキオンはそう思っていたし、マンハッタンカフェも無論そうであった。のったところで、そったところで、ありきたりの範疇で収まる事はない筈で、二人は事実そのような陳腐さを求めてはいなかった。それを求めているとすれば、きっとその最期にある。尊厳を嬉々として棄却されて、その結果ボロきれより酷い有様で終わってしまうのなら、別にそれでも構わなかった。ボートに乗っていた彼彼女らは、きっとアグネスタキオンを憎んで沈んでいったから。
マンハッタンカフェが徐に、アグネスタキオンの腕を掴んだ。「だめです」小さく、その声は掠れていた。内包する意思を、感情を、押し出していた。理由を聞こうとする彼女の口は、掴む手の震えによって沈黙を促された。
何もかもが、許されません。きっと。耳元で囁いた彼女。そこに理由を求めることは、単純に無粋な事であった。そこに理由がないことを、二人とも知っていた。
「──断ろう」彼女は息を吸って、その後に言った。
「入れ知恵は好ましくないな」
「どの道輪に入るのは性じゃないのでね」
それに、と彼女はつづけた。「笛には名前の刻印があるのだろう。死体のでは誤魔化せまい」
「……」
アグネスタキオンの額にはジワリと、汗が滲んでいた。放たれた言葉が返ってこないことは、この空間のいかに巨大で、空虚であるかを植え付ける。そういった、彼女なりの配慮を悉く清々しく無視することを主張したいのか、女性は大ぶりに肉に噛みついた。
「良い記憶力だ……
「今日……、卿か。物騒な一人称じゃぁないか、全く。英断だと思うよ」
アグネスタキオンは口の回りが速くなっていることを認めなければならなかった。今まで身に受けてきた、自分の原子団の一つまで否定されるような空寒い恐怖ではなく、全く別の、形容し難い戦慄を覚えていた。多分に、肩を掴まれた時から。最初は目の前の彼女が、その巨大な、粘液質に似た意志を孕んでいると思っていたが、むしろその一介を担う手足、さらに形容するならば合わせるための手……。
「君も少しばかり、営業の努力をすべきだと思うね。そこらの言葉で動かされる気はないけれど」
「……ふむ」
その、隣に居るウマ娘は、つまり。女性は尋ねる代わりに、木製のジョッキを傾けた。不合理な連中である、そういった感想が、彼女なりの評価であったといえよう。
「君……君たちの目的は何だ。私たちを使って、何を」
「──目的か。そうか、目的か」
目的というその二文字は、彼女の、心と呼ぶことすら忘れた心臓? に呼びかけているようであった。
彼女は今日、無闇矢鱈、または単純な娯楽の為だけにここに来ているわけではなかった。この昼食を終えたら、外郭に居る、笑いが少し気に触る大男の所まで足を運ぶ予定であったし、この二人が入ってくるまでは、目の前の食事、ひいては少し前に顔を合わせたエリカのことを考えていたのだけれど、言うなれば偶然がそれを打ち破った。
「我々に目的などないさ」
少なくとも、私には。
「多くの探窟家は白笛を、アビスの謎を紐解くことのできる兵器のように扱っている。物資、技術、遺物、それらを使用し、
「多くの探窟家は金を生き甲斐とする。金という目的の為の手段として探窟をしている。しかし中には我々のような、どうしようもない輩も居るのだ。十把一絡げの口にする「手段」の為なら、我々は目的を問わない」
我々はただ、探窟を望んでいるのだ。特徴的だが静かな声は、特異ない状況では順当に埋没して、どの声が先か後か、といったことも思い出せない群れの中に押し込まれる。だが逆説に、彼女たちは声を聞いてしまった。この代替できそうにない、ゆったりとした、それでいて妙に根底の力強さを思わせる、少しハスキーな声。暫く忘れられそうにないな、彼女たちはそう思った。
「無理に強いることはない。それが卿の意思だ……しかし、どうやって行く」
「私たちがなぜ奈落に行くと決めつけるんですか」マンハッタンカフェは不機嫌そうに手のひらを握った。アグネスタキオンははっとしたように彼女を見つめた。
「確信だ」短く、黒い返答だった。自我を持った機械のようであった。「加えて言うならば奈落ではない、
もしかしたら相手は人間ではないのかもしれない、と、二人は思いついた。もしかしたら目の前にはさんざ想像してきた巨大で、流動的な首輪の一端が顕現していて、自分らはそれと対話し、何かを吸われているのかもしれないと考えたけれど、目の前の人間──人間と、本心から彼女らは信じられずにいる──には、独立した考えがあって、思想があって、それでもなお一つの願いを共有しているように見えてならないので、二人の精神に巣食っている粘着質な重みは消えない。それは飲むのを忘れた水の、それが引き起こす喉の渇きで現実に湧き上がっている。
そう考えると、そのどの辺りに、自らを堰き止めるものがあるのだろう、といった、衝動的な妄想がアグネスタキオンの中に湧き上がってきた。アグネスタキオンの精神は複雑で、マンハッタンカフェの精神はきっと複雑を忘れてしまって、魂と何もかもが食い違っている。それをそのまま受容してやろうという、一種の天邪鬼。または、暴挙。
「走り抜ければいい。私たちはウマ娘だから」
それはアグネスタキオンの肉体、精神、魂。何れが生み出したのか、わからない。ただいずれにせよ、これが分岐点だった。
沈黙で答えた彼女は徐に、テーブルの下を
「どのみち君らはアビスに来るだろう。我々は下で待つ。次は良い返事があると期待している。君ら自身にも、期待している」
服を纏い、マントを羽織り、手袋を嵌め……笛をかけ、マントを羽織る。声の質が少し変わったように思われた。左上と右下にレンズがあしらわれ、真ん中からは布が垂れている。奇怪な見た目に見えるのだが、どうにもそれ以外の形を忘れてしまうような、そんな造形だった。三人を取り巻いていた微粒子、原子団の流れが、致命的に変わっているのを二人は認識する。それはきっと、この装備が彼女が奈落に赴く時の服だからだ。有り体に言ってしまえば、アグネスタキオンにとっての、あの手のひらまで覆う白衣。マンハッタンカフェにとっての、友人を想うが如き黒衣。
もはや雑音は無くなっていた。世界は三人だけのものとなり、それ以外は全くの凡百でしかなかった。
「ギャリケーだ。黎明卿『新しきボンドルド』の探窟隊、
君らも、学んでいるのだからな。彼女はそう言って、また徐に装備を取り始めた。見渡した観客の幾らかは、やれやれと首を振っているように見えた。
「……ごちそうさまでした」
「代金はこちらが持とう。こちらから言っておく」
彼女なりの事の収め方に、二人は預かることにした。二手に分かれるでもなく、肩を掴まれることもなく。
ただ、彼女ら自身の想像にもない螺旋への火蓋だけを切って。アグネスタキオンは、マンハッタンカフェは、滑落亭を出る。
続きます。
あことまとプリステに出ます。