初老の男性は滅多になく、朝の遅い時間帯に目覚めた。
毎日のように阿呆らしいほど長時間探窟に行く莫迦なウマ娘どもがいる、と聞いてから、それとなく、組合の奥から、彼女たちを見ていた。興味があったという、ただ単純なそれだけの理由であった。ウマ娘の探窟家は、彼の生きる限り四例目だったからである。彼女らも変革していって、その隠しきれない純粋さが現れているように見えた。それは彼にとってあまりに眩かったために、目を擦った程である。
彼女らは今日も探窟に行くのだろう、と思った。いつかはそれで帰ってこないのだろうと思った。せめて彼女らが満足してその旅を続け、終われるよう、彼は願った。
「私たちを殺してくれる、そんなことが、浮かんできたのは本当です」
探窟組合の二階には、少しばかり資料を閲覧できる場所がある。ざっくりとした探窟史であるとか、遺物目録の公式版であるとか(男の持っていた姿形のものは、残念ながら見当たらなかったようだ)が急拵えかのように並んでいる。その先には小さなバルコニーが突き出していて、適切な湿度を持った当たり障りのない風が吹いている。組合の周りに生えている木には少しばかり虫が棲みついているようで、いくつかの、生命の鳴き声がある気がする。最中コツコツと二つの音が鳴って、アビスを見下ろしていた。朝であった。アビスを上から見ることはもう無いのだからと、二人をここまで導いたのはやはりエリカであった。ついてこないのが、また君らしいな。アグネスタキオンはそう言って、エリカの頭に手を置いた。
「実際、そうだと思うよ。昨日は気持ちがどうにかなっていたんだ、私は今私欲を優先するべきひとではない」
まるで高熱にうなされているようだった。アグネスタキオンはその後に小さく形容した。全てがスロウになったり、ファストになったりする、そして自分が止まっている中で、どんどんと物事が進行していって、一日後の時間に何も変わっちゃいない自分が置き去られる。
「……タキオンさん」
「なんだい」
「綺麗ですね」
マンハッタンカフェは下の絶界を見下ろして言った。そこにはなぜか、薄く雲のようなものがかかっていて、そのような高度ではないのに、まるでその区画だけをキャンディ・タワーのようにくり抜いて、別のものを差し込んだようであった。アグネスタキオンには反論の余地がなかった。どうしようもないほどに美しかった。冒険、という言葉が浮かんできた。その思考を、すぐに振り払った。青緑色の気配がした。
「あぁ、綺麗だ。それも、とても」
二十三人。奪った命の数を数える。恨み言、涙ながらに握られる手、閉じられたまま開こうとしない目、それらは全て、絶え間ない悪夢となって彼女の寝込みを襲ってくる。彼女自身の、狂えなかったことで引き起こされた煩悶であった。マンハッタンカフェはそれをよく知っていた。
「なぁ、カフェ」
「はい」二人とも、目は合わせなかった。
「私は人殺しだ。よくわかってる。微かな希望と、ありったけの憎しみを私に贈っていったんだ。だから失ってしまった二十三人の、その少しでも気が済むのなら、どこまで酷い有様であろうと……それは私が、今居る意味である、と思う」
「けれど、これはなんだ。私はそこまで、ひとであることを許容できない、化け物なのか……」
アグネスタキオンの右手は心臓部を掴む。そして彼女の精神の中で、その右手は心臓を掴み、
「……論理的に正しい、というのは、その論理性が仮定されているからです」
その言葉は、数分の間を要した。つまりその間に、マンハッタンカフェは彼女の心臓を賞味していた。舌で転がし、よく味わって、その言葉を生み出していた。
「私たちは、多分、私たちが思っているよりずっとか弱い存在なんです。変わらないことなんてできない。変わり続けることなんてできない。それで、多分、その最中で死んで、それで……」
彼女の左手は探し求めるように動いて、アグネスタキオンの指先を触れさせた。それで十分だった。
「タキオンさんがどんな結論を持つのか、私がどんな結論を持つのか……わかりません。けれど」
「私は、少なくとも、今の私は、貴女についていきますから」
──悪いねぇ、君はいいひとだなぁ。
しばらく二人はアビスを見つめていた。二人の手は繋がれたり、離れたりした。大きな形は全く変わっていないのに、瞬きごとに違う様相を見せるアビスは、きっといくつもの何か、例えば祈りであるとか、怨嗟であるとかを飲み込み、吐き出し続けているのだろうと思った。一体どれほどなのだろう。億か、兆か、それとも……
そこで二人は踵を返した。最後に強く、互いが互いの手を握った。
装備を取りに部屋へ戻った時、そこにエリカはいなかった。直前までエリカが存在していた空気を残した部屋は、その消失を必要以上に掻き立てた。当然のように二人は焦った。そのタイミングで目に入るような絶妙な場所、つまりある程度踏み込んだ机の上に、あまり良くない紙に書かれた文字群があった。
『私のことで心配があるようでしたら、ごめんなさい。生きている、と思います。……私がその部屋にいたら、多分、お二人を止めてしまうと思います。アグネスタキオンさんと、マンハッタンカフェさん、には、どうか、安らかに、旅を初めてほしいのです。ごめんなさい。さようなら。お元気で』
その言葉は全くの、奈落文字であったから、二人は一文字たりとも読めない。彼女が文章に込めた、幾度も書き直そうと試みた形跡も、削ぎ落とした感情も、何もかもが伝わらない。だけれど、文章以外の、全てが鮮やかに、彼女の姿をホログラムで投影する。最後に二つ、
彼女らしいな、と二人は結論づけた。それ以上の感想は、きっと彼女への冒涜にあたるという確信があった。装備を整えて、彼女たちは宿の外に出る。二度と帰らない住処を振り返って、静かに、無言で別れを告げる。たどっていくいつもの道も、きっともう、と考えると、全くもって悪くない街並みであったなと、ノスタルジックに、あるいは後の心を傷つけないように思われる。ほぼ探窟家しか存在しないこのオースという街は、彼女らにどういったことを与え、奪ったのだろうか。それは紛れもなく、選択肢。それでしかない。
「アグネスタキオンとマンハッタンカフェだ。通してほしい」
瀑布式ゴンドラの使用許可証は、二人がここ一か月で手に入れた最も大きいものだと言っていい。何せ彼女らは結果を持ってきた。運動能力と探窟時間にものを言わせて、トントン拍子に駆け上がってしまった。他探窟家は彼女らを明確に嫌い、避けていたから、彼女らにその自覚は、当然にない。リストを確認し通行を許可する人員も、顔をすさまじい形に歪ませている。
「いよいよ、という言葉は、少し適切ではないのでしょうか」
探窟の装いに身を包んだマンハッタンカフェは、同じようなアグネスタキオンに声をかける。「だろうね。これは自然な結果さ。我々の選択結果だ。全くもって、甚だしく、我々は運命の坂を転がり落ちているに過ぎない」
二人はゴンドラの中心に立った。音を立てて鉄網の一部分が閉まる。今日は快晴であって、非常に良い風が吹いている。遠いどこかで、名前も分からない鳥の声が鳴いている。獰猛な、野生の響きである。
「そういった運命論は、嫌いだったのでは」
「嫌いさ。だからそれに身を委ねていた」
ガクンと音がした。巻き取りの装置が作動した音だった。地上に面していたゴンドラはゆっくりと、確実にその高度を落としていく。手に取った深度計は小さな音を立てて、微小に針を動かす。奈落文字の読み方を、せめて数字だけでもとエリカの勧めで彼女らは暗記した。
始まる。始まってしまう。それでも、彼女らは上を見ない。
「私は……どうでしょう、まだ少し、嫌いかもしれません」
「集団意思は個人に分解できるか、それだけの話さ、本質は変わらない」
「──つまり、こんなものは、要らない、ってことさ」
そして図ったかのように、二人合わせて、赤笛を空中に放り投げた。ゴンドラの鉄格子の隙間をするり抜けて、それぞれが放物線を描いて、みるみるうちにma=mgsinθに従って速度を増していく。やがて終端速度に達して、煌めきもしない点の一つになって、どこかへ消えてしまった。
かわっているという自覚が、アグネスタキオンにあった。それはどうしようもないのだと、ある種彼女はあきらめた。それで善いのか、悪いのか。その問題は善悪のパラメータで評価可能な問題なのか。
ただ、彼女は現実を見た。期待に塗れた自分を見た。変えようのない今を見た。変えようのなかった今で構成された過去を見た。選択のある未来を見た。
「一つ、行ってみるかい。命を握り潰す旅ってやつに」
アグネスタキオンは笑った。その心臓は、命は、きっと美しく高鳴っていた。
「……たまにはご飯、作ってくださいよ」
マンハッタンカフェは笑った。結局自分が全部作ることになる。それくらい知っていた。
肉体と精神しか残さなかったひとりと、魂だけのひとり。きっとまだ、同じ方向を向ききってはいないけれど。
アビスは、アビスであるというだけで人々を惹きつけ、喰らい、そして廻る。彼女らの生が松明に
ゴンドラの音が鳴る。二人は墜ちていく。
それでも、アグネスタキオンは、マンハッタンカフェは、上を見ようともしない。
「……で、その二人、頭になんていうですかこう、獣耳?があってですね。尻尾もあって、あのギャリケーとぺちゃくちゃ喋ってたモンですから……多分、ありゃすぐここまで来ますよ、間違いなく」
深界二層、誘いの森最深部、
「そうかい。……まなんだ、お前さんも帰ってきたばっかりなんだろ、ついでに飯でも食ってきな」
「いや、一応その飯……俺が作ったんですけど」
「おやそうかねテル。悪いね、全く歳になると物覚えが悪くてねぇ」
テルと呼ばれた男性は何と返答して良いか分からないといったふうに頬を掻いた。まぁ、結局俺のも焼いてきたんで、取ってきますよ。そう言って彼は厨房に姿を消した。
「何だい、冷める前にとっとと食っちまうのが得だろうに。……ま、好みってもんかね」
彼女は流体的な仕草で肉を突き刺す。そして頬張る。咀嚼して、飲み込む。その一つ一つに、そう、圧がある。ライオンの食事を邪魔するような存在──実際には存在するかもしれない──を思いつきづらいのと同様に、彼女の食事には近寄りがたい何かが存在する。それは彼女自身の生来からの経験によるものか、それとも彼女に埋め込まれた遺物と、首にかけられた
「
彼女は自虐的に笑った。その笑みは、人がいないこともあったのだろうけれど、口の端から端まで裂けたような笑みだった。木製、というより木の中にある部屋の中で、彼女は限りなく不釣り合いに見えるはずなのに、現実として彼女が首を鳴らし、数多の骨を響かせて立ち上がる様は全くの自然であるように思われるのだ。
「会ってみたいねぇ。どうだろう、あの少年ぐらい耐えてくれると嬉しいなぁぁ」
──白笛の一人。果て無く生き続ける、
不動卿、動かざるオーゼン。
望遠鏡が、ゆっくりと焦点を探している。
一巻はこれにて終了です。読んでいただきありがとうございました。
私用の後9/17にメイドインアビスオンリーイベント[あこがれがとまらない16層目]、9/23にウマ娘プリティーダービーイベント[プリティーステークス31R]に参加しますため、遅くともその後に二巻を始めたく思います。
気長にお待ちいただけますと幸いです。