第二章です。よろしくお願いします。
1:巡礼──深度780m
例えば不死の吸血鬼が百体、群れを成して襲ってきたと仮定する。一体を丁重に葬るために、法儀礼済みの
美しさ、とりわけ危険なもの、それらをありありと感じ取ったのは、二人が口に出すまでもなく共有している事実であった。ゴンドラの扉が開いて、二人はとびきりの速度で駆け出した。彼女らにとって、道の傾斜角が負であること、ただそれだけが道筋を決める全てであった。
「……水、ありますか」
「川の音がする。貰ったって損は無いさ」
彼女らはなんということのない地面にへたりこんでいて、そこには影がさしていた。距離にしてここまでは、三キロに満たないのだけれど、これまでの魅惑的な傾斜が彼女たちを疲弊させていた、つまり、彼女たちは少し表情をゆるめていた。そうですね、とマンハッタンカフェは自分のバッグに入っている、満タンの水筒を思い出した。その次に脚を見た。まったくもって、先程のあれこれをもういちど繰り返しても問題無さそうであった。きっとそれは、アグネスタキオンに聞けばドーパミンの受容体が、エンドルフィンとアドレナリンの鎮痛作用が、などと言うのだろうけれど、それでいい。自分は、きっと、これをスピリチュアルに受け取ることが義務なのだ。そう考えて、彼女は四、五分、目を閉じた。アグネスタキオンはそれを見て、リュックの留め具をあけ、ボウルを取り出すと、一つポジティブなため息をついた。微かに音のする川に向かって、木々のより多く生える方に向かっていった。
危険なものほど美しい、というのは、とてもよく囁かれている、美しいものへ対する僻みである。マンハッタンカフェにとって、それは多い、自分の作品を無に帰しているような繊毛の多さを物語っているのだろう、彼女は薄く目を開ける。影がかかっているのは、せり出している岩によるもので、いまだ
持ってきたら水を沸かさなければならない、と彼女は考えた。そして動こうとして、動いた、そのとき、彼女は全く、先の、蟲の這う感触を予想していなかった。そこそこの枝が左の方、アグネスタキオンの向かった場所に落ちていて、少し散策していると、とても手軽に必要なぶんを見つけることができた。火打石をリュックから見出して、彼女は手軽に火をおこす。ここが彼女の、アグネスタキオンと違うところである。小さい鍋を持ってくると、金属製のブロック──中がくりぬかれていて、とても軽い──をふたつ置いて、その上に、置く。一連の動作は、この辺りでアグネスタキオンが水を取ってきてくれると思っていたために行われていた。そこから、彼女は彼女の中で数時間を過ごした。
「おや、準備がいいね」
成程、確かに彼女は水を入れてきた。水産資源はここを目途としているらしいから、凡そほとんどの場合飲めないということは無いのだろうけれど、日本の水はどうやら、聊かきれいが過ぎるらしい。アビスの中に公衆便所などというものは、残念ながらないと彼女らは思っているので。「一応、ですから」
「まったくそうだ。ま、どうせ水筒の水も変わらないだろうから、その時に試せばいい」
小ぶりな鍋の中に注いで、二人は時間の経過を待つ。それは海上で、救命ボートの上でとてもよく開催されていた、一種の儀式である。最初、それに二人は気づいていなかったのだけれど、片膝を曲げたアグネスタキオンが火の揺らいでいるのを見つめていると、数分経って、水面がやがて湯面となりそうで、フラッシュバックする。そこでとうとう心臓は平静に戻って、重みが増してくる。
「私にはもったいないなぁ、きっと、ここは」
アグネスタキオンが呟いた。マンハッタンカフェは彼女の方を向かずに、鍋の下の火を見つめている。
「きれいだ、とても」
「とても」
「そう、とても」
ここは高々、深度五百メートルだから、少々の嘔吐を背負えば引き返すことが出来る。アグネスタキオンはだんだんと、気泡の生み出される湯の音を聞きながら、だけれども、それはない、と考えた。彼女の中で、理由は無く、しかし構造体がある。彼女は少し大きめな呼吸をすると、ぼぉっとしているマンハッタンカフェ、その首元に手を伸ばす。その行為はとても自然で、彼女がアグネスタキオンの方を向いてきたので、ようやっとそれに気づいた。ぴたりと止まった後、力なく腕が下がった。
「構いませんよ、私は」
「ま、先でね」
しばらくして、水は煮えたようであった。コップにとって少し冷ましても、それはやはり少し硬い。二人は苦笑した。
「あぁ、魚でも捕まえればよかったな」
ボウル一杯分の水は思ったよりも早く消費された。そういえば、結局朝は何も食べていなかった。なんだか随分遠い処まで来てしまったという、その言葉は現実味を失っていて、彼女たちはひとりでに、上を見上げていた。なぜだろう。なぜだろう、だけが彼女たちを取り囲んでいる。正常な判断が失われていき、奇妙な発想は燦々と輝いているように見える。あと、数分だけここに居たいという気持ちを、無限回繰り返すと、果たして。彼女たちはうごきだして、道具を片付け始める。再び出立するのに、さしたる時間はかからなかった。
彼女たちは認識していないことだが、彼女たちの通る道は本来あるべき舗装の一切をされていない。ここ二百年、特に大きなインパクトを持つラストダイブを皮切りに、アビスは変容、その加速度をぐんぐんと上げられていた。赤笛の年間死亡率が大方一パーセントを超えるか超えないかまで抑えられたのは、この一層の舗装計画が主な二つの原因、そのひとつを担っている(それまでは五パーセントほどであった)。例えば赤笛の探窟は指定箇所以外禁止されていたり、その辺りの安全措置が講じられたのも、今に始まった話ではない。二つは単に、人が少なくなっただけである。
ただ、この舗装、というのがよくない。それが人間から見ると正しい試みであることを含めて。
二人は、水を汲んできた川が上流に近いと判断して、川下に下ることを検討した。漁業をしている者たちにそれを見咎められると、またあれこれ走ることになるから、取り敢えず傾斜が下になるように進んでいく。途中、ウサギによく似た無害そうな原生生物の群れに出会ったきり特に特別なことは無く、彼女たちは行動食四号をひとつ消費する羽目になった。一匹くらい狩ればよかった、とアグネスタキオンは言ったけれど、マンハッタンカフェはまた何も言わなかった。
「食べられるもの、把握しておかないといけないね」
「ええ」
夜になって、一先ず平らなところ、夜行性の生物のいなさそうな、かといって、鳥の視界に入りづらい処、そういった場所を彼女らは探した。被る帽子の石灯を光らせたはいいものの、それに惹かれてやってくるものも否定できないと、結局はただ平らなだけの、何ともない場所に腰を下ろした。誘いの森とも呼ばれる二層に近づくにつれ、やはり木々の群生率は上昇していた。
「えぇと、なに」
また火を起こして、行動食四号を口にする。石灯の明かりを丁度字が読める程度に調節して、彼女は用具をそろえる一環で買った『原生生物・植物一覧』について、その文字を読んでいた。リュックの端にそっと詰められた一覧表(記憶に残るエリカの筆致と似ている、とマンハッタンカフェが言った)が、縦を五文字、横を十文字の体で書かれていたことに注目したアグネスタキオンが、試しに日本語の五十音に対応させてみたところ、本当に意味が通ってしまった。笛の刻印として刻まれた彼女らの名前も、その方法で読めてしまったので、ここが何処か、という点でますます彼女らは思考を悩ませた。
でも。マンハッタンカフェはそういった。関係、ない、とおもいます。火が燃えていた。燃やした後から木を放り込んでいないから、もうすぐに消えてしまうだろう。そもそも、何のために火をつけたのだろうか。彼女はアグネスタキオンの開けた本を、手を覆いかぶせて、そっと閉じた。しなだれかかるようにして、まるで接吻をするかのように近づいた。
「今日は、寝ませんか」
「君は夜が好きだったと思うんだけれどね」
「夜に寝るのが好きなんです」
「そりゃきみ、当然じゃないか」
言いながら寝具を持ち出す彼女らは、当然、それが諸々の先延ばしであることを自覚していた。マンハッタンカフェは危険を察知していた。実際のアグネスタキオンがそうであったか、それは確かめようがないけれど、彼女の中の予測は、何かを生み出さんとしていた。彼女から見たアグネスタキオンは、彼女が思うアグネスタキオンでしかない。それが彼女にとって、純粋な苦痛を呈している。
アグネスタキオンが笑ったので、彼女も笑ってみた。
しあわせだな、と、マンハッタンカフェは思った。
その翌朝、彼女たちはとうとう、生物を捕獲した。生命を奪った。出立してしばらくした後の、草木の密度が増えてきた辺りで、ツチバシ──羽がとても大きい鳥で、何かと体の全てが便利である──の巣を見つけた彼女たちは、ほとんど本能的に、マンハッタンカフェが支え、アグネスタキオンが木に登った。結果としてツチバシはアグネスタキオンをつつき、捕獲どころではなくなったのだが、いくらかの卵を手に入れた。幾時間か歩き続け、彼女たちの深度計は凡そ八百メートルを指している。
「どこかで、丁重にいただかないと」
「茹でれば、なんとかなりそうですね」
彼女たちはまるで航海をしているような気分だった。地面がしっかりとした安定をもたらしている筈なのに、どこまでも続いているのではないか、と感じられる錯覚。それが主に、アグネスタキオンの敬虔たる部分を穿っている。自分たち以外の探窟家に遭遇しないまま深度を増していくことが、マンハッタンカフェの思う危険さ、そのにおいをより一層、そう、深くしていた。
──。彼女は命を奪ったし、いま、命を奪った。それは彼女にとって既に事実であった。仕方のないこと、そう片付けることはとても容易い。喉元に
「もう戻れないね」左を向くと、アグネスタキオンは哀しそうに手に持った卵を見つめていた。「ええ」そこから、二人はしばらく話さなかた。どこまでも行ける筈なのに、きっと終わりがあることを望んでいる、そんな、広い想像と反転して、二人の精神は視界をぎゅぅっと狭めていく。規則的に歩んでいくから、ゆっくりと傾斜のある地面を降っていく。木漏れ日の密度が増していく。
エリカがここにいるかのように、アグネスタキオンは、きみ、と話しかけた。そこで高まっていた光の密度の、急速に埋め尽くしていくのを受けて、二人は手をかざした。そこには人の死体が在った。ほとんど骨だけになった全身の所々にはこびりついた血が残っていて、頭蓋の少し、皮の張り付いているのを見る前に、彼女たちはそれを人だと悟った。石灯を使った帽子やリュックのないのを見るに、探窟家ではないのだろう、ということが思われて、まず大きなひとつの動悸が、二人を握りつぶした。あろうことか、その死体に近づいた。風化したふうではなくて、つまり原生生物に襲われたことを示唆している、それをよく彼女たちは知っている。衣服のポケットを
「……」
彼女はマンハッタンカフェの方を見た。これはとても良くない──
「……開けてみるかい」
「タキオンさんが開けるなら」
ちぐはぐなやりとりを経て、結局そうなった。中には紙と重しのみが入れられていて、やはり奈落文字で書かれているようだった。その紙の持つ手は、やや震えていた。昨日しまいこんだ一覧表を手に取ると、アグネスタキオンは少し浅くなった息で、手紙を読み始めた。
続きます。