今読んでいる文章を、目の前にいる死体が書いている、という現実は、感覚となって、アグネスタキオンに理解のし難い震えを促した。彼女は何度も読み間違えた。何かを書き足すことは憚られたから、自前の紙切れに一文字ずつ記していく……これが難しい。小鳥が泣いていた。その雫の落ちる音、それが彼女たちの世界の矮小なことを訴えている。
『──これを読んでいる人が居るなら、どうか、これを奈落の底まで放り投げてください』
『私が、生きて、死んだこと、ルシエという姉を持ったこと、きっと姉さんのそばにいることを、ここに記します──』
「『アリシャは奈落に還り巡る』……」
そこまで記して、アグネスタキオンは手紙に刻まれた文字をゆっくりとなぞった。このとき、とんとんと人差し指で叩くのが彼女の癖であった。それを見てマンハッタンカフェは、彼女が生来の落ち着きをはや取り戻しつつあるのだと考えた。ずっと同じ文章を、目で追って読み返している。奈落文字のまま。そこから意味をとることは、もちろんある。彼女が見ていたのは、その筆致であった。
──奈落に還る、還り巡る、か。
定かではない、ここは彼女も認めているところであった。ただこの、一文、これがとても、丁寧に書かれていた。このアリシャという人物。この人物は、決して死ぬつもりで書いたのではなかろう、その証拠に、ここが綺麗なのである。直前の彼女──もしくは彼──はまず狂乱していた。自分の腕をペンで掻いたやもしれない。この紙はもしかして七枚目かもしれない、全てが否定できない。きっと時間を置いたのだろう、その何か、うねり、それに身を任せてこの言葉を書くことをアリシャは拒んだのだ。奈落に還り巡る、その文字列をもういちどなぞって、彼女は急に、その文字列が見ていられなくなった。跡形もなく引き裂いて火にくべてしまいたいと、欲望が彼女の背中から抱擁している。横腹から肉体を透過して、感覚が上昇している。それを鎮めるのが、マンハッタンカフェの役割であるとも、今は言える。
「行きましょう」
「っ、は」
「もうすこし、良い場所がある筈です」
彼女はすでに撤回を完遂していた。自分に対する嘘が得意だった。アグネスタキオンは彼女の感触、それをよく覚えていて、いましがた水面に浮上してきたように息をした。頬の辺りを伝っていた汗を、隠すように拭って、彼女は立ち上がった。頑丈な支えというものに、それは欠けていて、また崩れ込んでしまった。
「……酒でも、あればいいんだけどなぁ」
彼女は乾いていた。だからその笑い声が乾いていた。先の隠した雫一滴が、自分の全てであるような、そんな想像にとられて、彼女は舌を出し、指を乗せた。足が体から分離したようであって、生来、こんなことはなかった。そのぶん指先は鋭敏で、伸びた爪が、軽く突き刺さった。結局、マンハッタンカフェはこの場から離れることを主張して、アグネスタキオンは動けないので、そこには滑稽な一悶着が存在した。接吻が一回あった。ごく自然な成り行きであった。
封にした手紙はリュックに仕舞われて、機会をもって投げ入れることにしよう、とまとまった。小一時間して、二人は歩き出して、やはりまた緑の多いつくす場所へと含まれていく。だんだんと暗くなっている。
原生生物と呼ばれているアビス内の動植物は、長年にわたる探窟家、探窟隊の調査にも関わらず、その不可視な全容を広げ続けるのみである。多くの探窟家が相対するものについては、彼彼女らの中で安全か、危険かとか、どっちでもないから取り敢えず避けておけ、とか、その辺りの指標を集めて、図鑑のように伝えていく。やがてそれは公的な機関となって、確かに確実性、種類を増したことは喜ぶべきことであるのだが、全くそうもいかないのが面倒臭いところである。美しいところなのである。
彼女らが罠にかかったのは、グログサと呼称される群生体であった。灯籠のように素朴で、明るい花部を持っている。地中に潜んでいる、群れ全体で意思を統一しているのである。口部、口腔内が踏みやすい土のような感触になるよう発達しているために、光によって誘われた生体は口腔からの分泌液により急速に溶解を余儀なくされ、足の痛みによりまず転倒する。そして共同して、体をゆっくりと消化するのである。この分泌液を飲み込めたものは幸運であると口伝されていて、それは強力な鎮痛作用の為である。腕を上げようと思って、何もなかったという状況を、恍惚に包んで、死を迎えることができる為である。運が良く、足を捥がれただけで生存できた探窟家が少ない為に、報告が少ない。こういった場合、公的機関としての調査は行われにくいのが常である。ひとえに彼女たちは、ウマ娘であるが故に生きながらえたといって良い。このとき、なぜ、とか、どうして、とか、そこから答えを得て、行動に移す、彼女らはこれを省略して、何も考えなかった。ただ走っただけであった。靴の底が歪に侵食されているのを見て、二人は可笑しくなってしまった。彼女たちは疑いようもなく、自分がどこかで死ぬと思っていたのだ! どこか、遠い未来に!
あれで死ぬのはごめんだ。笑いながら、彼女は大切に抱えていた卵を湯の中に落とした。ざらざらした岩を置いて、靴底をならしているマンハッタンカフェはそれに答えないのだけれど、自分のいる地面をもう一度見て、それが致命的な明かりを持っていないか、確認した。茹で上がった卵は、養殖の鳥とはまた違って薄味であったけれど、塩を振りかければ元は卵だから、それなりに美味であった。アグネスタキオンは卵は真に一個の細胞である、という話を、半分かじった卵を見つめてマンハッタンカフェにした。その、半分になった卵は彼女を思索に追い込む。
「……私たちは」
「はい」
「今、いくつかの命を食しているけれど……例えばオースの街で食べたもの、あれらは誰かが奪った命の結果、その享受というわけだ。命について何か考えたことはあったつもりなんだが、こういった感覚は知らないな」
「……たしかに、そうですね」
茶葉の中に沸かした湯を入れると、つまり茶になる。それを一口飲んで、マンハッタンカフェはアグネスタキオンの方に体を寄せた。快適な気候だった。彼女たちの思考はだんだんと単純になっていって、どうも自分たちにはこの先にしかいけない、ということを示すようである。二人は変遷を得たことを認めなければならなかった。
それは紛れもなくエリカの所為だった。二人は空恐ろしくなった。自分がどれくらい変わってしまったか、どの方向に変わってしまったか分からなくなってしまったから、隣にいるもうひとりが誰であるか、そんなことがだんだんとぼやけて、次第にひとつの塊になっていく。アグネスタキオンは思わず目を逸らした。彼女は今確かに、知らないということを怖がっていた。それでいい、彼女は確かにそう言っている。手の、指先。そこが確実に冷えていっている。断面に塩を振っていなかったから、逃げるような二口目はとても簡素な味で、とうの本人はあまりそれを感じられなかった。二人はひとつづつ卵を食べて、殻を洗って、地中に埋めた。近くの落枝を刺して、埋葬の代わりにした。
ふとみた深度計は既に千メートルを越していて、それは二層への合図でもあった。彼女らは出立して、そこからしばらく喋らなかった。しかし確かに、彼女たちは命を享受していった。特に大変なのは肉食動物を食べる時であった。ナキカバネ(三つの目を持ち、死者の声を真似て獲物を誘き寄せる厄介な怪鳥である)やスミガワリ(死者を利用する、という点では変わらないが、利用する部分が違う──外皮である。が、蠍のような体躯をした生物本体の肉は非常に美味である)、この辺りの危険な輩を狩るには、彼女たちの走行能力などというものは特段何の役にも立たなくて、代わりに森の奥の方、彼女たちが主に進んでいた外周付近はそこまで獰猛でない獣が多い──あくまで、多い、ではあるが。暗がりを増した森の中で、彼女たちは二回眠った。森が地上の光を遮っているのも一因であるけれど、それ以上の何かを二人は感じ取っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
三回目の起床であった。目の前のもうひとりに命があることへの安堵、それは何か他の面倒ごと、厄介ごとをほんの少しだけ鎮圧して、幸福で満たしてくれる。この幸福に、アグネスタキオンは最初吐き気を覚えたものだが、次第に彼女の身体は何の反応も起こさなくなっていった。ひとしれず彼女は寂しくなった。
寝具を片すのはきまってマンハッタンカフェであった。自らの分はと食い下がったアグネスタキオンなのだけれど、それを認めた次の日、そうしようとする彼女を手で制したものだから、神妙な笑みをして彼女は受け入れなければならなかった。私に、一体どうしろと言うのだろう。
マンハッタンカフェをオースに置いていくことは可能だった。だからこれは彼女のエゴだった。彼女たちは互いに、自発的に、隷属していた。儀式のような行為。礼拝のような仕草。其処には予測された音が流れている。
「──ん」
その、予測外の音、それを捉えたのはアグネスタキオンであった。森林部を抜けて中心部へ向かおう、という話が昨日にあって、彼女たちの就寝場所は二層の半分を過ぎたところ、森林部をそろそろ抜けかかる頃であった。その近くには滝と、平原があるらしいことを二人は確認していた。たまの人間の悲鳴……それは彼女たちをひどく苛んだけれど、最も驚くべきことは、それ以外の、人の音であった。
「……んン、
「もう遺跡も見えないじゃん、ここは有っても四級でしょ」
「そうだなぁ、でも遺跡は掘り尽くされたろ、今更
「またルート外れる気でしょ、いつか死ぬよ」
他にも微か、彼女たちは会話のかけらを耳にしたけれど、それきり男女の、おそらく探窟家らしき声は遠ざかっていった。二人はその声が、完全に聞こえなくなるのを待ってから、ようやく息をついた。青笛の探窟は二層まで、という情報が、エリカの声を伴ってマンハッタンカフェに再生された。声が、とても懐かしかった。小柄な体にはやや似合わない、少しハスキー加減がある声。──わたしと、タキオンさんの、どちらでもない。そんな感想。
「青笛だろうかな」
「さぁ」
その受け答えに意味はなかった。これも、アグネスタキオンらしくないことであった。彼女は常に意味を求めていたからだ。彼女は彼女自身の、もっというならば人間の部分が自分の思っていたよりも、もっとアメーバ状に広がっていると信じている。だからこれが、アグネスタキオンらしくないと断じるには多少の無理がある。彼女は無意識を信じているからだ。だからこそこの受け答えに意味はない。何かきっかけを起こすこともない。大きな意志。何だろうか。
「行くかい」
「……行くなら」
二人は先日燻製にした干し肉を丁重に食べて、手早く寝具を片付けた。珍しくアグネスタキオンが加勢した。マンハッタンカフェがそのあたりを受け入れた、初めてのこと。二人はここで変化をした。見立て通り森はほぼ終わりを迎えようとしていて、二十分も歩行した先には、うねりを伴った地面の棘、その乱立が平原の上にあった。草原に混じって見たことのない植物がそこかしこに群生している。助けを求める声が遠くから、幽かに聞こえる。ひどく機械的な声で、彼女たちは近づこうとして、やめた。その声が死人のものであったからだった。この草原はアビスを端的に表すのに相応しかった。選択を間違えることが、それがたとえ些細なことであれ、問題なく簡潔に生命を完結するに至る。今呼吸をすることの正しさを彼女たちは疑った。だが最も怖いのは、その選択が、何のためだかわからなくなることだ。
たのしいな、ここは。アグネスタキオンはつぶやいた。彼女は驚いて、自らの口を閉じた。それは怯えともいえた。彼女は怯えていた。支えを失って、倒れそうになる彼女の体をマンハッタンカフェが、背中に手を当てて支える。アグネスタキオンは彼女を睨んだ。アグネスタキオンはすぐ自意識を取り戻した。けれど手繰り寄せた自分自身は確実に変形している。やはり彼女はこれが、恐ろしいようだった。だけどそれだけでは、なかった。
二人は一先ず、とにかく下へ向かった。強調されたいつもの、フォーゲッター、不動。どれも慣れない単語たち。その中で遺跡、それが、彼女たちを惹きつけていた。もう赤笛を捨ててしまったから、厳密に判断すると二人はもう、探窟家ではない。だから、深度百五十メートルあたりで起こったいざこざの、もっとひどいものを避けるために、なるたけ開拓された探窟ルートを通らないようこれまで過ごしてきたのだけれど、やがて見えてくる、それは久しく通る整備された道である。石煉瓦で形作られていた一層に比べて二層はまだ畦道のような素朴さが残っていたが、彼女たちは明確に気分の下がるのを自覚した。笛をつけていた頃とは違って、今度は真面な帽子を身につけていたから(耳に負荷がかかるので偶に外している)、たとえ行き交っても彼彼女らなりに事情を補完してくれる。原生生物に取られたとか、そういうものである。だから彼女たちは、やはり気分が上がらないのだけれど、ある程度の安全をもちながら、アビスを見た。草原はやはり、中心部に穴が空いていて、しかしまたすぐ下に塞がっていた。奇妙な木の生え方であった。それは明らかに天井らしき部分から生えているようであったから。
「逆さ……」
「自重をどうやって支えるのかな、あれは」
咽頭だろうか。マンハッタンカフェは自然に、アビスを人に見立てていた。より深いところ、マンハッタンカフェはそこにアクセスする方法を生来から知っている。目を閉じると、まるでどこにでも飛んでいけるようである。微風の存在が強調される。それはそれは彼女にとって貴重な知らせである。声をかけてみる。そっぽを向いている。もしくは泣いている。
二人の少女……
「──逆さ森って言ってねぇ」
地面が無くなったかのような悪寒が、二人を芯まで、瞬きのうちに冷やした。アビスの本性、その大部分が顕現して今、自分たちの旅は終わるのだ、とさえ感じられた。その名の通り、木が逆さに生えてるんだ、この下にはさ。陽の光が彼女たちを溶かす側から、後ろの声、そのフォルマントの余韻ひとつひとつをもって、固められていく。振り向いて、その姿を見ることを、まず彼女たちは決断しなければならなかった。
修行僧、という感想が二人にまず浮かんだ。それは頭部に被っている、笠のようなものから連想されていた。しかし通常の笠と決定的に違うのは、その重厚感である。顔まで覆い隠されていて、中にいる人? の表情は窺い知れなく、ただ佇んでいる。アグネスタキオンが戦慄したのは、この、嫌な、院長のそれとはまた別種の空気、それを、背後の間近に迫るまで悟れなかったことである。
「誰だ」
「初対面ってのにつれないねぇ。まいいけどさ」
中性的で、無機質。
「きみ、いくらか殺したろ」
動こうとして、動けなかったのは、マンハッタンカフェの方だった。アグネスタキオンは銃をつきつけられたかのような吐き気に、指一本でさえ自分の意思を言い渡せなかった。はやいねぇ、流石ウマ娘といったところかな。のんびり、ではない、ただ単に遅いだけ。だけれどその動作の一つ一つは巨岩が動くことに等しい、そうマンハッタンカフェは感じた。また、マンハッタンカフェは戦慄した。滑落亭で出会ったギャリケーと名乗っていた奇妙な女性、彼女に不覚を取った、そして逃げられなかったのは、偶然であると心中で片付けていた。それよりももっと大きい問題の中に次第に消えて、曖昧になっていた。探窟家だ。彼女はそう確信した。それも、本物の。
「気軽に、口に──」
「君には聞いてないよ」
マンハッタンカフェにとって、自らをガキと呼ばれるのは初めてのことだった。するすると力が抜けていて、立つというより、どちらかと言えばただ自立しているだけであった。
「……誰だ、きみは」
アグネスタキオンが問うた。彼女は嘘が得意だった。自分への嘘が。
「……へぇ。ま自己紹介は後にしよう、君らもっと下に行きたいんだろ」
ついてきな。結局この人物は人相も明かさずに、唯背を向けて歩き始めた。二人は目を合わせた。互いに、迷いがあった。多種の感情、それらは混ざってパレットの上に、黒色になっている。端に、混ざり合えなかった、赤色、水色紫色が残っている。マンハッタンカフェがカンバスを持った。アグネスタキオンがそれを筆で貫いた。
そういうことじゃない。アグネスタキオンは無音で叫んだ。頭を掻いた。彼女はだんだんと、わかっていたことすらわからなくなっていった。
「大丈夫ですか」
「……すまない」
アグネスタキオンは自分の喉仏、そこを少し押して喉を動かすと、弱々しいけれど自分の足取りを取り戻した。何も言わないけれど、彼女はあの、銅像のような人物を追うらしい。マンハッタンカフェも、それに続いた。
今日もアビスは綺麗だった。
それは彼女が声をかけられてからずっと、抱いている恐れ、そして疑問だった。